平御幸(Miyuki.Taira)の鳥瞰図

古代史において夥しい新事実を公開する平御幸(Miyuki.Taira)が、独自の視点を日常に向けたものを書いています。

キジ猫の凶相

2011-07-24 18:08:38 | Weblog
 風邪をひいて寝ていようと思ったら、中国でパクリ新幹線が追突事故で高架から落下のニュース。掲示板で情報を集め、眠りから覚めたら地上波の終了時間が刻々。ここはケーブルテレビが入っているので、東京MXというUHF以外は自動変換で見られるようです。

 前々回に少女漫画から引用したのですが、作家本人は意識しなくとも、いろいろとピコーンの材料が多いのです。『綿の国星』で有名な大島弓子さんですが、女史の愛猫だったサバは、おそらく太っていたご本人よりも大きく描かれています。猫に精神安定の依存を求めた結果か。それで猫を飼うというのは霊的にどのような意味を持つのか?コメント欄でおなじみのキジ猫さんがいるので書きにくいのですが、今回はキジ猫を俎上に乗せて書いてみます。

 しかし、僕にとってキジ猫は余り良い印象はないのです。というのも、15年前に癌で亡くなった姉が、亡くなる二年ほど前から野良猫のオスを飼い出しました。それが巨体のキジ猫で、外でノミをもらってくるので、僕は被害にあったことがあります。猫ノミは人を喰わないというのは俗説で、僕のように皮膚が薄いと喰われます。

 姉は癌が発覚する前から酷い精神状態で、僕から見ると、ほとんど呪われて発狂したようにしか見えませんでした。実際、呪われていたのだと思いますが、呪われた原因は「神の役に立たない」ということです。根っからのミーハーで、教会長にほめられるために活動するタイプです。そこには、敬虔な信仰も、人生の深さを理解する知恵もないのです。

 人間は神を証しするために生まれてくる。何らかの才能がある者は、才能を発揮することで神を証しできる。しかし、特別な才能がなくとも、神の教えを守り、神の後をついて行くことで神の証しとなるのです。でも、過剰に芸能界に関心を持ったり、誇りや見栄で飾り立てたり、怠惰に流される者は、神とは反対の存在を証しすることになるのです。

 神という存在を知りながら、神の使いや預言者に反発している者は、やがて孤独という地獄に落とされます。老人の孤独死は社会問題ではなくて、個々の老人の霊格の問題なのです。神の教会を求めず避けていたのですから。そのような孤独の兆候の一つが、僕はキジ猫ではないかと感じるのです。キジ猫は大概大雑把で、三毛猫のような賢さや白猫のデリカシーはありません。その性格が、神から捨てられた孤独な魂には慰めとなるのです。

 神を求めない罪。神を知らない罪。神を恐れる罪。神を裏切る罪。神に逆らう罪。イエスはすべてをお許しになる、頭の平らな右の柱。しかし、左の柱の聖霊は、逆らった者を滅ぼすことを許されているのです。「聖霊に言い逆らう者は、この世でも来るべき世でも赦されることはない(マタイ12・32)」。僕の名前の「幸」は頭が丸い聖霊の柱なのですよ。超難解と言われるこの聖句は、僕のためにあるのかもしれません。

      エフライム工房 平御幸
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする