スタジオ@CAT&COIN

初投稿から休み休みの4年目。でも社会人1年目。アウトプットツールなんかじゃない、掃き溜めボヤキのあいてい道具。

4年目も休み休み頑張ります(明日仕事納め)

2009年12月28日 | 日常趣録
 こんばんは。年末の夜の達人です。

 一年以上放置して、そして誰もいなくなった。。。後にひっそり復活してみます。
 以前の記事を投稿した時から周囲の環境も大きく変わりました。まず社会人になってます。

 まず、といっても前回投稿から今日に至るまで、修士論文を書き上げ、面接をし、修士号授与式(と書いたが一般的な卒業式だったりする)を経て、入社式、研修、配属とありました。

 実は明日で仕事納めだったりする訳ですが、忙しさを言い訳にブログ更新がダンボ状態でしたが、色々と内外に触発されまして書こうと思った次第であります。

 仕事にハマったり、中毒になったり、既婚者であれば家族の相手せずに。。。までいってしまう人の気持ちも金魚のフンくらいわかるようになりました。

 とはいえ、そのままじゃいかん、なし崩し的に時が流れてしまうと、触発されたきっかけもあって再びタイプしています。自分の筆力であれば、今ならtwitterの方が適切なのかもしれないが、休み休み初投稿から早4年。(休みの方が長いけど)捨てるのももったいない。
 
 二年目のテーマや目標はまだ定まっていないけど、鉄は熱いうちになんちゃら。年明けから開始というのが切り良いのだろうけど、ここは思い立ったが吉日。まずは週刊レベルでも良いから続けてみようと思います。

 出来るビジネスマンならアウトプットのツールとしてのブログになるのだろうが、現状の自分ならつぶやきならぬ掃き溜めボヤキのツールとしてのブログがちょうど良い湯加減でしょう。

 まずは宣誓の投稿。
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僕のご両親

2008年11月28日 | 自悶自到
 芸能人が結婚してどんな家庭にしたいですか、という質問に対し、月並みな回答もあれば個性的な回答もあります。

 家庭に求めるものは新婚夫婦を主とする構成員が各自の希望を反映させてしかるべきであり、それが理想的でしょう。
 個人の好みとは別に家族社会学の見地では、家庭に求められるものが過去から現在、そして未来へという歴史的文脈の中で、社会や文化的影響を受けながら変化していくことを提示する。


 したがって家庭というものに対して一般的に必要とされるもの、すなわち家庭という場が適切に機能する上で必要不可欠な要素というのがあるのではないかと。


 そこで、よく言われるのがコミュニケーション。殊、最近はコミュニケーションの重要性がどこにいっても付きまとう。

 最近目にした本の中に
 「家族の中での対話がコミュニケーションの優劣に影響を与える」という記述があった。
 つまり幼少期を含め、人間にとって家族というのは自分の話を聞いてくれる最大の存在でなければならないとしている。


 幼少期であれば、学校であったことや友達のことについて喜んで両親に報告する。
 ではある程度、大きくなったらどうでしょ?


 小さい頃は躾のために親が子供に多くのことを言って聞かせたり、諭す必要がある。子供は善悪の区別がつかなかったり社会常識を知らないが故に、これは必要である。子供は理解と納得を求められる立場であり、それに対して対等な議論ができる立場ではないと思う。したがって親から子供へという一方通行のコミュニケーションである。

 これを否定するつもりはまったくないが、問題はこうした躾という親から子供への一方通行的なコミュニケーションに終了はあり得るのか、そして躾が「ある程度」できた時期において、躾と躾でないコミュニケーションを親は明確に区別して子供と対話できるのだろうか。


 と、こんなことを、最近うちの両親と「対等に議論」したのであります。

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酒と泪と男と楕円球?

2008年10月13日 | ラグビー関係
 男の幸せには楕円球だぜ。

 週に一度のラグビーloveな集まりが、週末に一度の楽しみ。ちなみに年に一度(から数回)の楽しみがライブね。

 そのチームが設立1年半を経て、二回目の合宿もいい感じにできて、でもそれなりに負傷者も出してしまった。
 それについて少し「怪我させちゃって、悪いなー」という気持ちがあるけど、それがラグビーっぽいところだし今は早く回復して一緒にプレーしたいね。

 そして合宿を終えて
 最初はその気がなかったけど、上手くなっていくうちに、ヤル気がムラムラとしてくる男の気持ちでしょうか、チームが次のステップに行く岐路が近づいてきた。

 協会登録を経て公式戦に出るか否か。
 
 公式線、つまり協会主催の試合に出ること。

 けど僕としてはそれに何らインセンティブはない。
 金銭面もそうだけど、それ以上に組織的な負担が大きい。

 学部時代に所属していたチームは関東学生クラブというリーグの中でも部員数はトップだったし、自分でいうのも何だが人的スタッフにも困った、ということは少ない方だと思う。先輩達が築き上げて、そして残してくれたものが沢山あったし。そうした意味で組織的な不自由さについては全くのヴァージンな訳なんですね。

 けどかつて協会の業務に携わっていた時に、そうした協会内でやっていくことの億劫さは嫌というほど見てきたし、体験もした。文字通り、チームが一丸となって立ち向かっていかないと難しいんじゃないかなと思う。


 だから今が幸せなラグビー好きの集まりが公にチームと名乗ることに、そんな大きな意味ってあるんだろうか?
 綺麗言かもしれないけど、パフォーマンスだけでなくチームの組織力が試される(という謳い文句の)協会登録と公式戦を目指すことで、チームがより一丸になれば理想的。

 けど、そんなに何でもかんでも、より発展させる、ということだけが正の評価を受けるものなんでしょうか?
 より高度化していくこと以外にも、何か選択肢はないものか?


 僕としては、発展していくことよりも、持続していくことの方が好き。
 勝つことよりも、このチームでラグビーさえできれば、何だっていいと思う。究極的には。


 グランドが多少いびつだろうが、ラインが薄かろうが、ゴールポストが曲がっていようが。
 公式戦じゃなくたって、数ヶ月に一度、どこかのチームに練習試合を申し込んで、どこかでできれば満足だし。


 発展段階的にいえば、このチームでラグビーがしたい→試合をしたい→勝ちたい
 となる。僕は第一段階で十分満足なんだけどね。保守的なのか、欲がないのか、どっちなんだろうね?



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彼方の世界からの帰還

2008年07月04日 | レッツ、ブレイン!
 PC-9800シリーズの競争優位と80年代の日本パソコン産業における技術間競争について研究しています。

 PC-9800シリーズは80年代、まだWindows OSが普及する以前に、日本のパソコン市場で国民機とまで称されたNECが開発した独自規格の16bitマシンです。

 当時は現在のようにパソコンが一家に一台という時代ではなく、当初はマニア向け(ホビーユース)として発売され、その後16bit機種が80年代初頭から発売されるにつれ、ビジネスユースへと移行しつつあった(具体的にはアプリケーションソフトの充実が大きな契機にもなっているが)。


 この分野、意外と研究されているようで、実はされていないような気がします。
 競争優位性とアカデミックに問わなくても、今日の総合誌よりもやや情報の質が専門誌に近い日経バイト(コンピュータは入るか?)、アスキーなど、新製品発表などのたびに特集が組まれ、分析がされていた。

 もちろん産業の発展論という立場などから日本のパソコン産業を考察する論文もあるが、やや研究論文の本数としては少ないという印象が強い。


 そこで今の研究では、80年代の日本パソコン市場におきた技術革新と、それが経営学的に(技術戦略的にor社会的に)どのような意味をもつのか、また一般的にPC98の競争優位性であった互換性、補完資産など、”技術的な視点から”分析しようというのが現在の研究テーマである。また当時のNECのとった意思決定が技術戦略の理論やイノベーションマネジメントの視点から見ると、どのようなことがいえるのかも考察している。


 この視点はあの事実と適合する、適合しない、だから前提条件や仮定を変更して、どうたらこうたら・・・頭の中で、ロジックや理論というパズルと(自分の場合)80年代の日本パソコン市場におきた史実に、どう組み合わせるか、そんなことだけで一日が終わってしまうのはよくある。

