パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

春の嵐と春の嵐で思い出した秋の嵐のこと

2010-03-29 12:55:44 | Weblog
 すっかり更新を怠ってしまったが、この間何もなかったわけではない。

 特に、あの「春の嵐」が吹き荒れた夜、私は池袋の要町の交差点で朝の7時まで立ち尽くしていたのだ。

 そして、朝の7時、ぴったりに嵐は吹き止んだ。

 ガードマンがいかに呪われた職業であるかを実感した一瞬であった。

 「嵐」といえば、実は昨年の秋の台風19号では、日本中大騒ぎで、結局被害は大したことなかった(JRが全面運休を敢行して、通常運転を行っていた私鉄各線と断絶してしまったという人為的混乱はあったものの)と報道されたが、実は、西川口の某マンションでは、床上1メートルに及ぶ浸水被害が発生していたのだ。

 そのマンションアパートとは、何を隠そう、私が居住しているところであった。

 しかし、私の部屋はなぜか、床上数センチ程度ですんだのだが、それでもひどくびっくりした。

 深夜、プチッという音とともに停電となり、真っ暗闇の中でひたひたと水嵩が増してゆく様を、外から漏れてくる街灯の灯りで確認するそれはひどくシュールな経験であったが、明け方にはなんとか収まり、ほっとして一寝入りしたあと、起きてみると、マンション中大騒ぎで、聞いてみると、ひどい部屋は床上1メートル近い浸水だそうで、管理会社が総出で対処にあたっていたのだ。

 私の部屋とはまったく違う様子だったが、翌日、部屋の掃除にやってきた人に聞くと、実際、ほとんどの部屋が床上50センチから1メートル近い浸水で、その後が壁にくっきり残っているという。

 私の部屋は例外だったのだ。

 ともかく、そんなひどい状況だったのだが、ニュースでみた埼玉県の床上浸水被害はたしか、5、6件だった。

 我がマンションでは、私の部屋の「数センチ」も含めれば、少なくとも10部屋床上浸水だぞ。

 ニュースなるものの、ある一面をかいま見たと思ったのであった。

 といったようなことを台風19号の翌日にブログに書いたのだがアップに失敗。

 それで、今回の「春の嵐」を機に、もう一回書いたのである。

責任者、出て来い

2010-03-15 20:19:58 | Weblog
 最近、また児童虐待死が増えているようで、立て続けの報道がなされている。

 その報道の一環なのだが、NHKのクローズアップ現代を見た。

 この手の番組を見るたび、思うのだが、論理的じゃないというか、知りたいことに一向に触れてくれない。

 今回のことで知りたいことは何かというと、児童虐待問題を扱う児童保護センターだかなんだかの「機能がまったく働いていない」とタイトルされていたのだが、どういう基準でそう言っているのか、それがはっきりしない。

 たとえば、今現在でも交通事故の死亡者は年に1万人くらいいる。

 これは年々減少しているということで、1万人の死者を出してはいるが、交通事故対策は「機能している」と言っていいだろう。

 実際、世間もそうみなしている。

 そのような見地から、児童虐待の防止対策は機能しているのか否か。

 それが知りたいのだ。

 要するに、自治体の担当部署が適切に対応して子供を救うことのできた事例はどれくらいあるのか、今回の死亡事故は、全体的には機能しているが、たまたま担当者のミスでおきてしまったのか。

 具体的に、ある担当者の怠慢ということだったあら、「責任者、出て来~い」ということになるが、クローズアップ現代は、「全体として機能していない」という視点のようだった。

 これは、厳しい意見のようで、そうでもない。

 指摘されたほうは、「ははー、申し訳ありません。以後気をつけます」で済んじゃう。

 役所というのは、個人の名前が出るのを極端に恐れるから、クローズアップ現代のような指摘は、本当に助かる。

 それから、最近、電柱の埋設が進んでいるが、これについても、じゃあ、なんでこれまで「埋設」しなかったのかという視点がマスコミにはまったくない。

 これは、電柱の「持ち主」が電力会社であることからわかるように、電柱の敷設は公共事業とみなされず、予算がつかなかったからなのだ。

 公共事業というのは、道路、港湾、空港、学校その他、たしか11部門だったと思うが、と慣例的に決まっていて、それには毎年必ず一定程度の予算がつくが、それ以外には予算はまったくつかないのだ。
 
