明日はどっちだ? 5

「月光」「アラン」等の編集長、南原四郎こと潮田文のブログです。最近、写真集「風に吹かれて」を出しました。

名刺

2012-05-09 21:40:09 | Weblog
  昼夜で異なる料金プランとやらで、NHKニュースでは「まあいいんじゃないでしょうか」とか「昼間はもともとあんまり使わないから」という都民の意見を紹介していたが、新潟県知事は「剣もホロロ」な対応。

 そうだ、もっと言ってやれ。

 東京都民は、自分たちが使っている電気が福島でつくられていることはわかったが、新潟でもつくられていること、実は私も、改めて気がついた次第。

 新潟の地震のときも、新潟の人が大変だなあとか思っていたが、それを使っているのは実は都民だったのだ。

 ニュースでは、その後、蓄電池システムを紹介していたが、その値段が70万円。

 「さあ、みなさん、買いましょう」と、新産業としてバックアップしたい気持ちが見え見えの画面だったが、そんなことより、蓄電池システムなんか、「非現実的現実」でしかない貧乏人のことをNHKは念頭に置いていない。(民主党も)

 貧乏人を念頭に置くなら、前から言っているけれど「基本料金」をどうにかしろと言いたい。

 「基本料金」をゼロにすれば、料金未払いで強制的にカットされてしまうようなことはなくなる。

 その代わり、料金の計算システムのグラフの傾斜を急にすればいいのだ。

 そのNHKニュスのトップは、小沢裁判の強制起訴問題だったが、そもそもあの強制起訴を最初に要求した人物が極めて胡散臭い、その名も日本ナチ党の関係者。

 党首は、本場のドイツのネオナチから手紙をもらったりしていて、「でも日本にユダヤはいないしな」と言って笑っていた。

 じゃあ、なんでナチスを名乗るのかというと、半分は「趣味」、あと半分は、ナチスが今はやりの「エコロジー」の元祖であることは有名だが、日本ナチ党も「エコ」を目指していて、まともな活動家なんかとも連係していたりしたが、その日本ナチ党の党首の知り合いのSさんが、5、6年前に、小沢の強制起訴を要求したのだ。

 そのSさんのことは週刊新潮の記事で知ったのだが、党首殿に言ったら「ヘーあいつが」とか言って笑っていたので、Sさんが個人的にやったのだろうが、Sさんはその後、強制起訴を断念、それをひきついだ市民団体については私はしらないのだが、まあ「うさんくさい」のは似たり寄ったりではないのかと思うのだ。

 そいういきさつについてはNHKも諸マスコミも全然報道しないので、一応、書いておきます。

 で、その同じマスコミなのだが、東京新聞の解説委員が、原発の再開を決定した「民主の仙石チーム」についてかなり突っ込んだことを書いたらしい。

 しかしその委員は、書いた直後、ガンか何かで、連休直後に亡くなったそうで、残念。

 その東京新聞の解説委員の一人が、「グラフィケーション」で毎号書いているのだけれど、最新号は羊羹の「トラ屋」についてでした(笑)。

 でも、偉ぶったりしない、いい人です。

 「偉ぶったりしない」ことをなんでわざわざ書くかというと、一度、朝日新聞の解説委員をしている人から名刺をもらったことがあるのだけれど、その名刺がすごくて、「朝日新聞解説委員」の肩書きと名前だけだった。

 電話も住所もなし。

 まあ、この人だけなのだろうが、そんな名刺を見たのは、他に皇族の「三笠宮」だけだった。

 もちろん、三笠宮に会ったわけではない。

 三笠宮の「ガールフレンドだった」という女性に「皇族の名刺ってこういうのよ」ということで見せてもらったことがあるのだけだけれど、電話も住所もなく、ただ名前だけ。

 そっくりだった。

 まあ、私に対して偉ぶっても、あまり意味がないと思うけれど。
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シナリオ

2012-05-08 22:48:25 | Weblog
 連休中、ネットにつながらなかった。

 理由は、データカードを使っていること、そのバージョンが古いので性能が悪く、ネットが混むと、つながらなくなってしまう…のだろうと思うのだが、よくわからない。

 今も、途中で切れてしまい、再度つなげたところだ。

 新バージョンには無料で交換できるのだけれど、パソコンを買い替えなければならない。

 でも今は、クォークを使っている関係で、どうしてもOS9でないとダメなので、新しいのに買い替えるわけにいかない。

 結局、ネット用にレオパルドを買うのかというと、そんな気にはなれない。

 ネットをやるだけなら、マイクロソフトのXPで充分のはずだし。

 と、以上は枕がわりのグチ。

 これから本題のグチなのだが、政府は拡大ASEANみたいな集まりで、新たな通貨危機に備える積み立て基金をつくるという名目で、ン兆円の支出を約束したそうだ。

 つい1、2週間前にはヨーロッパの通貨危機に備える基金に同じくン兆円たんいの支出を決めていて、あわせて少なくとも十兆円の支出を外国に対して約束したわけだが、これだけ財政危機を煽っていながら、マスコミは何の反応もしない。

 それどころか、新幹線はつくるは、第二東名はつくるは。

 さっきも、その第二東名のSAが紹介され、お祭り騒ぎだったが、SAがどんなに汚い利権の塊であるか、ということはすっかり忘れているみたい。

 お父さんの会社は大変なんだということで、子供たちには質素節約を説き、一歩外へ出ると、一転の「大盤振る舞い」。

 かどうかはわからない。

 本当に、お父さんの会社は大変なことになっているのかもしれず、それ故に、お父さんは外に「いい顔」をしているのかもしれない。

 それで、お父さんから事情を言い含められているお母さん(マスコミ)が、子供たちに、「お父さんはサラリーマンだから、ちゃんと背広にネクタイをして、毎晩接待しているし、付き合いのお金も必要なんだけど、でも会社は火の車で、給料も安いの。だからあんたたち、我慢してね」と言っているのかもしれない。

 でまあ、これが一番ヤバいんだが。

 いずれにしろ、テレビをつけるとどこでも、グルメ番組ばかり。

 グルメ番組でなくても、しょっちゅう口をもぐもぐさせていて、醜いったらありゃしない。

 昔から、日本のドラマは飯を食ってばかりいると、批判されていたのだけれど、最近はこの「批判」もどこへやらだ。

 話がそれたが、政府、日銀は、私の記憶している限り、20年以上前から、日本国民には、財政が危ういと言い、外に対しては「大丈夫」と言い続けてきた。

 そしてそれをマスコミは黙認してきた。(「黙認」でなければ、これほど明々白々な事実を説明できない)

 いったい、真実はどこにあるのか?

 もっともあり得るシナリオは、お父さんの会社の不振は、事実ではなく、でも内には厳しい顔をしていた方が都合がいいからそうしているというもの。

 じゃあ、今のまま、お父さんの渋い顔を我慢して受け入れていればいいということになるのか?