  自分はいったい何を研究しているのか、時々自己点検しないと路頭に迷ってしまう。

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そして僕は今日もぼやく・・・

2008年07月03日 | 自悶自到
 大きな声じゃ言えないけど、時々
 「俺、なんで大学院に進学したんだっけ?」と思うことがあります。

 社会科学系の学部や一部理工系の場合、論文の共同執筆や共同研究があるようですが、私はひとつのテーマに対して複数人で研究をしたことがありません。

 研究は孤独です。今後、博士後期課程や正規の研究者になれば別だろうけど、研究者の基礎を構築する修士課程の時期は孤独であります。


 だから、時々周りが見えなくなって根幹が揺らぐことがあります。
 
 元々、大学三年生の時から「ゼミ」という形で始まり、現在の専攻分野(技術経営・製品戦略・イノベーションマネジメント)に触れた。

 面白いと思った。経済学ほど抽象的なレベルでもなく、商学ほど大きな視点でもなく、具体的な製品(製鉄から自動車製造、マイクロエレクトロニクスからウォークマン、iPodなど)を中心に、その周囲(開発企業、ユーザー、社会・経済システム)との関連を学ぶ、非常に興味深いテーマであった。


 惜しむらくは、当時は生活サイクルの中でもラグビー重視型であったので、研究テーマに「どっぷり浸かる」ことはなかった。

 そこで
 「じゃあ、学部卒業までラグビー、それから研究やろう」と単純に思った。

 そのときは希望と野望に燃えていたが、今そうした生活が当たり前の日常になってくると、エヴァの劇場版よろしく「じゃあ、なぜ私はここにいるの?」と冒頭の疑問が頭を過る。



 甘ったれたことをいえば、ある種の執行猶予的性格をもった時間を与えられたと思っています。3年前に、社会に出て働くことを選択しなかった自分への。

 その分、少しは真人間になれりゃええかなと。
 大学院に入ってから「出世払い!出世払い!」というフレーズを多用するようになったのも、少しは執行猶予中の意識の現れかなと思う。
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SNSの日記とブログの記事

2008年07月02日 | レッツ、ブレイン!
 SNSとブログを並行しています。  

 どちらもパーソナルメディアとして個人の意見を発信する場であります。
 けど、SNSの場合、「日記」であり、ブログは「記事」を書く違いがあります。  単に表記の違いだけなんだろうけど、某SNSの日記は読者のコメントがないことで不満を覚える人もいるようです。  


 まあ”日記”を”公開している”時点で、本来は他人に読まれたくないはずの日記がネットを通じて(SNS内という制限はあるにせよ)誰もが見れるんだから何か違和感・・・。  


 もちろんブログの記事(エントリ)もソーシャルネットワーク的な繋がりがあって然るべきだんだろうけど、自分の場合は両者に対してある程度の使い分けはある。  

 SNSの日記は今や生存確認装置的な使用に留まっている。から自分の行動・感想の報告はそちらが担当する。  

 一方、自己思索ワールドのような、その時に思ったこと、考えたことはブログにしている。これは将来の自分が一番の読者になる可能性が一番高いため。  


 だから、ブログの方は長〜いメモを取っているつもりで書こうと思います。
 

 あと半年ぶりに復活させた本当の理由は・・・・
 キーボード叩いて文章を考える習慣が久しくなかったので、修士論文に向けてタイプ&シンキングのベースを作ることです。

 (要は次の大会に向けての筋トレのようなものw) 
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ラ式回想録1〜体育会的文化論〜

2008年07月01日 | ラグビー関係
 ラグビーの場合、特に身体の接触(コンタクト)があるから、中学時代に優れた運動神経があったってぶつかり合いじゃ先輩にとてもかなわないわけです。自分はFWだから、なおさら。

 二つ上の先輩が兄貴と同じクラスで名前だけは入学前から知ってた。体育会的文化として先輩を「敬う」性分はあるんだけど、その人にいたっては「畏敬」といった方が正確。

 未だに忘れられないのが、夏休みの練習で足を挫いて、翌日になっても痛みが引かないから練習前に
 「先輩、自分は今日、足首が痛いです」
 んで、靴ひもを結びながら先輩は
 「ふーん、それで?」
 
 はっきり痛いから休ませてくれといえば、それで済む話なんだろうけど、体育会的思想に基づいて
 『みんな連日の練習で身体はどこかしら痛むのは当たり前。お前だけ休むつもりなら、所詮は痛みに対してその程度の忍耐しかないんだな』
 と拡大解釈した。

