江別創造舎

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蝦夷沙汰代官安藤氏 1

2017年08月10日 | 歴史・文化

 西国の囚人は、六波羅探題から鎌倉幕府の手を経て、奥州経由で蝦夷地へ送られました。
この欧州で龍系の管理に重要な役割を担っていたのが、津軽安藤(のち安東)氏でした。

 平泉藤原氏時代の安藤氏については不明ですが、鎌倉幕府の元では津軽を中心に勢力を伸ばし、執権北条義時の代(1205-1224)に、奥羽・夷島のえぞに対する備え(東夷の堅め、夷島の押さえ)として蝦夷沙汰代官職を任じられました。

 ここで注目されるのは、安藤氏が幕府から蝦夷そのものと位置付けられていることです。
夷島流刑に関する『吾妻鏡』の記事(建仁2・1202年)、「而以ニ西獄囚人等一。為⩗給二欧州夷一、被⩗放二遣之一。」(西獄囚人等を奥州夷に委ねて放たれ遺る)の「奥州夷」は安藤氏と考えられます。

 それは、元亭2(1322)年に安藤氏が代官職を巡って起こした内紛(安藤の乱)を、幕府は「蝦夷蜂起」と捉え、「蝦夷征罰」のため「蝦夷追討使」を津軽に派遣していることからも裏付けられる(『鎌倉年代記裏書』)。鎌倉幕府による安藤氏の代官任命は、王朝国家の「俘囚長」安部氏・清原氏を通じた「以夷制夷」(夷を以って夷を制す)鎮守府統治と基本的に同じ性格を持っていたといえます。

 一方、秋田氏(下国安東氏)の系図でも、その出自を「俘囚長」安倍貞任とし、古代蝦夷(エミシ)に結び付けています。
貞任が後3年の合戦で敗亡した際、幼少の高星が津軽藤崎に逃れ、のちに藤崎城主となりました。
その後、尭秀(たかひで)の代に代官に任じられ北奥羽に君臨するようになり、愛秀(ちかひで)の代に十三湊に拠点を築きました。

 応永年間(1394-1428)に3系統に分かれ、下国安東氏(十三湊)・湊安東氏(秋田湊)・潮潟(後潟)安東氏となったとされます。
十三湊は、戦国期までに成立した『廻船式目』に三津・七湊の一つに挙げられています日本海交易の北の拠点港であり、「滄海漫々トシテ夷船京船群集シテ、艦先ヲ並調舳湊ニ市ヲ成ス」(『十三往来』)賑わいであったと言います。

 近年の発掘調査では細長く伸びる砂州上から、それを裏付ける領主や家臣の館・町屋・港湾施設などの遺構、交易によってもたらされた国産・舶載陶磁、古銭、生活用具などが多数発見されています。


註 :江別市総務部「新江別市史」56-57頁.


 

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