 冗談ではない。

 子供としては、こんな、子供をだまし、かつ苦しめるシナリオは断然破棄し、たとえお父さんの会社が行き詰まっていなくても、行き詰まって首を吊るのを、万歳して見届けてやる!という気持ちになる。

 私が野田の息子だったら、そう思うね。(野田は私より年下だが。トホホ)

 なんといっても、「だます」のが一番よくないのだ。
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say your version

2012-04-30 20:26:47 | Weblog
 なんとか「写真の地層」展も終わりました。

 土曜日には中平卓馬氏本人が見えて…。

 ただし、その御本人は、ここ一年、ほとんど口を開かなくなったそうで、また文字を読むこともないそうで、周りの付き添いの人が「中平さんのことが書いてありますよ」と私の壁紙を指差しても、なんとなくニコニコ笑っている風ではあるけれど、それだけだった。

 とりあえず中平氏のことはさておき、科学史の専門家である村上陽一郎と、宗教評論家といっていいのか、ひろさつや氏の対談本「現代科学・発展の終焉」(主婦の友社)という本を読んで、非常に面白かったので、それについて。

 中でも面白かったのが、ひろさちやが、アメリカ人と話をしているとき、「セイ・ユア,バージョン」と言われたいう話。

 そのアメリカ人曰く「お前が話しているのはお前のオピニオンだ。私が知りたいのは、お前のバージョンだ」と言われたというのだ。

 しかし言われた時はよくわからず、後で調べたら、オピニオンというのは、その人が真実だと思っていることを主張することで、バージョンというのは「異見」と訳されていたという。

 つまり、件のアメリア人は、今、自分たちが話題にしていることについて、「お前が真実だと思っていること」ではなく、「お前が考えている対処方法があるなら、それを言え」と言ったということなのだろう。

 なんとなくわかるし、私が以前からNHKにかみついているのは、NHKが自分のオピニオンばかり言っているからなんだ。

 オピニオンリーダーを気取っているのかもしれないが、大公共放送のNHKが、自分が真実だと思っていることを放送で流されたらたまったものではない。

 ただし、NHKのバージョンを明らかにする権利はある。(ただし、今から言う事は自分のバージョンですとちゃんと断らなければならない…と思う。)

 しかし、「異見」といっても、いまいちイメージがわかない。

 それで英英辞典で調べたら、opinion は「that which a person thinks about somethig」とあった。

 なるほど、明快である。

 ではversionはどうかというと「one person`s account of an event, as compared with that of another person」とあった。

  これも明快だ。

 「異論」というと、「ちょっと変わった異見」といった風に理解されかねない。

 あくまでも「say your version」と言いたい、NHKさん。

 さて、そのNHKで、昨日の深夜、解説委員風の連中が集まって、自分のオピニオンを述べていた。

 一年前くらいから、定期的にやっている番組だが、くりかえずが、NHKは、自分のversionを言う権利はあっても、pinion は言ってはならない。

 と断じてもいいと思うのだが、これはある意味、知識人としてのセンスの問題なので、一応、私のオピニオンとして述べておく。(ここはたぶん、オピニオンでいいのだろう。)

 で、話は結局、高齢社会における社会福祉をどうするかということになるわけだが、その前提として、日本政府の抱える国債が1000兆円を越えているわけで、その「現実」を見据えなければ、何を言っても非現実的だ、ということで皆さんいいですね、と言うと、解説委員一同うなずいていた。

 民主党の「マニフェスト」は、「非現実的」ということのようだが、忘れてはいませんか!と言いたい。

 それは、その番組にツイッターで参加していた視聴者も誰一人指摘していないこと、他のマスコミも全然触れていないことなのだが、日本政府が、IMFにものすごい巨額の支出を決定したということだ。

 アメリカは、自分のところの財政赤字が厖大なのでという理由で支出を拒んだというのに、日本は、1000兆円の借金がありながら、ほいほい金を出すわけだ。

 どう考えてもおかしいだろうに、それでも、何にも言わない、日本人。

 財務省は、「厳しいフトコロの中から、なんとかやりくりして欧州危機の回避することができれば、日本の景気にも好影響になるし、日本の評判も高まる」とか考えているのだろうが、だとしたらそれに対する異見――versionを言わなければならないだろう、マスコミは。

 もし仮に財務省の意見に賛成でも、それでもあえて「異見」を陳述する義務が知識人、マスコミにはあるのだ。

 ひろさちやと村上陽一郎の対談本に戻ると、同書の後書きに、ひろさちやが次のように書いていた。

 日本人は真の宗教を持っていない/だから「科学教」というインチキ宗教の狂信者になってしまうのだ。/これは危険である。/早く目を覚まさないととんでもないことになってしまう。/私はそのように憂えているんである。

 同書は平成6年の出版だから、フクシマ事故のずっと前だが、まさにフクシマ原発事故は、ひろさちやが憂えていたことが起きた、と言っていいだろう。

 「日本人は真の宗教を知らないから、インチキ宗教に引っかかる」という論理は「真の宗教とは何か」という、結構難しい問題を含んでいるわけだが、それにさらに、「科学教」という言葉が絡むから、いっそう難しい。

 フクシマ原発というか、日本の原発が全部そうなのだが、安全委員会が「全電源が喪失するという事態は考えなくてもよい」という一言が今の事態を招いているわけだが、何故、「考えなくてよい」という、世界中のすべての科学者、技術者が異口同音に「信じられない!」と驚く、不思議な結論に至ったのか、それをじっくり考えると、日本はどうしても、そういう不思議な結論を受け入れざるを得ない、歪んだ社会なのだという結論に達してしまうかもしれない。

 福島の樹齢千年以上の桜をあがめ奉る愚民、いや、心優しき選良の人々を見ると、日本人は真の宗教を持っていないから、科学教というインチキ宗教の狂信者になるというひろさちやの言葉がむべなるかなと思ってしまう。

 鈴木大拙は、日本の敗戦を見つめて書いた「日本的霊性」の中で、万葉集の「今の世に楽しくあらば来む世には虫にも鳥にも吾はなりなむ」という歌を挙げ、日本人は古代から深刻な宗教意識と無縁だったと嘆いているが、もし鈴木大拙が生きていたら、「全然同じだ」と言うだろうなあと思う。

 もっともっと「深刻」になり、とことん「絶望」し、生活を根本から変えなければ、明日なんか、見えてくるわけがないのだ。
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北朝鮮当局直営サイトで激安販売

