京都童心の会

ほっこりあそぼ 京都洛西の俳句の会
代表 金澤 ひろあき
俳句 冠句 自由律 詩 エッセイなど同好の人たちと交流

他者

2017-05-03 15:49:13 | 日記
他者
金澤 ひろあき
  一
 短詩型の文学の心のありようとして、大岡信氏が言う「うたげ」と「孤心」がある。それを俳人の金子兜太氏は「ふたりごころ」と「ひとりごころ」という言い方をされているようである。
 俳句もまさしくその通りで、ひとりで(孤である)ときの心境を詠むと同時に、心許せる友との交歓も楽しむ。その友という空間を「座」と呼んでいる。
 ところで、小説などを加えた文学全般を見ると、「うたげ」と「孤心」に加えて、「他者」との出合いや葛藤を描く場合がある。ドストエフスキー小説の特色であるポリフォニー(多重声)などは、その代表であろう。「他者」とは、こちらが予測できない存在であり、意のままにならない存在である。他者のほうも、こちらを了解しない存在でもある。言葉を交わしても、お互い了解不能の存在であったりもする。
 俳句の中に、この他者を入れることはできないのだろうか。
 社会とは、あるいは世界とは、多くの他者の集合体である。この他者と交流すること。現実を冷静に認めること。そして自分を世界に向けて開いていくこと。それが本当の「社会性」ではなかろうか。
 「他者」への認識がない「社会性俳句」など、あり得るのだろうか。
  二
 「うたげ」の心で、座の仲間たちとの心の交歓を行う。それは楽しいひとときである。楽しいひとときであるが、つい「私とあなたは全く同じ」という心境になりやすくなる。作品世界の中では、差異が存在しなくなり、「同じ心を持つ者どうしの会話」となり、「何も言わなくてもわかってくれる者どうし」の言葉となる。それは居心地の良い美しい世界であろうが、一種のひとりごと、「自己内会話」となる。
 一方、「孤心」で自己存在を見つめることができる。しかし、これも「ひとりごと」で終わってしまうことがある。第三者の目が不在となり、自己の狭い世界にとじこもる。
 自分というものは案外、自分ではわからないものだ。自分に同情心のない「他者」の目、「他者」の言葉。自分と「差異」を持つ他者の存在を考えることを通してはじめて、自分の輪郭がつかめるのだ。
 差異を持つ他者との出合いや対話は衝撃である。文学を生み出す力は、この衝撃である。
 同情心の中で生まれたものは、心地よい評価はされるだろうが、同情心を共有する共同体の中で生産され、消費されるだけで終わってしまうのだ。
  三
 とはいえ俳句は、句会という場に集まって作品を提出し、評を受けるという営みが中心である。その営みが中心である限り、「うたげ」と「孤心」による作品も大きな意味を持つ。「うたげ」と「孤心」による名作も生み出されていくに違いない。
 ただ、この居心地の良い共同体の中だけにこもり続けては、すぐに壁に突き当たるだろうし、乗り越えられない。詩の生命力が枯れていくだろう。他者に会いに行くか、他者を迎えるかということが必要である。(これは俳句に限らず、生活全般に言えることだろうが。)
自分との差異をもつもとの出合いと衝撃。
 旅をするごとに文体と作品世界が変わる芭蕉の一生は、そのような願望を持ち続けていたのではないか。
ジャンル:
文化
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