江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

蝦夷沙汰代官安藤氏 2

2017年08月13日 | 歴史・文化

 『諏訪大名神絵詞』に「(渡党は)奥州津軽外の浜に往来交易す」とあるように、『十三往来』の「夷船」の主も「渡党」でしょう。

 「渡党」は、安藤氏が管轄する港に毛皮・鷲鷹の尾羽・海産物などの北方の産物を持ち込み、若狭の商船などが持ち寄る米や鉄製品・陶磁器・漆器などと交換していました。
そして、安藤氏は流刑管理権に加え、こうした交易管理権をテコにするなかで、「渡党」に対する影響力を強めていったものと考えられます。

 十三湊は15世紀に最盛期を迎えました。
しかし、嘉吉2(1442)年、下国安東盛季は台頭してきた南部氏との戦いに破れ、ついに十三湊を放棄、翌年12月小泊紫館おyり夷島へ脱出することになります。
その後も安東氏は何度か失地回復を目指しますが、享徳2(1453)年安東義季が南部軍との戦いに破れ自害し、ここに下国安東氏惣領家は断絶しました。

 翌年の享徳3年には、十三湊旧落の際に備えられ陸奧湾東岸の田辺部を知行していた安東太政季(潮潟安東氏の嫡孫で安東義季の養子になったとされます)が、武田信広らを従え、南部大畑より夷島に渡海する事件が起きました。
しかし、それも間もない2年ごの康生2(1456)年には、政季は同族の誼で湊の安東堯季から秋田小鹿島に招かれ、檜山安東氏(のちの秋田安東氏)を起こすことになります。

 しかし、政季の2年間の在島は夷島の勢力関係に大きな転機をもたらすことになりました。。



註 :江別市総務部「新江別市史」57頁.


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