2012-04-24 22:19:58 | Weblog
 更新できなくてすみません。

 今回は、写真の地層展14というのに参加するのでその準備やらなにやらで。

 4月25日から29日まで、世田谷砧公園内の世田谷美術館でやっているので、よかったら見に来てください。

 私は、実は、写真ではなく「中平卓馬というサンクチュアリ」という写真論と「庭のあじさい」という志賀直哉風の(タイトルだけか)エッセイを二つ、でかくプリントして壁に貼った。(「庭のあじさい」も、あじさいを写真に撮った時の話なんで、写真に関係がある。)

 これは、実は、大辻清司氏の回顧展で、大辻氏の文章がでかでかと壁に貼ってあったのを読んで、大いに「なるほど」と思った経験があって、それを真似したもの。

 他の人たちも、なかなかバラエティに富んでいて、展覧会として、面白いのではないかと思う。

 関口正夫氏の、昭和30年代の下町の写真なんか、明治時代に見えて、不思議に思った。

 まあ、私は今も毎日新宿を歩いているわけだけれど、私が高校生の頃に歩いて、見ていた新宿とはまるっきり違うが、しょっちゅう変わっているから、なにが変わっているのかわからない。

 「わからない」から、なにを変えたらいいのかわからない、ずるずるべったりな、今の低迷があるんじゃないかとも思う。

 変わらないと、かえってなにが変わっているか、わかる、そういう「変化」を感じる心が変革を可能にするのだと思う。

 橋下が野田につきつけた原発再開八ヶ条を、テレビ朝日の古館と一緒に出ている朝日の解説委員とやらが、「原発百キロ圏内の自治体の了承と再開の条件とする」という一項目について「これは政府は飲めませんから」と言っていたが、何故「呑めない」のか、ちゃんと説明してこそ「解説委員」なのじゃないのか。

 朝日新聞が「呑めない」んじゃないのか?

 今、古館ショーを見ていて、頭に来たので、つい話がそれたが、夢の話をしま〜す。

 今朝、展覧会の準備で、頭がごちゃごちゃになりながら、朝方、「寝なきゃともかく」と思って寝床についたが、間もなく変な夢を見た。

 またしても、夢ともなんとも判断のつかない変な精神状態だったのだが、「展覧会の準備」というのが、今回は文字プリントの準備というわけで、パソコンに張り付いていたのだが、その「張り付いた状態」がそのまま夢になったらしく、画面に妙なサイトが現れ、激安セールをやっている。

 ところがそのサイト、北朝鮮が経営しているサイトらしくて、「激安」が半端じゃない、激安ぶり。

 というのは、北朝鮮の給料の安さに適応した商品価格なのだが、それでも商品はちゃんとした日本製。

 例えばトヨタの乗用車を北朝鮮人民が買うことのできる金額をそのサイトでは提示しているらしいのだ。

 まあ、乗用車は販売リストに載っていなかったが、日用品だとか、食料だとか、すべてが仕入れ値とか、そういうのは勘定に入れていない、北朝鮮人民が購入可能な「北価格」。

 こんな値段で買ってしまって申し訳ないと思うような、タダみたいな価格なのだが、相手にしてみれば、どんなに安くても、買ってもらって現金が当方の懐に入れば、それでよい、という話らしい。

 要するに「盗品を安く売る」みたいなものかもしれない。

 盗品ではなく、国連の救援物資の横流しとか(同じか)。

 そんな風に「激安」の舞台背景を推測した上、それじゃあ、買おうかと決心し、あとはワンクリックするばかり、なのだが、北朝鮮人民の貧窮につけ入るようで、内心忸怩たる思いが捨てられずに、やっぱり気になる。

 でもここまで安いのはちょっとないので、ついに再度、決心、買おうと思って、いざクリックしようと思ったのだが、現実の私は寝床の中。

 「あれ?」と思う。

 起き上がって、とりあえずトイレに行って、戻ってきてもまだ、激安サイトで購入するつもりだった。

 でも、どうやって?

 それが全然わからない。

 そのうち、「あ、これは夢だったのだ」と納得してから改めて寝たので、起きたら昼近くで、それから支度をして、埼玉から遠い遠い、はるか彼方の世田谷美術館に行ったのだった。

 
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埼玉VS東京

2012-04-04 21:17:29 | Weblog
 今、仕事で追い込み状態で…と言うべきなのだが、もちろん、それもあるが、「風に吹かれて」テキスト版(笑)の追い込みも重なって、更新がままならないが、昨日の「メイストーム」について、少し書いて、お茶を濁したい。

 編集長は、4時前に、「今日は荒れそうだから、みんなも早く帰るように」と言い残して退社、私も、いつもより若干早く、5時少し過ぎに帰途についた。

 本当は、もっと早く帰ろうと思えば帰れたのだが、そもそも3.11以来の「帰宅困難」状況に根本的に疑義があるので、わざとそれに巻き込まれてやろうという意図がないではなかった。

 ともかく、5時半頃、新宿の埼京線の始発ホームについたのだが、到着の時間が遅れるとのアナウンスに、「風に吹かれて」のテキスト版の見直しをしながら、待つことにした。

 待つこと、20分弱で電車は到着、そのまま赤羽に着いたが、京浜東北線が全線ストップしているという。

 以前、「強風で荒川の橋を渡れない」、というアナウンスがあったことがあり、昔はこんな風で電車が止まるなんてなかったと思ったことがある。

 10年か、もう少し前、橋桁が日本一高い鉄橋から強風に煽られて脱線転覆して死者多数を出した事件があり、以後、ほんのちょっとの風でも、鉄橋がある路線のJRはすぐに止まるようになってしまった。

 それで、今回も荒川大橋でひっかかるかもしれないと予想していたのだが、アナウンスによると、京浜東北のストップは横浜で止まっている影響だということで、止まった理由は不明だが、アナウンスは「いつ走れるかわからない」と、噴飯ものの内容でも、駅のどこにも駅員がいないから、文句のつけようもなく、階段で、テキストチェックを再開したが、ふと気がついた。

 赤羽駅からバスで川口まで行けばいいのだ。

 3.11のときは、そのバスも全面ストップだったが、今回は「走っていない」なんてことはないだろうと思ったのだが、確かにバスはいつも通りの様子で走っていたが、「川口方面行き」のバスが見当たらない。

 バスの運転手に聞くと「赤羽から埼玉方面のバスは出ていない。(赤羽と川口市をつなぐ)荒川大橋までは走っているので、そこで乗り換えてくれ」という。

 これには、驚いた。

 要するに、川口市が東京都に接する、その境界まではつないでやるから、その先は、埼玉人が勝手にやりなさい、というわけだ。

 赤羽発のバス路線の会社はすべて国際興行バスだったが、バス会社の方針でそうなっているのではなく、たぶん、行政の意向なんだろうが、東京と埼玉の連係プレイがどうなっているか、私は全然わからない。

