京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
代表 金澤 ひろあき
俳句 冠句 自由律 詩 エッセイなど同好の人たちと交流

俗語・平談の中で

2017-05-03 16:55:15 | 日記
 俗語・平談の中で
       金澤 ひろあき
 芭蕉の言葉だっただろうか、「俗語・平談をただす。」というのがあったような気がする。「俗語・平談」なのだから、きっとその時代に生きている言葉・生きている話題なのであろう。「日常の芸術化」ということかなとも思うが、違っているかもしれない。俗語・平談なので、口語表現ともかかわりがありそうだ。
 自己をふりかえり見つめたり、現実や歴史を見つめたりする時は、やはり今生きている言葉・呼吸している言葉が一番優れているのではなかろうか。今生きている言葉・呼吸している言葉で俳句を書く。『主流』という口語俳句の集団に魅力があるとすれば、この点であろう。
 その『主流』の626号より
  溺死体の静けさにいて爪のびてくる    西畑 公喜
 この筆者のさびしさの表現は達人の芸だ。達人の芸なので、他人に「見せる」芸でもある。「見せる」意識もないのに、見ている人を感動させたら、これはもう名人だろう。
 昔、ひょんなことで玄界灘で若い男の子の溺死体を見たことがある私は、「溺死体の静けさ」と言われると、何か違うような気もする。作り事のような気もする。若い人の溺死体のせいか、顔も体も生々しすぎた。苦悩が出ていた。これを観念として読めば一応の納得はするものの……。  
  すこし風が出る八月六日の日めくり 松本 赫男
  八月十六日炎天に風がない        漆畑 利男
 ともに戦争に触れた句を並べて読んでみた。偶然であろうが二つの句の「風」に共通する心情を感じる。体験を共有する者同士の共通する心情なのであろうか。私には、このお二人の体験にあたるものがない。戦後十数年後の生まれだからだ。そういう意味では、私にとってこのお二人は「他者」である。「他者」の世代や世界のことを知る手だては、文学や映像といった記録によるしかない。
 歴史は単に遠く過ぎ去ってしまったものではない。今現在の問題につながり、常に現在の私たちを刺しに来るような存在だ。例えば「自由」や「平和」という問題をふりかえるような時、過去の真実がいかに大切かを痛感する。
 過去を共有する人達が感じたであろうその時の「風」。その「風」にこめられた想いや息づかいや体感など、それらを追体験することが真実を掘り起こし、今を理解することにつながるのではなかろうか。
  影と影のキス 秋が始まった       普川 洋
 よくあたると評判の占い師が、こんなことを言ったそうだ。
 「依頼者の悩みを当てるのは簡単だ。異性関係(恋)か金銭問題か病気か人間関係。その中のどれを心の中に悩みとしてかかえこんでいるのかをよみとればいい。」 人間の悩みがこの四つだとすれば、さしずめ文学のテーマもこの四つなのであろう。
 ところで、俳句では「恋」は少ないという気がする。短歌は、和歌以来の伝統で、「恋」は花盛りであるのにくらべ、そう感じる。俳句で「恋」を扱う時は、この句のようにできるだけ生々しくならないように、美しく仕上げようとする傾向があるのではなかろうか。この句も「影=シルエット」で描いて、その雰囲気や心情を「秋のはじまり」というふうにおしゃれにまとめあげている。それに比べて、
  夕焼けが女の割目にはいってくる     西畑 公喜
 この句のほうは一見ドキッとする。しかし、恋(性愛も含めて)を通して、その人の内面と現実がどのように揺れ、葛藤し、どう変わったのかという点までは描き切れていないような気がする。短歌や小説にはそれがある。 今後の口語俳句の一つのテーマであるのかもしれない。
ジャンル:
文化
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 他者 | トップ | 日食 »

コメントを投稿


コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。