 んで、びびって出てきた一言が
 「いえ!それだけです!今日も宜しく御願いします!!!!」

 もちろん炎天下の練習だし無理は厳禁だけど、一番無茶ができる年頃だから、自分の肉体的な限界がどこなのか知ることはできたかな。だからギリギリに近い要求が3年時にできるようになった。まあ、当時の後輩は大変だったと思うけど。



 自分の限界までいったことないのに、他人に対して(部活だったから後輩)どの程度まで要求すべきかなんてわかりっこないよね。頭でも身体でも己の身体感覚に基づいた判断って結構あてになると思う。生理学的な新書の受け売りで判断するより、よっぽど。

 
 こういう体育会的なノリって「自分の苦労を後輩にも踏襲させる悪しき伝統」と邪推されがちだけど、全部が全部そうじゃないと思っている。問題はそうした限界に近い経験に対して自分なりの意味付けができたかどうかによるんだと思う。

 体育会万能じゃないけど、現在はそうしたところじゃないと経験できなかったことが、昔はもっと存在したんだと思う。
 自分一人じゃそうした経験を積むのは難しいのかも。だから「赤信号、みんなでー」じゃないが、キツい経験ほど仲間と一緒に乗り越えよーぜ、それが絆だぜ。

 こんな一番単純だけど強い人間関係が構築できるんだと思う。

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ラ式回想録

2008年06月30日 | ラグビー関係
 スポーツにおいて
 強いチーム=いいチームという関係が必ずしも成り立つ訳じゃないと思う。

 いいチームの定義が何かによるんだけど、私の定義なら参加しているメンバーの顔を見れば分かるのでは?
 自分の場合、少なくともこの定義に当てはまるチームに現在参加している。幸運にも!


 高田◯場ノーサ◯ドクラブといいますが、不思議なチームです。
 自分は高校、大学とラグビーに携わってきた。両方とも学校所属のチーム。
 

 右も左も分からぬ高校時代、頭で考えるより先に身体を動かすことが優先された。そりゃ一番元気な年代だから、そんな無茶もできた。肉体的限界、一度はそういう極地に片足でも突っ込んでみるのも、その年代でなければできないことだった。

 久しぶりに書いたら詰まりそうだから、今回はここまでで。
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飛び立て、深夜の並木道へ

2008年03月18日 | 自悶自到
 ところ変われば、人間のやる気も変わるもんですね。

 先日、所属するチームで初の対外試合を行いました。
 といっても形式は11人制のハーフコートだけど、初試合は初試合。

 未経験者の方を中心に出したため、15分×3本のうち、3本目のみ出場しました。
 チームとしての結果はさておき、個人的には、やはり前回に試合に出た2007年6月より身体のキレが悪くなっていることに愕然としました。

 そうした身体変化の微妙なズレを知覚できるうちが華です。このままじゃいけないと。

 試合翌日からVAAM飲んで、夜にロードワークをするようになった。ペースとして一週間に二回程度。時間は当初は60分だったのが、二回目は70分、三回目(昨日)は80分だった。

 心肺機能の向上より身体のキレそのものを取り戻すことを重視したペースだから、二回目以降は膝にも大腿部にも負担はなく、翌日から筋肉痛に悩まされることもない。


 ふと思ったのが、こうして意識的に走り出したのが、大学時代ははっきりいって皆無だった。もちろん練習頻度や強度の違いもあるんだろうけど。学部時代の方がはっきりいってチームとしてのパフォーマンスは高い。人数も多い。であれば、当然スタメンに入る競争も激しい。だのに、こうした自助努力をしなかったのだろうか。


 考えた末に、とりあえず辿り着いたのが「チームへの愛着の違い」ではないかと。どっちが好き嫌い、という次元ではないが、学部時代は明らかに「チーム、組織の一員」という意識に欠けるものがあった気もする。

 もちろん、裏方の仕事を多くやった。けど、組織を運営するという立場上、チームを客観視したり、離れた場所から全体を見渡す役柄、自分自身がプレーヤーとして組織の一員という意識が希薄だったのではないかと。