 荒川を渡ったところで途方にくれるかもしれない。

 それで、バスに乗るのはやめた。

 そんなこんなしているうちに、雨もやみ、風もおさまってきたみたいなので、もしかしたら京浜東北線が再開しているかもしれないと思って戻ったが、依然、電車は止まったままで、アナウンスも「いつ再開するかわかりません」と言う。

 駅周辺はすっかり日常のままなのに、しょうがないので、近所のマックに入り、腕時計を見ながらテキストチェックをしこたま、ほぼ2時間近くやって、駅に戻ったら、再開していたので、それに乗って帰宅した。

 という半日だったが、ともかくびっくりしたのは、バス路線が完全に行政地区によって、区切られているということ。

 電車路線の場合は完成しているので、行政が介入できないのだろうが、介入できる限り、介入する、自分の権限の及ぶ範囲をできるだけ大きくしたいというのが官僚野郎の本性、というか本能なのだということがはっきりわかった。

 あともうひとつわかったことは、昨日の交通機関の混乱は、強風のせいなんかではなく、行政が敷いた、強風警戒の基準のせいだということ。

 電車が転覆するような強風ならしょうがないが、そんな強い風でもない、でも、法律のせいで動けない。

 昨日、起きたことはそういうことなのだ。

 マスコミは、そこを問題にすべきではないのか。

 一つ、強風基準は今のままでいいのか、否か。

 もう一つは、そもそも災害対策を「法律」で考えることがどこまで妥当なのかということ。

 たとえば、もし、「強風」が深夜になってもなかなか収まらなかったらどうするつもりなのだ?

 法律主義の場合、あくまでそれに従わねばならないから、昨日がそうだったように、みんなさっさと帰宅することで対処する。

 でも私は、こんな「対処」はまっぴらご免だ。

 何故なら、対処できなかったやつは、「バカ」とののしられるだろう。(でも昨日の私は「対処できなかった」のではなく、「対処しなかった」のだ。)

 こんな社会は絶対に嫌だ。

 でも、そういう社会になりつつある日本。

 野田は、自分が集めた「有識者会議」で、「これからの日本は単身者がますます増えるということを前提に社会政策を考えるべき」と、有識者の一人が発言したところ、その発言を遮って「そういう社会は駄目だ」と言ったそうだ。

 ぶっ殺したろか、と本気で思った。

 単身者は、貧乏人と言い換えてもいい。

 日本は、「貧乏人がいることを前提にした社会ではなく、貧乏人がいない社会を目指す」と言ってやってきたのだが、これがいかに本末転倒した考えか、官僚も、野田もわかっていない。

 何故なら、そういう社会では、貧乏人は「いては駄目」な存在になってしまうからだ。

 そういう社会になったら、私は、もし仮に億万長者でも、億万円を放棄して貧乏人になってやる。

 「少し」のつもりが…野田のせいだ。
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私だけが、知っている

2012-03-21 21:52:57 | Weblog
 前回の書き込みに、瓦礫処理は広域処理より、現地処理が原則だろうという書き込みがあった。

 たぶん、そうなんだろうとは思うが、それはそれとして、その前に、自分たちで協力できることは協力するということを「前提」として確認することの大切さを言ったつもり。

 そういうことを、指導者は雄弁に語らねばならないのだが、野田は「演説がうまい」んだそうだが、肝心要をまったく語っていない。

 原発の再稼働問題だって、もはや新規建設は不可能なんだから、「革命的な新技術が現れない限り、新規建設は行わない」と明言し、その上で「でも今すぐ原発を廃止するわけにはいかないので、再稼働は原則オーケーとし、太陽発電等の自然エネルギーの現実化をもってそれに代える」と言えばいいではないかと思うのだが、野田の言葉からは「再稼働を認めないと、日本経済は沈没する」みたいなイメージしか伝わってこない。

 野田を「バカ」と言うのは、「原発是か非か」みたいなオール・オア・ナッシングな問題設定をしてしまうから「バカ」と言うのだ。

 もちろん「オール・オア・ナッシング」は、それで押せば国民はついてくると思っている官僚が後ろで操っている。

 さっきニュースでやっていたが、「帰宅難民」が発生した場合、家で取り残されることになる子供のための避難訓練をやっていた。

 繰り返すが、地震当日、首都圏では線路がぐにゃぐにゃになったり、車両が転覆したりしたことはいっさいなかった。

 だとしたら、JRが終日運休になったことは、果たして適当だったのか、深夜になってからででもいいから、その日のうちに運転を再開することはできなかったのか、そのことをマスコミはまず検証すべきだろう。

 もうたっぷり20年近く前、四谷三丁目に事務所があった頃、付近一帯が「地上げ」の対象になり、テレビ東京だったと思うが、その様子をビジネスニュースで放送したが、「いったいどこの街の話?」と見ていて思った。

 番組担当者がつくったストーリーしか見えないのだ。

 もちろん、私は直接地上げの対象になったわけではないので、そこでどういうことが行われていたのか「実際には知らない」――という意味では、番組をつくったテレビ東京のニュースディレクター氏と五十歩百歩なのだが、ニュースの映像に「私は地上げの本当のところは知らない」という意識を見いだすことはできなかった。

 もちろん、テレビ東京のことだけではない。

 どこもかしこも「オレだけが知っている」という意識で番組をつくっている。

 わざわざ、文字を隠し、それを話の展開でおもむろに剥がす、あのバカバカしい演出方法も、「オレだけが、知っている」という態度が裏にある。

 今回の大震災に関するマスコミ報道は、それに輪をかけて、自分勝手に作り上げた「お話」を放送している。

 そんな「お話」に、真実は1%もないことは、はっきりわかっている。

 もちろん、私だって、東北でいったい何が起きたのか、何も知らない。

 でも、ソクラテスじゃないが、私は「知らないことを知っている」。

 それにしても、なんでみんな、ああ働きたいのか。

 今日も今日とて、春の選抜の初日とかで、「生きる勇気をもらいました」とか「元気になってもらいたい」とか、無能社会部記者の腕の見せ所の映像音声ばかりで、まああれで本当に「勇気をもらって」、明日からまた頑張って働くぞという人がいるのなら…がんばってください。

 しかし労働者というのは、つまるところ、奴隷なのであって、だからこそ団結してその権利を主張するのだ。

 大阪の市バスの運転手が平均年収800万円以上あることを橋下がバラしたが、バスの運転手が高給をもらってなんでいけないのか?

 それは、バスの運転手は、本来、奴隷であるからだ。

 言い換えれば、「貧乏は正しい」というテーゼを裏切ることになるからだ。

 テレビ取材に、市バスの運転手は顔を伏せて、こう言っていた。

 「住宅ローンがあるし…」

 どんな住宅に住んでいるんだ!