 それが、IT産業の進展にともない、変化する需要に対応できないということで、亀井静香が、新資本なんとかという、新しい公共事業の「枠」を役人に認めさせた。

 それからなのだ。電柱の埋設化が進んだのは。

 しかし、本当のことを言えば、「枠」なんてものそのものを撤廃すべきなのだ。

 さもないと、たとえば、まったく採算の取れない地方空港がどんどんできてしまう。

 予算は、個々の事業ではなく、「枠」につくからだ。

 多分地方空港はもう作られないだろうが、欲しいものは作った後なんで、ぜんぜん役人にとっては痛くもなんともない。

 この、公共事業の「枠」のことは、10年近く前に本で読んだことで、その後、どうなっているのかわからないが、多分、同じだろう。

 公共事業を云々するのだったら、まずこの「枠」の問題から始めるべきだと思うのだが、マスコミはまったく不勉強だから、それを知らない。

 もしかしたら、知っているのかもしれないが、だとしたら、問題の重要性が見えていない亜ということで、知らないのと同じだ。

 まったく腹が立つ。 

日本の常識、世界の非常識

2010-03-14 15:23:08 | Weblog
日本の常識、世界の非常識とかいう話があったけれど、日本ではパティリオリズム、すなわち愛国主義が非難されるが、ナショナリズムという言葉にはそれほど、悪いイメージはない。

しかし、世界の常識ではこれが逆。

たしか、数年前、石原東京都知事が誰か、外国人との対談で、「ナショナリズムということばを使うと警戒されます。愛国心からの行動であると説明すれば、大丈夫、受け入れられます」とアドバイスされていた。

石原がどう理解したかはわからないが、そのナショナリズムの中でも文化ナショナリズムは国際社会ではタブーに近い。

したがって、「食文化」の観点から捕鯨を主張するのは、まったく愚の骨頂なのだ。

文化とナショナリズムを結びつけたことが、今世紀前半に起きた悲劇の原因であるという見方から、ものすごく警戒されるのだ。

その点、中国人は賢明だ。

というのは、中国では犬の食用を禁じる法律を制定したのだそうだ。

犬肉は日本における鯨肉とは比べ物にならないくらい広く食べられており、関係者は10数万人にのぼるとニュースにあった

それでも、禁止したのだ

結局、「勘」で、そう判断したのだと思うが、食用肉は基本的に「家畜」でまかなうというのが、安全性の面からも正しいわけだ。

対する日本人は、どうかというと、今では誰も食べない鯨肉を「文化」という言葉で擁護しようとしている。

これほど愚かなことはない。

もう30年以上前、新潟である環境団体の会合があり、それを取材したことがあるのだが、それに、「ヨナの会」という捕鯨禁止を訴えている斉藤という、元外交官が出席し、捕鯨禁止を訴えたのだが、まったく理解されなかった。

それで、斉藤氏は、最後に、「これは国際社会におけるお付き合いの問題だと理解してください。日本の今の主張は決して受け入れられません。わりきってやるしかありません」と締めくくった。

今回の中国の犬肉食禁止は「割り切った」やり方と考えられるだろう。

ちなみに、ヨナの会のヨナはキムヨナのヨナではなく、聖書に出てくる鯨に助けられたヨナのこと。

つまり、この外交官(夫婦で活動していたが)はクリスチャンなのだが、キリスト教の動物感というのが、もっとも日本人にはわかりづらい。

それで、挫折してしまうのだが、ヒントとして、世界創造は2回あったと書かれていることを指摘しておきたい。

一回目は神によるものだが、管理者がいないことに気づき、神は泥から人間を作り、その人間、アダムが二回目の創造を行う。(具体的には「名づけ」である)