 でも、そう考えると今のチームもヘッドコーチという立場上、全体を見渡す必要はある。んじゃ、この愛着の違いって何だろう?少なくとも、今のチームの方が「もっと俺がしっかりできるようにならなきゃ」という意識が強い。以前は「俺が試合に出れなくても代わりのプレーヤーはいくらでもいる」という考えが、プレーヤーの自分にあった気がします。

 正直いって、今のチームであれば、パフォーマンスをスタメンの選出基準にした場合、確実に出れます。でも「もっとしっかりしなきゃ、このままじゃいかん」という意識が強い。

 こういうのを「リーダーシップ』というのか、「オーナーシップ」というのか、分かりません。けど確かなことは、今のチームを盛り上げ、より良いものにするために、自分がもっと走れるようになることが不可欠だと考えている。


 組織における自分のレベルがどうであれ、自分で自分を律することを率先させてくれるチームは素敵だね。

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日本人、とおりゃんせ

2008年03月14日 | 日常趣録
 ひっそりと更新します。

 昨日、「能楽事始」と題した能と狂言の舞台を鑑賞に行きました。
 場所は千駄ヶ谷の国立能芸堂です。

 友枝氏を始めとするメンバーが日本伝統芸能を学生にも触れて欲しい、という趣旨で開催された企画だそうです。
 といっても東大で氏が務める能楽のゼミの学生が委員会をいわば、学生対象とした学生運営の学生企画です。

 順序として、まずはスタッフと司会者(?)による能と狂言に関するレクチャーがあり、その後、まずは狂言から始まります。驚いたのがブザーがなって学生が着席してから開始まで長い長い。

 小学校時代に先生が「みんなが静かにするまで話をしません」というアレかと思った。けどそれ以上にブザーから開始まで長かった。その長い「間」のようなものが生み出す静けさが、独特の緊張感を作り出していた気もした。
 いや、あれだけ長い時間を、そもそも「間」と呼んでよいのかさえわからないくらい長かった。恐らく初めて狂言、能楽に触れる学生は全員そう思ったんと思う。その意識があれだけ緊張感のある空気を生み出し、その中で厳かに演目が始まったんでしょう。

 「荻の花」という名の演目だった。狂言は私なりに解釈すれば「古典芸能的漫才」。台詞は「古典」の時間にならった感じ。事前にあらすじ入りの台本を配布してあったせいか、こまかい助動詞なんぞはチンプンカンプンでも「意味」はわかった。台詞の声調にも高低があり、歌っているよう。そして古典作法なのか大げさな身振り。もし狂言通りのコミュニケーションの時代があったのなら、「なんてノン気な、でもなんてユカイな」対話だったんでしょう。日本伝統芸能のユーモア、ここに極めり。

 
 次は本番の能「隅田川」。はっきりいって難しい、よく分からない。そうした意味では狂言以上に事前学習を必要とします。ある意味、オーディエンスに教養が求められているのかなと思った。狂言と対照的に日本の古典的な情緒のさじ加減といいましょうか、演じ手の技術やオーラもあったせいか、少なくとも聞き手の背筋が伸びる空気があった。

 パンフレットにも記されていたのが「知ったかぶり」をしないことが一番重要だそうです。
 俺にとって耳が若干痛い言葉だったけど(笑) 楽器やかけ声、合いの手、コーラス隊、仕草など、その作法や型の細かさ、厳しさは、ある程度、素人にもわかった。それぞれの作法や型にどんな意味が込められているのか、皆目検討もつかないが、それだけ入念な訓練と仕込みが必要であることだけは理解できた。

 かつて日本人もこうした芸能に対面するだけの素養やあったのだろう。今日まで脈々と継承されている芸能の堪能でき得るだけの感性こそ、国際社会、グローバル化が進む時代に求められる。と藤原先生ならこうまとめるのかな?