 もっと貧しい市営住宅に住んでいれば、こんな「貧しい精神」の持ち主にはならなかったはずだ。

 といっても、その市営住宅というのが「年収800万」にあわせて、すっかり豪華になってしまった。

「みんながより豊かな暮らしを営めるように…」

 こうして「公営住宅」はバブルを機に「中流以上向け」になり(私の知り合いはそれで横浜の市営住宅を追い出され、ホームレスになってしまった)、それがバブルで失敗、撤退した結果、貧困者向け住宅は民間アパートだけになってしまった。

 私は今、そういう民間アパートの一つに住んでいるわけだが、その私の住んでいる環境が私のアイデンティティの確立に全く寄与していないのは、「市営住宅」等にはあるであろう「公的関与」がまったくないからだと思う。

 もちろんそれがあったとしても、近隣の住人と親しく話をするなんてことはないと思うけれど、でも「心のありよう」は外からはわからない。

 貧しい人はどうしても連帯しないと生きていけないし、そのことを「低所得者向け住宅」における集団的生活は、気づかせてくれる。

 もしかしたら、官僚はそれを警戒して「低所得者向け住宅政策」をネグったのかもしれない。

 たかが東大卒がそこまで頭が回るとは思わないが、いずれにせよ「瓦礫処理」の問題も、広く、この「心のありよう」のことを言ったのだ……と話が戻ったところで。
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ポストモダンと明仁天皇

2012-03-16 22:17:40 | Weblog
 前回の書き込みに、「近代の天子様(江戸時代以前の)は、それ以前の天子様はちがうので云々」というコメントの書き込みがあったけれど、近代の天皇、つまり、明治天皇以後の昭和天皇までの三代の天子様に対し、現在の天皇は、まったくちがっている、つまり明仁天皇は、「近代の天子様」ではない、というのが私の、というか関曠野氏の説の前提となっているので、ちょっと説明しておきます。

 昭和天皇は戦後すぐに「人間宣言」をしたけれど、意識はやはり、明治憲法に由来する祖父の明治天皇ゆずりの「近代の天皇」だった。

 対して、明仁天皇は、即位のときに、「国民のみなさんとともに憲法を守り……」と、現行憲法下の「象徴天皇」であることを自ら確認した。

 現行憲法における「象徴天皇」は、意味が必ずしもはっきりしていなかったが、明仁天皇において、その方向が明示され、以後、皇后陛下と二人でその「実践」にあたってきたが、3.11後に放送された「日本国民みなが、被災者を思いやり……」というビデオメッセージは、以前の形式的象徴から、実質的象徴にまで自ら肉づけした「国民の象徴」としての天皇の位置からの発言であった。

 と関氏は言っているのだけれど、私も、明仁天皇の即位時の言葉は覚えているし、その内容が一時、話題になったことも覚えているが、あまり重要には思っていなかった。

 私が、明仁ファンになったのは、皇太后を宮内庁病院に見舞いに行った帰り、様態が急変したことを聞いて、小雨の中を小走りに走って病院に帰った、その様子が写真に撮られていて、その写真を見て以来、信用に足る人だ、と思うようになったのだ。

 その写真は、ブレッソンの「水たまりを飛び越える人」のような感じで、傘をさしたまま、水たまりをジャンプして越えた瞬間を撮ったもので、ブレッソンの写真より事態ははるかに深刻で(ブレッソンの写真で水たまりを飛び越えているおじさんが、どんな理由で空中に飛んだのかわからないが、「肉親の危険」という事態は到底想像できない)伝わってくる雰囲気も、夜中近かったということもあるだろうが、緊張感に満ち、なおかつ、真摯さにあふれていた。

 もちろん、普通の人間だったら、母親を見舞いに行って、いったん無事と思って帰ろうとした直後に、一転、「危ない」と言われたら、どうしたって「真摯」にならざるを得ないけれど、それを越えていた、というか、逆に「天皇陛下も普通の人の子なんだな」と思ったのだった。

 それでまあ、ファンになったのだが、中国の温家宝首相も同じように、ある一枚の写真を見て、「ファン」になった。

 それは、四川省の大地震の時、現地に赴いた首相が、誰の靴だかわからないが、子供のズック靴を両手に持ち、呆然としているところだった。

 私は、中国の「権力者」というものに「偏見」があって、人民のことなんかまさに「草」としか考えない伝統があるのだと思っていたのだけれど、温首相に関する限り、ちょっと違うのではないかと思うようになったのだ。

 その温首相、もうじき退任だそうで、その最後の記者会見があって、そこで、「今のままだと中国は、かつての文化革命時の悲劇を繰り返すことになるかもしれない」と警告して、記者席は、一瞬「静まり返った」そうだ。

 温首相、何を言いたかったのか。

 それはさて、私はいったい何を言いたかったのかというと、要するに、大事なのは「人間性」っつうことやね。

 明仁天皇は、自分が天皇であるという以前に、人間であることを明確に宣言することで、進駐軍が一夜漬けでつくった憲法に「肉づけ」し「内容を与えた」た、というのが関曠野の説だ。(それでも私は、憲法改正そのものはしなければならないと思っているけれど。)

 その関曠野が京都への再遷都を言うのは、「真の象徴天皇」には、政治の中心である東京より、文化の中心であった京都がふさわしいという理由による。

 ネオ神道の金井某なども、日本近代の誤りは、薩長勢力が天皇を東京に拉致したことに根本原因があるので、天皇は京都に戻るべしと言っている。

 ネオ神道そのものは、「ファンタジー」にすぎないが(でも、結構よくできたファンタジーではある)薩長が天皇を拉致したという政治のリアリズムは関曠野と同じである。

 まあ、そんなわけで天皇陛下が、3.11記念日に、再度「国民皆が被災地の苦難を分かち合い」と明言したせいかどうかわからないが、静岡県の島田市市長が瓦礫受け入れを正式表明したそうで。

 日本国民ならば、まず、受け入れる事に同意するのが前提で、それから、「いや、うちの町はこれこれの理由があるから」と言えばいい。

 そうすれば、少なくとも、他府県の住民から文句が出るというバカげた構図はなくなる。

 反対派は「政府への不信」がその理由だそうで、中をとりもつ「マスコミ新聞」も「不信はごもっとも」と媚を売るが、ここはたとえ野田のバカが相手でも、とりあえず「信用する」が前提だろう。

 野田のバカについて書くつもりだったのだが、今回は「野田のバカ」と言っただけでおしまいとする。(「野田のバカ」だけは言いたかったんだ、と、これで四回言ってやった!)
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3.11に思うこと

2012-03-09 23:08:44 | Weblog
 明日は3月11日。(「今日になってしまった」)

 記念番組だらけだろうと思うと、今からうんざりする。

 さっきも、NHKで、「被災地から離れたところに住んでいる人が被災者を励ますためにしてあげられること」というテーマで、ひげ面の私と同年輩の親父(どこかの教授あたりだろう)が、いろいろ語っていたが、きれいごとばっかり!

