江別創造舎

地域文化振興活動・江別カルタ制作

江別古墳群の発見

2017年06月14日 | 歴史・文化

 擦文時代の北海道が本州の古墳文化から受けた影響は、土器制作上の技法や文様にとどまりません。

 まず、石器が砥石や若干の剥片石器を除いて少なくなり、かわって刀剣類や農耕具など鉄製品の比重が高くなって来ることがあげられます。
 次に、紡錘車が江別の後藤遺跡など多数の遺跡から出土しているとおり、擦文時代に機織技術が普及していたことも間違いありません。
さらに、住居は本州の古墳から奈良時代の住居と同じ、一辺5〜6メートルの方形で、壁の一箇所にカマドが付く竪穴住居が一般的になります。

 このように、本州文化の強い影響下で成立する擦文文化が残した遺跡の中にあって、とりわけ象徴的な遺構が古墳です。
昭和6(1931年)夏に、当時札幌市の山鼻小学校の教員だった後藤寿一が、札幌江別町字兵村(現江別市元江別・後藤遺跡)で16基、昭和7年夏から翌年かけて、後藤寿一と恵庭小学校教員の曽根原武保が千歳郡恵庭村(現恵庭市・柏木東遺跡)で15基、7年秋に河野広道が江別町字対雁町村農場(現江別市いずみ野・町村農場遺跡)で2基を発見・発掘しています。
 その後、55年になって江別市教育委員会が江別インター線道路の建設に伴って後藤遺跡を調査し、21基を再発見しています。

 これら北海道の古墳については、発見当初から本州の古墳とは系統が異なる特殊なものという認識がありました。
当時、東京帝室博物館に勤務していた後藤守一は、「古墳の名によって本土のものと性質を同じようにするものというが如き錯誤に陥り易い名称も得難い」(「北海道における古墳出土遺物の研究」『考古学雑誌』24-2・3)として、「北海道式古墳」と命名し、この名称がその後一般的に使われるようになりました。
他にも、「所謂古墳」(喜田貞吉)、「古墳様墳基」(河野広道)などと呼ばれてきました。

 しかし、東北地方の古墳の調査が進む中で、北海道の古墳も若干の地域色を持つものの、明らかに東北地方北部の末期古墳と一連の物であり、特にそれと区別する理由はないと考えられるようになって参りました。

 後藤遺跡も「江別古墳群」として、平成10年9月に国の史跡指定を受けており、ここではふつうに古墳と呼ぶこととします。



註 :江別市総務部「新江別市史」39-40頁.
写真:復元された江別古墳群
 同上書40頁に掲載された図1-12写真を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。



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