専門家(教える人)の限界

この数年教育に関する講演を聞く機会があった。講師は教育学者や、法律家、ジャーナリストなどで、現場の教師が要請した講演会が多かった。
どの講演会も、始めて聞くことの多い、勉強にはなった。しかし逆に、どの講演会も、どこかいま一つ、腑に落ちない。
どの講師も、それぞれの立場で、教育を前向きに真剣に話してくれるのだが、被服の上から探っている感じになってしまう。コメ作りの経験のない人がコメ作りの話をするのと似ているかもしれない。
講演した講師も、聞き手とのコミュニケーションで、学んでほしい。招請した教師が違った立場の話を聞くのもそれはそれでいいが、下手すると、聞くほうは専門家の話をお伺いし自分の専門性を棚上げし、講師も、「いい話をして上げた。」になりかねない。
 『教育とは学ぶこと』でもある。講師は少なくても自分の話した時間と同じぐらいの時間を聴いた人の話しを聞くのにとるべきで、これは主催者の問題かもしれない。そうしないと終わって双方が豊かになる、「教育=学び」が成立していなかもしれない。これでは、教師自らが権力同様勘違いし、教育から目がそれているかもしれない。教育は相互の精神的な化学反応(すり合わせ)だと思う。学びや教育では、双方の個々が、生来の成長発達の別の遺伝子も持っていることを忘れてはならない。究極的には価値感覚は個別に異なっている。だから教育は意味がある。
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