 「被災地の瓦礫を受け入れること」の一言が言えなくてどうする!

 と言うと「放射能の恐怖を考えると、拒否する人の気持ちもわかる」てな言い訳を言うに違いないが、震災後間もなく、天皇陛下じかじかの要請により放送されたビデオメッセージで陛下がなんと仰られたか。

 「……また国民の一人一人が被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心から願っています。」

 これが何を意味するか?

 遠隔地の住民が「瓦礫を受け入れること」に他ならない。

 日本の知識人たる者、「国民皆が被災者の苦労をわかちあうことを天皇陛下も望んでいる」と言えばいいのだ。

 そんなことを言うと「天皇の政治利用だ」とかなんだとか言う奴が出てくるだろうが 天皇は「国民の統合のシンボル」と憲法で位置づけられているのだから、何も遠慮することはないのだ。

 「沈黙と判断保留(エポケー)が、明証を欠いた事柄に関してのもっともすぐれた捧げもの」

 と、はるか古代の昔にアレクサンドリアのピロンが言っているように「瓦礫問題」の四文字は出さずとも、誰もが「ああ、瓦礫処理のことだな」とわかるし、わかるように語るのが、知識人の役目だろう。

 ともかく3月11日を前に言いたいことは、「頑張ろう」って言っている間は駄目ということ。

 何故なら「頑張ろう」というセリフは、そう言わなければならない理由があって言っているわけだから。

 「頑張ろう」と言わなくなってはじめて明日が見えてくる。

 じゃあ、なんで「明日」が見えないかというと、やっぱり原発が大きいと思う。

 津波だけだったら、3万死のうが、10万死のうが、「助かった人はラッキー」で、その幸運を噛み締めて、明日への希望を胸に「頑張る」ことができるが、原発は、死者は一人もいないが、生きている人全員、不安に苛まれながら生きなければならない。

 そんなんで、どう「頑張る」というのか。

 フジテレビで、福島の原発近辺で自衛隊員が、津波の犠牲者の遺体捜索をしている映像が流れていたが、遺体を見つけたからといって死んだ人が生き返るわけではない。

 犠牲者(死者)が出てはじめて「見直し」がはじまるというのが、これまでのパターンだが、遺体捜索で死者が出る前に「遺体」に対する過剰の執着を考え直した方がいいのではないか。

 「リスクマネジメント」とやらがしきりに喧伝されているが、リスクに対処するには、まず「死んだ人は生き返らない」と割り切ることが必要だろう。

 ニュースでも「遺体捜索」ではなく「死体捜索」と言えばいいのだ。

 臓器移植なんかも、臓器移植自体の是非は別として「遺体」という「言葉」が壁になっていると言ってもいいくらいだ。

 もっとも実際に「壁」になっているのは、生と死の判断が極めて早い段階で求められることに対する違和感、戸惑いだろう。

 なにしろ、体温がまだ暖かい段階で、内臓が取り出されるのだから。

 しかし、世界ではそれが普通になっている。

 というと、我々日本人は繊細にできているとか言いだす。

 だったら、臓器移植は禁止ということにすればいいのだが、実際にはそれもできず、結局、金の力にモノを言わせ、海外で移植手術を受けることになる。

 日本人はなんて勝手なエゴイストなんだろうと、現地の人は思うだろう。

 瓦礫受け入れを表明したものの、住民の反対で挫折した静岡の市長が、「日本人はエゴイストなんだよ」と吐き捨てるように言っていたが、今上陛下が「国民の一人一人が……被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていく」ことを願われたのも、日本人がエゴイストであることを念頭に置いてのご発言であらせられたのか。

 そこまでは思いたくないが、でも、「願う」というのは、現実がそうでないから「願う」わけで……。

 天皇の「ビデオメッセージ」発言は、先端的なベーシックインカム論者で知られる評論家、関曠野の「フクシマ以後」に収められた書き下ろし原稿を参照した。

 彼の皇室論は相当面白い。

 私は、京都には何度か行ったことがあるが、毎回、「本来あるはずの何かが欠けている」と思う。

 「あるはずの何か」、それは「天皇」である。

 「天皇は無理でも、せめて、国民にアイドル的人気のある火星ちゃんこと今上陛下の弟宮、常陸宮殿下の京都在住で対処すべく、政府に請願したらどうか」と、帰京(これも、本来は「京都に帰る」という意味なんだよなあ)直後、おせっかいにも市役所の目安箱にメールしたことがあるのだが、関曠野の皇室論もそれに近いことを言っている。

 関曠野と橋本治が、今のところ、私の先生である。

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抜いた?

2012-03-07 23:05:15 | Weblog
 更新をさぼってしまったが、言い訳は後にすることにして、変な夢を見た。

 前日、寝坊して遅刻してしまったので、今日は早めに寝ようと思ったのだが、「風に吹かれて」のテキスト版がここのところ、ちょっと壁に当たっていて、悪戦苦闘。

 その「悪戦苦闘」の息抜きに(これがいけないのだなあ)、テレビをつけたら「クールランニング」をやっていた。

 カルガリだったかの冬季オリンピックで人気者になったジャマイカのボブスレーチームを扱ったコメディだが、主役は実は、チームのコーチで、これがなかなかの「口達者」で、実績がないということで排除しようとしたオリンピックのボスたちに賭け合う「理屈」がなかなかのレトリックで、オリンピックのお偉いさんたちもついにゴーサインを出さざるを得なくなる。

 見ながら、「なるほど」と思ったのだったが、こうやって頭を使うと、寝れなくなるのだなあと心配しながら、布団に潜り込んだのは、もう4時近く。

 そのときには、「頭を空っぽ」にしなければならないのだが、「クールランニング」のコーチの言葉やら、前日の失敗やらなにやらで頭がぼーっとしたまま、気がつくと、外が少し明るい。

 時計を見ると、6時くらいで、2時間も寝ていないのだが、何故か、丸一日寝たような気分で、事務所に行き忘れたと思い込んでしまった。

 それで、会社のK君に電話をして、「昨日は、寝過ごしてしまって、起きてすぐに会社に行こうと思ったのだが、なんだか行きそびれてしまった。ごめんなさい」と誤る練習なんかをした。

 夢でそうしたのではない。

 起きているのだ。

 そのうち、何がどうなっているのか、だんだんわからなくなってきた。

 というか、自分のしようとしていることがわけのわからない、変なことであることが、だんだんわかってきた。

 何しろ、「遅刻」じゃなくて、「昨日、ついうっかりして、会社に行くのを忘れた」なんだから。

 よく見る夢に、無免許でバイクを乗るというのがある。

 これは、最近もまた見てしまったのだが、実際には、私はバイクなんか持っていないので、起きてから「あー夢だった」と安堵することができるのだが、今回は、それがはっきりしない。

