江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

要衝 江別港

2008年09月03日 | 歴史・文化
 明治15(1882)年の幌内鉄道江別駅の開業は、駅に近接の江別川川畔から内陸(月形・雨龍方面)、あるいは石狩方面への石狩川舟運の隆盛を促していました。

 主に、内陸の沿岸から雑穀や木材を水路で集め、札幌・小樽方面へ陸路(鉄路)で送り出すものでした。また、同時に、北海道内陸部の土地見分、あるいは内陸へ分け入る移民たちの足溜まり場ともなっていました。例えば、明治19(11886)年7月25日、北越殖民社の大河原文蔵らは野幌原始林を踏査のため、「原野歩行スベカラザルト聞き、幸ヒ漁翁扁船ヲ行カントスルニ会フ。乃ち之ヲ傭テ斗萬別(トマンベツ)ニ溯ル」(『草叢日記』)と江別川々畔より原始林を目指しました。つまり、当時は、陸行より水行の方が容易であったのです。

 また、同年8月20日の三島億二郎日記は、午後2時にバラトを蒸気船で出航しました。「此日好晴、天青ク、気清シ、舟中爽快ヲ賞フ、洋人煙草菓物ヲ分ツ(中略)ツイシカリ辺リヨリ流勢急ナリ、江別ニ至リ着シハ日没後ナリ、乃ち知己ノ店ニ投ス、洋客二人モ同店ニ宿ス」(『第二回北遊記』)云々と、江別の位置的な条件が旅館や料理、飲食店などの業を起こし、市街地の発展を勢いづかせたことが伺えます。上記引用中より、既に三島は江別市街に知り合いの旅館をもっており、舟中同行の二人の洋人も同じ旅館に泊まっていたようです。そして、三島は、その夜、土田政次郎の招待を受け大橋一蔵と共に出かけ、そこで民族舞踊などを観て夜10時に帰宿しています。

 江別駅周辺を中心とした江別市街地は、木材などの集散地として知られていましたが、江別港(船着場ー現三条一丁目、千歳川左岸)周辺は、軍に納入する燕麦などを出荷する人馬で活況を呈していました。

(参考)当ブログ8月 1日(金)「上川丸の就航」
    当ブログ7月21日(土)「江別村商家」
    当ブログ7月 5日(木)「対雁郵便局から江別郵便局へ」
    当ブログ7月 2日(月)「札幌ー対雁ー江別ー岩見沢道路開通」
    当ブログ6月24日(火)「石狩川沿岸」
    当ブログ6月22日(火)「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生」
    当ブログ6月19日(木)「飛騨屋と石狩山伐木」

註:江別市役所「新江別市史」207-209頁参照。

コメント
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