 英国が騎士道なら日本は武士道である。ドイツにオペラがあるなら日本にも能、狂言(ほかにもあるが)がある。オペラもいいけど、その前に能や狂言がわかる日本人になりたいね。少なくいとも私は。

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ごめんね、僕は弱かった

2007年10月24日 | 自悶自到
 2年前の記録をみて久しぶりに思い出したフレーズがありました。


 誰かのために夢中になれたら素晴らしいこと。
 誰かのために頑張れるのは素敵なこと。

 ある友人が昔ブログで書いた言葉です。
 同じ年なんですけどね。信じられません。人生達観してる雰囲気すら漂ってます。


 でも偽善とかじゃなく本当にそう思います。

 普通の人は自分が好きです。まあ、嫌いになる時もあるでしょうけど、僕も自分は好きです。
 だから自分勝手で自分の想い通りにいかないといい気分にはなれません。
 我が儘な自分のために費やすエネルギーが一番って思いがちです。
 自分が好き勝手したいから、そのために何か辛いことでも耐えるような。


 でも誰かのために何かをしようとするエネルギーは本当にバカになりません。

 得体の知れないパワーをもっていると思います。
 そういえばドラゴンボールの最終巻でベジータが悟空の強さの秘訣を「守りたいと思う心が得たいのしれない強さを生み出す。」といってましたね。


 たとえば親の子に対する愛情とかどうでしょう?
 本当に誰かのために費やすエネルギーっていうのは絶対に見返りを求めていないように感じます。
 まあ子供の健やかな成長の喜びが見返りと呼べるのかもしれませんが。



 でも言い換えれば、自分が何かを行動する大義名分に対してそれだけ自信もてなかったり、結局は自分が弱かったりする場合も多いです。 自分がまずそうでした。
 「○○がやれといったからやった。」「やらないと○○○が困るから仕方なくやった。」こんなのばっかり。
 
 よく自分も使ってた大義名分です。本当に多かった思う。 今もなきにしもあらず。



 特に2年前の自分に多かったのは「自分がやらないとチームが困る。」という自分への誤魔化し。
 エネルギー源としてはかなり消極的な発想ですよね。


 好きだからやった、というのはありません。

 当時「いつか自分のためになるさ!」とは思っていたものの、やってる本人には説得力をもたなかったです。
 多分逆の立場なら「いつかはやっててよかったと思えるさ!」と励ますでしょう。

 でも上述した親の子に対する愛情じゃないけど「意識していない見返りはすぐに分からない」ものです。いやすぐにわかったとしても本人がそれを見返り=リターンとして自覚するのは難しいのでしょう。

 もちろん私もまだまだ未熟で弱い人間ですから、なぐさめてほしいこといっぱいあります。「大変だね〜」とか「頑張ってるじゃん!」とか「お前が必要!」とか「いたからなんとかできた」とか、そんなのばっかりです。

 
 でも・・・最初の言葉。
 誰かのために夢中になれたら素晴らしいこと。
 誰かのために頑張れるのは素敵なこと。

 これを書いた人、かつて自分と似たような立場だった人なんです。
 しかも同じ年で同じ穴に生息していた人なんです。

 ちょっと生き方にシフトチェンジできそうな気にさせてくれました。
 これが気づきの言葉。


 僕の大義名分は本当に他力本願で、ある趣、責任の居所を転嫁して、自分の外になすりつけてきましたけど、だからこそ、やれたんだと思います。

 本当に自分のため!将来の自分の肥やしにするんだ!っていう意気込みで取り組んでいたら、間違いなく、絶対に途中で挫折していましたね。確信もてます。

 あの時は、それだけ凹んだり、うっぷんのたまる日だったんですけど、もうちょっと他人に甘えられる生き方をしたいですね。
 
 この言葉には叱咤激励されました。著者の方、ありがとうございます。

 そしてこういう言葉を、今頑張っている後輩に贈ります。


 まーいつかわかるって!ってすっかりお節介OBが板についたかな
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わかる?君の気持ち?

2007年09月14日 | 日常趣録
 もう誰も見ていないのかな?と思いつつ一人ぼやきを入れてみます。
 自分は以心伝心ってのは正直理想ではあるけれど、本当の意味で達成できることは極めて希有だと思う。つくづくそう思う。

 ラグビーやってた人間からするとね、人間呼び掛けなきゃ伝わらない、しかも相手に聞こえるように呼び掛けないと伝えたことにならない。
 ラグビーは1チーム15人います。バスケの三倍です。野球サッカーの約1.5倍です。それだけコミュニケーションが大事なスポーツです。一年生の時、先輩にコールしても聞こえないと「聞こえねーんだよ!」とよく一撃を頂戴しました。

 ラグビーの特性の話じゃなくって、そう以心伝心っていうとテレパシーとか口に出さなくても分かるみたいな、そういうニュアンスがします。阿吽の呼吸、という方がニュアンス的にも好きだし、決して高望みじゃない感じがする。