 あれこれ考えているうち、「会社に行き忘れた」というのは、事実ではないだろうと思うようになった。

 ケータイのカレンダーで、今日が何日なのかを確かめればわかると思い、そうしようと思ったが、ケータイがどこにあるかわからない。

 まあ、探すのも面倒だし、「会社に行くのを忘れた」というのは、ちょっとあまりにもあり得ないことだから、きっと何かの勘違いなのだろうと考えているうちに、またうとうとしてしまい、気がついたら、朝の10時近くになっていて、このときには、「昨日、会社に行き忘れた」と思ったその「昨日」は現実ではなく、今日は昨日の翌日であることがはっきりしたのだった。

 というわけで、今回書いたのは、「夢」の話ではない。

 起きたら、自分を取り巻く状況がわからなくなり、一日抜かしてしまったように思ったという話だ。
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あなたと私、または3の悲劇

2012-02-21 23:58:22 | Weblog
 風邪をひいてしまった。

 といっても、寝込んだりしたわけではない、ただやたらに喉が痛い。

 これは昔からの私の風邪の特徴で……てことはないか。

 誰でも風邪を引けば、喉が痛くなる。

 でも今回は、ひょっとしたらインフルエンザかも、と思ったのだが、ネットで調べると、インフルエンザの症状は風邪とよく似ているが、突然、発症するという。

 風邪はそうではないく、風邪っぽい症状がなんとなく続くんだそうだ。

 そういえば、私も10日くらい前から、なんとなく寒気がしたり、くしゃみをしたり、のどが少し痛いなとか、要するに「風邪の症状」に気づいてはいたのだが、大した手当をするでもなく、過ごしているうちに、2、3日前からぐんと喉の痛みが襲ってきたのだった。

 写真家の石元先生、御年90歳が、先日亡くなったが、インフルエンザだったんだそうで、え、インフルエンザだったらやばいなと思ったのだが、でも、90歳では風邪でもヤバい。

 ともかく、その「風邪」も一昨日あたりが症状のピークであったらしく、喉の痛みはほぼなくなった。

 それはともかく、ネットによると、風邪とは呼吸器官に生じる炎症なんだそうだ。

 なるほど、私は昔から「風邪小僧」と言われるくらい、風邪ひきだったのだが、「呼吸器官に生じる炎症」は、実に実感に即した命名である。

 なんだか、また前置きが長くなってしまったが、書きたかったのは、さいたま市の「三人餓死事件」。

 人当たりは大変に良いご老人(父親)で、息子は数年前まで自動車で通勤していたそうだが、最近は金に困り、近所に金を貸してくれと、奥さんが言ったりしていたそうだが、「生活保護申請のための民生委員を紹介する」というと、それは嫌だと断ったとか。

 それでわかったことは、秋田の大館市の出身、さいたま市には住民登録もしていなかったそう。

 それで生活保護を忌避したかどうかわからないが、多少、謎はあるようだが、この世界に冠たる近代国家、ニッポンにおいて、餓死者がこうも頻繁に起こるとはどういうことなのか。

 「どこの国でも同じようなことは起きているのだろう」と言う人もいるかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。

 「格差」大国のアメリカでこんな「餓死事件」は報じられたことがあるだろうか?

 例外的に、条件が重なって、そうなったというケースはあるかもしれない。

 スエーデンで、雪に閉じ込められたのに、「冬眠状態」で助かったとか。

 これは「助かった例」だが、もしかしたら、「餓死」していたかもしれない。

 しかし、それはあくまでも「例外」で、日本の場合、「例外ではない」ように思えるのが問題なのだ。

 さらに言えば、そう「思う」のが私だけではないと思う。

 これは、要するに、日本という社会はどこか、おかしいということなのだ。

 昔、明治維新の日本政府の急進派の一人、森有礼の孫の哲学者、森有正は、日本を、「私」と「あなた」の2項関係からなる社会だと言った。

 2項関係とは、もし「私」が、「あなた」と言ったとしたら、「あなた」もまた、私を「あなた」と言うだろう。

 これが2項関係だが、それを成り立たせているのは、実は「言葉」である。

 「言葉」が、2項関係を「社会」にまで引き上げているのだけれど、この「言葉」は、実は、父親的な力を象徴している。

 一方、2項関係を成り立たせている「あなた」は、もとはといえば、母親という鏡に写し出された「私」である。

 ナルシスの神話は、この2項関係の「恋着」と「慰安」のなかに安らごうとする内閉的傾向が、「第三者(父親)」が2項関係のなかに持ち込もうとする「苦悩」から逃避しようとして陥った悲劇である。
 
 とこれは、ジャック・ラカンの説だ。
 
 さて、ここで「三人餓死問題」に戻るが、というか、もっと問題を広げれば、例えば、日本では殺人事件が少ないという。

 実際には、そんなに極端に少ないわけではなく、それなりの数の殺人事件が起きているのだが、ただ、起きているところがほとんどの場合、家族関係のいざこざで、起きているので、その家族とは関係のない人たち(でも、そう思っている人たちも、実は……ということもあるのだが)は、安全な日常を送ることができているというだけなのだ。

 本当は、犯罪が頻繁に起きていることが、社会を「よりよい」方向へ向かわせる力となるのだが、「家族同士の殺し合い」は、その人たちだけで済んでしまう。

 警察官僚どもは、いや、マスコミも皆、「日本は安全」と繰り返すが、実情を世界の人に訴えたら、皆、愕然とするだろう。

 官僚の発想から言うと、第3者に被害を及ばさない「家族間殺人」は、「実害はない」という判断になるかもしれないが、でも、日本では、すべてが2項関係で処理され、「第3者」がいないのだ。

 森有正は、このことを、「日本社会には何か根本的なものが欠けている」と表現している。

 森有正は熱心なクリスチャンなので、つまるところ、この「根本的なもの」は「神」ということになるのだが、「第3者」でも同じなのだ。

 「3」と言えば、日本では3万人近い人が死んだが、その少し前、ハイチの地震では30万人死んでいる。

 それで、東京オリンピック招致のキャッチフレーズ「震災復興」は、対外的には全然キャッチーではないので、「震災復興」は「国内向け」のスローガンなんだそうだ。

 なんてお粗末な国なんだろう、日本は。

 ただ「恋着」と「慰安」のなかに安らぐことを望み、第三者がもたらす「苦悩」から逃げ回っているだけ。

 特に大震災以降の日本は……。

 うーん、でも、世界はその「日本」になりつつある、という人も結構いる。

 コジェーブなどの、スーパー知識人がそうだし、ケネディがキッシンジャーとかガルブレイスとかの知識人を集めて「戦争のない世界」をつくるにはどうしたらよいかという問題を討議させた結論も「江戸時代の日本」だったんだそうだ。

