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闘神伝説~李小龍(86)【李小龍「死亡遊戯」完成計画】Part2 “大戦黒豹”編

2017-05-31 09:39:19 | 闘神伝説~李小龍

さて、今度こそ念願だった「死亡遊戯」での鄭昌和との共同監督が実現する事がほぼ決定し、大いに喜んだリーさんでしたが、そんなリーさんの人生に残された時間はもう僅かしかなかったのです・・・。
そう、リーさんと鄭監督のミーティングが行われた73年7月18日から3日後の7月20日にリーさんにとってあの“運命の夏の日”が訪れる事となります。
リーさんこと李小龍の急死は香港映画、いえ世界のアクション映画界にとって余りにも大きな損失でした。と同時に香港を代表する偉大なる“功夫巨星”と“韓国アクション映画の父”による共同監督の機会は永遠に失われる事となりました。
実は鄭昌和監督は「死亡遊戯」とは別にリーさんを主役に想定した1本のクンフー映画の脚本を準備していました。その脚本は73年7月の段階で既に完成しており、題名も「大戦黒豹」とし、タイでロケーションする事も決まっていたのです。
生前のリーさん本人もこの「大戦黒豹」の脚本に目を通していて、その内容に満足しており、この鄭昌和監督&李小龍主演作品「大戦黒豹」は「死亡遊戯」完成後の次回作品に予定されていました。
ただそれもリーさんの急逝で全てがストップしてしまい、鄭監督も「この映画を李小龍以外の武打星で撮る事は困難だろう」と落胆しながらも、急逝したリーさんの代役を立てて「大戦黒豹」を撮る事も考慮していました。
鄭昌和監督曰く「李小龍の蹴りと同じような見事なテコンドーの蹴りを誇る黄仁植を「大戦黒豹」の主役に据えて撮る事も可能だ。事実、李小龍は黄仁植を香港に呼んで以来、黄仁植の蹴りのテクニックを気に入っていたし、武術家としての黄仁植も高く評価していた。李小龍が「猛龍過江」で黄仁植を悪役で起用してから2人は良い友人となり、彼らは時間があればお互いにスパーリングをしていたからね」との思いがあったからです。
この李小龍の代役として“韓国の猛将”黄仁植主演で「大戦黒豹」を撮る、の企画に関しては当時の香港映画の関係者たちも同じ鄭昌和監督作品「黒夜怪客」の劇中で黄仁植が見せた闘いの際の構え、立ち位置、そして感情表現などに李小龍からの多大な影響が見られる点を指摘しています。
この記事を読んだ私は実際に「黒夜怪客」のVCDを再生し、クライマックスの柯俊雄vs黄仁植&洪金寶の決闘シーンを確認しましたが、確かにこのファイトシーンでの黄仁植は得意の連続蹴りの他にも、柯俊雄を挑発するかのように両手を上下に交差させるようなフェイントや、トリッキーなステップワークなど李小龍独特の動きを彷彿させるようなクンフーアクションを披露していました。
さて、最終的に幻の李小龍主演作品「大戦黒豹」は制作されたのか?それともお蔵入りしてしまったのか?ここからは私の推論になります。
1976年に嘉禾影業がインドネシア(またはタイ)でロケーションを敢行した1本のクンフー映画を公開しています。それが鄭昌和監督作品「鬼計双雄」(76)です。
陳星、陳恵敏、洪金寶ら一流の武打星に加えて、その主演に抜擢されたのが黄仁植と同じ韓国武打星でテコンドー高手の申一龍でした。私はこの申一龍主演「鬼計双雄」こそが当初は李小龍主演で脚本が用意され、最終的にキャストを一新し完成された「大戦黒豹」ではないかと思うのです。
まさに鄭昌和監督の執念が実った作品「鬼計双雄」公開ですが、事実、私の友人トビー・ラッセルが以前に嘉禾の重役である何冠昌から「確かに李小龍主演でタイでロケを予定していた潜入捜査官物が企画されていたよ」との言質を取っているので、この「鬼計双雄」が形を変えた「大戦黒豹」である可能性は決して低くないと思うのですが・・・。

