京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
代表 金澤 ひろあき
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私たちが見落としたこと

2017-04-19 08:17:49 | 日記
 私たちが見落としたこと
   ー俵万智と大江健三郎をふりかえる中でー
 もう三十年ほど前になるであろうか。俵万智という歌人が出現した時、その短歌は新鮮な驚きをもって迎えられた。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
                       俵万智
 有名な歌集の表題にもなった短歌である。この短歌について、だいたいの評者は(賛美者も批判者もともに)「ライトバース」「口語調」「軽さ」という評で終始していたような気がする。少なくとも、私のまわりはそうであった。
 ふりかえってみると、この一首に対して、私たちはもっと深く見つめ、自分の営為と照らし合わせ、検証するという所まで、同じ短詩系文学にかかわる者として、踏み込めていたのだろうか。
 最近になって、大江健三郎の『新しい文学のために』という文を読み、その上であの当時の私たちをふりかえるうちに、こういう疑問がわいてきた。

 大江健三郎は、こういう意味のことを述べている。
  『日常の言葉として、「この味がいいね」という発言はそのま ま行き過ぎてしまう。気にもとめない。ところがそれを歌として よむ時、この言葉はとどまる。この言葉は、タテに沈み込むよう に意識のなかへ入ってくる。
  この一首の言葉は、ザックバランに書かれているようでいて、 「言葉のいれかえ・みがきなおし」に力が注がれている。
 「この味がいいね」か「この味はいいね」か。ひとつの格助詞「は」 と「が」の使い分けについての工夫。さらに長い歌の歴史におい
 て、女性が男性をよぶ言葉として、「君」という言葉が、新しく、 しかも自然に使われている。』と。

 あのころの私たちは、この歌の「表面的な雰囲気」は充分に理解していたつもりであった。それが「ライトバース」などという評になったのである。というか、そういう評しか出なかったのだ。
 しかし、そういう評者たちは、大江健三郎のいうレベル=「言葉のみがきなおし」というレベルで、この歌を相手にしていたのであろうか。一語一語の「ことばのみがきなおし(検証)」に、充分配慮していると言えるのであろうか。そう言えるのならば、自分の作品に、「ことばのみがきなおし」が反映されないのは、なぜだろうか。
 ともあれ、同じ歌を見て、大江健三郎と私たちの思ったところの差異。両者には相当の断絶があることを認める。そして、認めた上で、新たに生かしていきたいと、同じ「言葉にかかわる者」として痛感させられた。
ジャンル:
文化
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