季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

エルナ・ベルガー賛

2009年05月12日 | 音楽
この人もいつどんな理由か分からぬままに子供の時分から持っている古いレコードで知った、往年の名コロラトゥーラソプラノである。

子供のころ聴いてフロトーの「マルタ」のアリアが哀切感に満ちて聴こえたのをよく覚えている。このオペラをご存知ですか?フロトーという作曲家の作品です。

これを上演しているオペラ劇場なんて今のヨーロッパにあるのだろうか。一度ウィーンのオペレッタ劇場で上演しているというチラシは見たことがあるけれど。

あの厳粛の権化みたいなクレンペラーがほめている作品だ。ピアノを弾く人はこうした曲をよく聴くとよいのだが。ピアノという楽器は、知らず知らずメロディーに対して不感症になっていく傾向があるから。

ベルガーについて続けよう。「ベルガーは音楽そのものだ」これはフルトヴェングラーの言葉。ほとんど作為、いやそれどころか音楽表現への意志すら感じさせないかのような軽やかな流れと声は、昨今の表現重視の中では意表を突かれるかもしれない。

しかし本当はこの人の歌は抑制がきいて細やかな情感にあふれている。
今日フィルムで見ることができる1954年のザルツブルク音楽祭での「ドン・ジョヴァンニ」でツェルリーナを歌っている。この公演の後、フルトヴェングラーは「ベルガーさん、あなたはこの役にぴったりの古典的な歌い手だね」と言ったそうだ。

たとえばこういう言葉から「古典的」という感覚を探ることだってできる。ウィーン古典派、ハイハイ、テンポを動かさず、ハイハイ、そんな呑気な寝言を言う人が激減するだろうに。

ベルガーの声があまりにも自在だから、軽業と区別がつかぬ人も出るかもしれない。そうであればあまりにも残念だ。

コロラトゥーラとしては異例なほど長く歌った人だが、晩年はもう「夜の女王」はさすがに歌わず、リリックなソプラノ役を歌った。

この人の時代にはイタリアオペラもドイツ語で歌うことが多く、現代の我々には少し奇妙に聞こえるかもしれないが、なに、どのみちイタリア語だって分からないのでしょうが、同じことです。

僕の好みから言えば、イタリアオペラもドイツのオペラハウスで演奏されたほうが品格があると感じる。

ベルガーでそれをとくに感じる。彼女のミミがどれほど可憐か。ジルダが不幸な女に聴こえるか。はたまた喜劇的役柄でどんなにお茶目か。それでいながら一種の節度を失わない。節度というとどこかでブレーキをかけるような感じを持つ人もいるだろうが、そうではない。あくまで自由に自在に演奏する。節度は天から授かったものだと言ってもよい。古典的歌い手というのはそういうことだ。

好ましく聴こえるのは僕にとってばかりではない。イタリアの名テノール、ジーリもベルガーの歌を賞賛して、共演の際カーテンコールには彼女一人を送り出すのを常としたという。

僕はコロラトゥーラとしての全盛期の録音も持っている。ここに入っているグリークの「ソルベルクの歌」は無類である。

グリークという作曲家の、本来持っている生真面目さ、誠実さが直接形を与えられたように感じ、また冷たい北欧の風が肌をかすめたように感じ、鳥肌が立った。

「冬は去ったのでしょう、そして春が来ようとしている」ここでもドイツ語で歌われているけれど、グリークの持つひんやりとした清潔感には通俗性の入り込む余地などない、と痛感する。ピアノ協奏曲で汚れた耳になっている人はもう一度これを聴いて洗いなおすことをお勧めする。

晩年の録音で「売られた花嫁」の「マリーのアリア」も良い。


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