クリスマスが終わった後のレッスンの時、小さい子にいつも聞いています。
「サンタさん、来てくれた?」って。
サンタさんの存在を信じて疑わない可愛いちびちゃん達は、嬉しそうに、「うん!」って答えてくれます。
私が、「いいなあ!先生の所には来なかったよ。なんでだろう?」って言ったら、これまた可愛い答が返ってきました。
「先生、良い子じゃなかったんじゃない?」って。
ちょっとクスっと笑っちゃいました。
可愛いなあ。
良い子でいて、サンタさんが来てくれて良かったね。
なんか、ほっこり!
子供の言葉には、時々ドキっとさせられる。
忘れていた子供の頃の感性がよみがえるんです。
自分の記憶をたどると思うんです。
どんなに小さくても、ちゃんと考えて、ちゃんと感じていたなあ・・・って。
大人の人に色んなことを聞かれて答えられないでいると、よく「・・・なんだよね。」って、勝手に大人の人が私がこう思っているだろうと決め込んで話していたのを思い出します。
心の中で、「違うよ、そうじゃないよ。」って反論してたっけ。
こう見えて、結構人見知りだったのかな?(笑)
反論できない子でした。(笑)
姪が幼児の頃、激しい夕立が降ってきた時のことも忘れられません。
真夏でセミが元気に鳴いていた時の突然の夕立。
泣きそうな顔をして心配したんです。
「セミさん、大丈夫かなあ?」って。
幼い姪の優しい気持ちに感動してしまったんです。
「大丈夫!セミさんは葉っぱの傘をさしているからね。」と答えた母も素敵だなあと思いました。
母の言葉に幼い姪は安心したようでした。
子供の感性っていいものですね。
10月9日に放送された音楽番組でのピアニストと指揮者の会話も心に響きました。
モーツァルトのピアノコンチェルトについての話でした。
子供の心のことを書きたくなったのは、開放区での一節がきっかけです。
ツイッターに開放区の中の言葉を呟いてくださっている方がいるんです。
拓哉君・「こどものころの目を持ち続けていられれば、いろんな目線からの表現ができるんじゃないかな。」
この言葉を読んだら嬉しくなってしまって、どこに書かれていたのか調べたんですけど、分かりませんでした。
急いで探したので、きっと見落としているんだろうと思います。
もしご存知でしたら教えて頂けるとありがたいです。
開放区の「「リスペクト」にも書いてありました。(2004)
「生活に子どもという存在があるからかもしれないけど、いい表情って、イコールその人の子どもの部分なんじゃないかと思う。20歳を越そうが、50歳になろうが。
飾りもてらいもなく、うれしいならうれしい、悔しいなら悔しい、それだけを表現できる瞬間っていいよね。
オリンピック選手にしても、記録保持者だからとか、社会的な地位がどうだとか、そういうものとは無関係に、ただ結果を出したその瞬間、喜んだり悲しんだりしている表情の中に、その人が子どもの頃から継続してきたすべてを見ることができるような気がする。」
開放区を読むと気づく。
子どもの頃の思い出話が多いことに。
拓哉君がどんな風に育ったのか、どんな生活をしていたのか、どんなことを思っていたのか・・・
これを知ることができる喜びは、とっても大きいです。
沢山愛されて育ったこと。
トムソーヤーに憧れる自然児だったこと・・・他にも色々。
これらが拓哉君の素晴らしい感性の原点。
拓哉君は子どもの頃の心や感性を今も持ち続けていると思います。
だから真っ直ぐで純粋でいられるんじゃないかな?・・・なんて。
私も上に載せたピアニストさんと同じ気持ちです。
心の中に存在している可能性はあって、そう考えるだけでもうれしくなる