 人の気持ちを理解する。小さいころから「相手の気持ちになって」といわれない人がいるんだろうか。基本的なことだと思うけど、それんしては非常に困難。相手の気持ちがわからなくて、もしくは理解しようとしない結果、人類は憎み争いもした。

 ちょっと大げさになってしまったけど、体験したことない相手の気持ちを察する想像力。「自分がされて嫌なことは相手にもするな」まさにその通り。「自分が◯◯されたら嫌でしょ?」という前提条件を基に小さい頃、諭されます。まさにその通り。

 だけど、自分だったら、という前提条件って、実体験の蓄積によって構築される自分の世界が小さいと、結局は自分の世界から遠く離れた人の気持ちを理解するのは難解。

 自分の世界の枠からどれだけ遠くの世界まで考えを巡らせることができるか、これが本当の意味での想像力じゃないかと最近思います。そして遠くまで届くよう考えを引き延ばす力を支えているのが感性とかだったり。

 自分の世界で体験済みのことを基に相手の気持ちを察するのは、非常に困難、とまではいかない。簡単でもないんだけど。人生有限。だから実体験できる分量は当然限界があります。環境がゆえに実体験できない世界もあります。

 自分のもっている世界の小ささ。イッツアマイスモールワールド。はがゆいね。
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ロングバケーション

2007年03月22日 | 日常趣録
 卒業まで残りわずか、今年の早い桜開花はどうやら卒業という送り出しを彩ってくれそうです。

 本春休みは大学生最後ということで、卒業旅行やらで長期の旅行に赴く方も多い時期のはず。ところが、重い荷物とパソコン背負って、週三回程度は大学にてカタカタとキーボードを叩く生活はとても卒業を控えた学生らしくない!

 こないだまでぼやいてましたね・・・」\(TT。)ハンセイ・・・

 よくよく考えたら年が明けてから、短期分散型ではありますが、ちょこちょこと出かけていたことに気が付きます。

 年明け間もなく、10年振りに水上のゲレンデへ
 
 中頃には冠婚葬祭ものではあるが、豊橋へ
 
 2月に入って去年の夏以来に名古屋
 
 3月上旬にはスノボ旅行で長野県北志賀高原へ
 (ちなみに大学の友人と旅行するのもスノボも初体験)
 
 そして先週末からスポーツセンターの仲間とスキー旅行。
 小学校の幼馴染みがリゾートマンションを持っている(親がね)ので、利用させてもらった。
 
 何だかんだで、一番出かけてた春休みじゃないかと(笑)
 ず〜っと遊び惚けているより、メリハリがついていると考えることにしました。

 そして本日、ゼミ仲間が元在籍していた大学に、これまで購入した学術書関係の書籍を寄付するという話を聞いて「是非くれ!」と頼んだら快く「欲しいのあげる」と承諾してもらい、受け取りにいった。

 30冊程度を希望したが、分量を舐めていた。結局バッグと自転車のかごをパンパンにしながら帰宅。目下、整理棚をキボンヌ。

 ・・・いつになく自己主張や気づきのない内容になってしまった(笑)

 たまにはいっか!
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積読のすすめ

2007年03月15日 | 自悶自到
 昨日は部活に顔を出してきました。後輩に代替わりをして最初の練習です。
 小生は現役以上OB未満という何とも微妙かつ都合のよい立場で参加してきました。

 練習きつかった・・・けど意外と持った(笑)まだまだ若いもんには負けんわい。
 
 打って変わって今日は研究下準備で図書館。4月から気になってるのが書籍代。
 大学生やった人はご存知の通り、同じ書籍でも学術書、とりわけ専門性が高くなればなるほど価格は高くなります。
 「規模の経済」の視点から説明すれば、それだけ購入者が少ない分野だから需給曲線にしたがって価格は上昇するんですね。

 しかも専門書は古いものだと「欲しい」と思ったときに、意外とすぐには手に入らないんです。
 そんな訳で、漫画本(最近は美味しんぼ)を含め、ブックオフに足こく通います。
 家の近くにあるんで、大変お世話になってます。買い溜めしております。