対する仏教は「科学的」で、世界創造の神話がない。

したがって、人間も動物もみんな同じとなってしまう。

確かに生物学的(科学的)には同じだ。

でも‥現実には違うのだ。

じゃあ、いったい「人間とは何か」ということになる。

そこまで考えないと、鯨問題の本質は見えてこないのだ。

自分たちで思っている以上に、大きな問題だということを、まず日本人は理解すべきだ。

奈良の大仏さんを作ったの誰だ~

2010-03-10 17:30:13 | Weblog
 ずっと以前からだがどうしても言っておきたいことがある。

 それは、なんで職人風情がえらそうにふんぞり返っているのかということだ。

 米の袋に、サムイ姿の親父が腕を組みえらそうにふんぞり返った写真が印刷され、横に、「われの行く道はこれしかなし」とかでかでかと書いてある。

 小津安二郎が、「私は映画の職人に過ぎない。豆腐屋が豆腐しか作れないように、私は映画しか作れない」といったのだったが、これは謙遜して言っているのだ。

 前にも少し書いたが、職人のやることは、基本的に誰でもできることであって、それをきちんとやることが大切なのだ。

 一週間ほど前、NHKのプロフェッショナルか何かで、痛くない注射器を作った大田区の職人が紹介され、本人、これまたえらそうにそっくり返っていたが、「痛くない注射器」のアイデアはある日本の医療機器メーカーが、蚊の吸い口程度まで注射針を細くすれば、「痛くない」と言える注射器ができるのではないかと思いついたが、どうやって作るかということで、件の大田区の職人に依頼し、その職人がいろいろ試行錯誤して作り上げたのだそうだ。

 その工夫は確かに賞賛に値するが、「誰が作った」かとなると、最初のアイデアを思いついた医療機器メーカーだろう。

 それを、「大田区の職人が作った」というのは、 

 「奈良の大仏作ったの誰だ~?」

 「行基上人」

 「ぶー、残念でした。大工さんで~す」

 みたいなものだろう。

 この手の笑い話は小学校時代に散々経験したはずだが、ひょっとして、「大工さんで正解なんじゃないだろうか」と、当時から今まで、ずっと思ってきたんじゃないか?

 和歌山の大地町とか言うところのイルカ漁をとりあげたドキュメント映画がアカデミー賞をとって、日本人はみんないっせいにブーイングしているが、イルカショーを楽しんで、その一方でそれを食べちゃうという、本音と建前の使い分けが世界から日本人は狡猾、信用できないと言われているということに、日本人は何で気づかないか。

 日本人は自分で正直だと思っているが、案外そうでもない。

 世界的中国学者の宮崎市定が書いていたが、日本の骨董屋、古書店の店主は客の足元を見て、欲しい表情を見せると、決して値引きしてくれない。

 だから、かけひきで疲れてしまうが、中国の商人は逆だ。

 率直に、「欲しい」という態度を見せれば、値下げに応じてくれる。

 と、きつく反省を求めていたが、そういうことなのだ。

 一般的に言って、世界では、日本人より中国人のほうが好まれているという事実には根拠があるのだ。

 スターのだれそれさんは日本びいきで日本に何度もいらっしてますとかテレビで紹介されると、なんだか、恥ずかしくなる。

 勝手に決めるなよ~。

 ちなみに、イルカは鯨の一種です。

直立不動

2010-03-06 15:01:26 | Weblog
 バッキンガム宮殿の衛兵とか、大企業の受付の横に、制服姿の凛々しい青年が直立不動で立っている。

 どれくらいの時間,立っているのか知らないが、仮に1時間でとりあえず交代としても、1時間直立不動は大変だ。

 とても、私にはできない。

 と思っていたのだが、ためしに真似てやってみたら、これが意外や意外。

 1時間というわけにはいかなかったが、以前のように、足ふみしたり、屈伸運動したりしてた時より、確実に時間が早くたってくれる。

 じたばたしたって、時間は過ぎてくれない。

 意外に、私の個人的特性が「直立不動」に適しているということなのか、それとも、一般的に、じたばたするより、直立不動でどっしり構えていたほうがいいということなのか。

 ともかく、ひとつの発見ではある。

 ディランにも「監視塔をめぐって」という名曲があるし、欧米では、「見張り」「門番」などのコンセプトが、特に前衛的芸術のテーマになっている。

 カフカなんか典型だが、これまで、まったく否定的に考えていた。

 たとえば、「審判」も「城」も官僚制度に対する批判という側面でしか考えてこなかったが、だったら、面白い結論も出てこない。

 ともかく、これまで考えてもみなかったことなので、ちょっとみたいが、それでも、目の前に誰もいなくなってしまう夜中はきつい。

 「見張り」の意味がなくなってしまうからだが、ところがそんな状況でも、1時間に一人は、どこからかひょこっと姿を現すので、「見張り」の意味がまったくなくなるわけではない。

 それが「見張り」なのだといっても、やはりしんどいよ~、である。