亡くなる直前のリーさんは「嗚呼、僕がもっと早く鄭昌和導演と一緒に仕事が出来ていたら・・・本当に残念だ」と後悔の念を口にしていたと言われています。
その鄭昌和監督作品「黒夜怪客」が香港で上映された際、同時上映として公開されたのが李小龍の追悼ドキュメンタリー「巨星的殞落」でした。お互いに共作を熱望しながら遂にそれが叶わなかった李小龍と鄭昌和の2人の偉大なる映画人は、リーさんがその32歳という若さでこの世を去った直後にやっとこのような“同時上映”という形で共作の夢を果たした事は何とも皮肉な結末です。
私こと龍熱は思います。鄭昌和監督最後の嘉禾影業作品となった茅瑛主演「アンジェラ・マオの破戒」(78)にもし梁小龍ではなく李小龍が出演し、茅瑛との「燃えよドラゴン」以来の最強コンビとして韓英傑や洪金寶、そして陳恵敏と激闘を展開していたら?それは素晴らしいクンフー映画の夢舞台となったのと同時に、それこそリーさんと鄭監督が共に語り合い、熱望していた理想的共同作品となった事でしょう。
そして72年にリーさんが半分ほど撮影したまま中断し未完成に終わった「死亡遊戯」は、5年後の78年に監督にロバート・クローズを迎えて完成に至ります。
そう、生前の李小龍が完成を熱望していた「死亡遊戯」は、様々な道程を経てここにようやく完成を見たのです。
私はここでクローズ版「死亡遊戯」に関して言及する気はありません。何故なら既に私を含めた多くのリーさん信者がクローズ版「死亡遊戯」をリーさんの“5本目の主演クンフー映画”として受け入れて現在に至っているからです。
ただ、それでも私は強く思います。リーさんが志し半ばで撮影を中断し、そこからリーさんがあらゆる方法を駆使し完成させようと奮闘した【「死亡遊戯」完成計画】。
それは中国人の世界的地位向上を願い、武道にその生涯を捧げた“世紀の闘神”李小龍が全身全霊で撮り上げた五重塔内3つのファイトシーンと、同じく韓国人の地位向上に尽力し数々の秀作を世に送り出した“韓国アクション映画の父”鄭昌和が韓国で撮影予定だった五重塔決戦後のクライマックス、この2つのパートが1つとなった「死亡遊戯」こそが、その最終形態にして完全なる「李小龍的死亡遊戯」だったのではないかと。

最後に、私が今回このリーさんと鄭昌和監督共同による【李小龍「死亡遊戯」完成計画】を皆さんにお届けしようと企画した一番の理由。
それは以前から一部で言われている「世界中で「燃えよドラゴン」が公開された後の李小龍の目はハリウッドに向いていて、もはや撮影中断していた「死亡遊戯」を完成させる気が無かった」という説に対する激しい反発の気持ちがあったからでした。
リーさんがあれほど全身全霊を込めてやっと半分まで撮り上げた「死亡遊戯」を未完成で投げ出す?そんな事はない!絶対にない!
それが証拠に生前のリーさんは自身の日記にも「1973年9月20日、Game of Death」とハッキリと書き込んでいました。
そう、リーさんはこの9月20日から「死亡遊戯」の撮影を再開しようと固く決意していたのです。そしてもしかしたらこの9月20日こそ、リーさんが共同監督を熱望した鄭昌和監督、そして西本正カメラマンらスタッフと共に韓国ロケに出発する日だったのかも知れません。
それでも私は天国のリーさんにそれを直接訊きたかった。どうしても訊いてみたかった。
「リーさん、貴方は無敵格闘技映画「死亡遊戯」を完成させるべく、念願だった鄭昌和導演の協力を得て、貴方の人生の最後の最後の瞬間が訪れる、その3日前まで全力で取り組んでいたんですね。リーさん、もし天国に昇った貴方がそれを答えられないのなら、私が貴方に代わってそれを何としても証明して見せます。何としても!」。
その私の心の叫びはリーさんが志し半ばで急逝したがために未完成に終わった「死亡遊戯」を心から愛し、また追い求め続ける私の“龍魂”の雄叫びとなり天国のリーさん、いや猛龍の許にきっと届くはず。そう、だからこそ最後にもう1度、空に向かってこう叫ぶんだ。
龍よ、聞いてくれ。俺の“龍魂”の雄叫びを!!誠意献給一代巨星、李小龍!!

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