  雑誌の漫画とか基本は立ち読み派なんだけどどうしても途中飛ばしてしまいストーリーが抜けてしまう作品もある訳です。かなり昔のだけど。そんな時はブックオフが非常に役に立ちます。
  (講談社発行の少年誌に連載されていた某高校サッカー漫画もすべてここで立ち読みしました)

 漫画を読破したら次は活字。階段を上がります。ここでは自分の専攻分野のコーナーとか面白そうなのはすぐ100円で買っちゃいます。安いとついつい3〜4冊は平気に買います。むしろ特定の購入動機がない場合の方が、ホイホイと手に取ってしまいます。

 ところが、「そんなに読むの?」と聞かれれば「否(いな)!」。断じて「否」。

 すぐ読みません。いわゆる積読(つんどく)です。読破していない本があるうちに、また本を買うからたちが悪い。
ただ忘れた頃になって論文作成にすごく役立つことが多いです。
 目次だけは目を通してるから「そういえば、このテーマに使えそうな本を前に買ったよなぁ」ってなります。
 
 以前、人事労務に関するレポートを書く際に、たまたま2ヶ月前に買った「モチベーション論入門」という新書の中に、すごく参考になる部分や章があったのを思い出します。その喜びは何気なく買った時の気持ちとは次元が違います。

 積読の効用って賞味期限が長いです。すぐには読まなくてもいいからです。だから図書館で見つけた本を、隣の三◯堂で買いにいきます。ちなみに購買欲もそれなりに満たせるかもしれません。

 ただブックオフでも時々がっかりすることもあります。以前大学生協の本屋で「定価で買った文庫本」がブックオフの100円コーナーにあるのを見つけた時、怒りすら覚えます。

 したがって目下の課題は「研究経費」という大義名分を掲げて、いかに両親のスポンサー協力を得るかです。
 「大学院の研究に必要なコスト」として、いくらか援助してくれないかなぁ〜・・・
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手紙を書くのが好きになりそう

2007年03月08日 | 自悶自到
 こんばんは。今年は長足の暖冬が続いたせいか、気が付いたら春到来という感じがします。

 昨年8月末のブログにも書きましたが、今夜は楽しみの一つである「舞台鑑賞」して参りました。
 前回の池袋公演から約半年ぶりとのことで、恵比寿へgo。

 普段は舞台鑑賞を終えて感想を抱く訳だが、それは舞台・演出・演技など「あの演出がよかった」とか、「この演技や台詞に痺れた」とか。ベクトルは外向きなんですね。

 しかーし、今回は正直申し上げて、これまでよりもテーマが難しかったです。それは決して悪いことではありません。むしろ演じ手には莫大な訓練と高度な技術を要求します。もちろん観衆に対して「わかりやすさ」を演出するのもステージの良し悪しを決める要素です。ただ「わかりやすさ」は同時に難解な要素を理解容易なものへと変換する工程を要するため、同じテーマを伝えるのでも、相対的に分量の増加も同時に伴います。逆にいえば、観衆としての受け皿が優れていれば、難解なテーマをも享受し得るということです。そうであれば、同じ分量でも多くの難解な要素もの、充実したテーマに触れることが可能になります。

 という訳で、本舞台の感想は、いつになく「内省的」な色合いが強いです。ベクトルが内向き。
 
 「聞き手としての受け皿がまだまだ磨かれていない」
 「享受し得るだけの感性が育っていない」

 全員が同じ感想を抱いたとはないでしょうが、少なくとも小生のような若輩者には「即効性のあるエネルギー」は掴み得なかったのです。おそらく経験値の多寡により、まだ実体験とリンクする部分がなかったりするのでしょう。

 小生は4月から2年間、大学院にて研究学生という執行猶予の時間を頂きました。今回の舞台を通じて、改めて自分の感性=享受できる世界・価値観の充実化を、今後2年間は決して怠ってはいけないと、自戒せずにはいられませんでした。それは受け手としての楽しみの広範なものにさせてくれます。

 末筆になりましたが、そんな困難で意味深い、中身のつまった素晴らしいステージを演じきった劇団員およびスタッフの皆様におきましては、敬意とともに深く御礼申し上げます。
 最後まで無事にステージを終えられるよう、影ながら祈願して乱文を終えたいと思います。

 with great respect and thank you for substantial stage!
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