 最近、東浩紀あたりが、ポストモダンの復活のようなかたちで、この手の議論を起こしているようなので、書いてみた。

 しかし、江戸時代の日本文化というのは、家元制度が典型だが、完全な形式主義で、内容を欠いている。

 たとえば、今、日本では誰も彼もがマスクをしている。

 あれはたぶん、インフルエンザ防止なんだろうが、でもマスクでインフルエンザが防げるわけがない。

 でも、多くの人がマスクをしている。

 これは、「どうせカタチだけですから」ということで、医者もあえて「あんなの無駄」とは言わない。

 つまり、マスクは二項関係の象徴みたいなもんだ。

 こうして社会の「形式」は、内容を欠いても、保たれることになる。

 餓死した三人は、そういう「カタチ」だけの生活保護申請ができなかった人たちだったのかもしれない。

 あるいは、「助けて」という「言葉」は、目の前の「あなた」ではなく、第三者に向けて言う言葉なのだが、それが言えなかったのかもしれない。

 何故なら「あなた」を前にしたら、その「あなた」は、実は「自分」なんだから、「大丈夫」って言わざるを得ない。

 これがナルシシズムの悲劇なんだ。

 合掌。
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船中八策

2012-02-13 23:51:56 | Weblog
 古本屋で、かなり昔の湯川秀樹著「本の中の私」(岩波新書)というのをみかけ、パラパラとめくってみたら面白そうだったので、100円で買い、帰りの電車の中で読もうと思って開いたら、なんか内容がおかしい。

 ルソーとかホッブス、ロックなんて名前が出てくる。

 私が本屋で見たときは、荘子とか、墨子とか、パルメニデスとかの古代人の名前とか、新しいところでは「カラマーゾフの兄弟」なんかが目に入ったのだった。

 物理学者としては、古代原子論者のパルメニデスは別でも、面白い読書傾向だと思い、また書かれている感想もとても面白そうだったのだが、様子が違う。

 まるきり、教科書風なのだ。

 署名を見たら高島善哉著「社会科学入門」で、同じ岩波新書だった。

 教科書風と書いたが、とてもエラそうな書き方をする人で、実際昔はえらい人だったのだろうと思わせる本だったが、いつの間にすり変わったのか。

 思うに、湯川秀樹の本はいったん棚に戻し、それから周辺の本を何冊か見たあと、やっぱり湯川の本にしようと思ったのだった。

 ということは、湯川の本は、再度、棚から引き出したのであり、そのときに隣の本を引っ張りだしてしまったのだ。

 んー、チクショー。

 高島先生の本もなかなか勉強にはなりそうなのだが。

 橋下が「船中八策」を披露したが、中に「ベーシックインカム」が。

 「ベーシックインカム」は、経団連なんかも反対ではないので(何しろ、年金とか保険の企業負担がなくなるのだから)、案外実現するかも。

 しかし、マスコミは、「ベーシックインカム」には触れず。

 マスコミ総出で後押ししようとしている「野田増税」への世論のバックアップがないので焦っているのはわかるが、「ベーシックインカムって、ありますが、なんでしょうね?」くらいは言えよ、と思う。

 「たけしのビートタックル」に出てる金さん銀さんの「娘」だという、88〜97歳の四姉妹が大人気なんだそうだが、彼女の一人が、「消費税増税」について、こう言っていた。

 「どんどんやってちょうだいよ。私は消費しないから」とのたまっていた。

 いや、正論。

 古川副大臣、消費税を上げても、みんな最低限の消費に抑えるから、増税分は、現状では必ず相殺されるってことくらいわかれよ、と言いたい。

 それはさて、「船中八策」を披露する橋下の横に懐かしい、堺屋太一が。

 10年以上前、四谷三丁目で真っ赤な顔をしてコーヒーを飲んでいるところを見たことがあるが、今も変わらず元気そうで何より。

 「船中八策」には、その堺屋が相当絡んでいるのだろう。

 マスコミは馴染みなんだから、呼べばいいのにと思うが、全然顔を見せない。

 自分たちの意見に相反することを言われると都合が悪いのか、どこかのニュースでは、共同通信のよく見る顔が解説者として出ていたが、完全に「政局」がらみの説明で、政策には全然触れなかった。

 「民主党がどうせできない政策をマニフェストにした例もあるから」と、司会者が言っていたように記憶するが(だとすると、TBSだ)、あの政策はできない政策なんかではない。

 高速の無料化なんかは6000億円の準備金がいるとか言っていたが、何にそんなにかかるのか、マスコミは全然追求せず。

 財務省が「できない」と言っているだけで、実際は、すぐにだってできるはず。

 首相公選には憲法改正が必要だし、諸マスコミは、すぐにはできないと口を並べて難癖を付けていたが、じゃあ、時間をかければできるのか?

 私の見るところ、あれもこれも、なにもかも改革の必要性が叫ばれだしてからほぼ40年、一つとしてできていないのは、時間をかけるからできないのだ。

 これも「心理」の問題。

 「心理」の問題はもっと重要視すべきだろう。

 と思う。
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オレンジづくし

2012-02-04 22:18:09 | Weblog

 久しぶりに明治公園のフリマ。

 オレンジ色のデイパックとkowalskiというスペインのハンドメイドだという、皮のスニーカーを購入。

 スニーカーのオレンジとデイパックのオレンジを合わせたつもり。

 売り手は、ヨーロッパ人で、デイパックが3000円、コワルスキが2500円の計5500円だというのを、4500円で買った。

 以前だったら考えられない買い物だが、結構気に入ったので。

 別にオレンジ色マニアではないけれど、たまたま見て、「いいかも」と思ったことと、あと「靴」はやっぱり日本製はダメと固く信じている。

 何故って、あちらは一日中、ベッドに入るまで靴を履いている生活だから、気合いの入れ方が違う。

 で、ヨーロッパ人曰く、kowalskiはヨーロッパではとても有名で人気がある、友達に「kowalskiだぞ」って自慢できるよと言われてその気になったのだった。

 あと、皮なので、履いているうちにフィットすると言っていたが、確かにその通り、そのまま履いて新宿駅まで歩き、そこから西川口まで総計1万7000歩歩いた計算になるが、最初は少しぎこちなかったものの、歩く距離が増すごとに、靴の調子は上々になった。

 とか言って、誉めたら裏切るなんてことがないことを祈る。

 野田の「社会保険と税の一体改革」は、60年後を見据えた計画なんだそうだ。

 ちょっと前は、「百年安心」とか言っていた。

 どうかしている。

 未来のことは、明日のことだってわからない。

 わからないからこそ、明日に備えるんだ、と官僚どもは言うのだろう。

 それが結局は、官僚どもの飯の種になるからと邪推はしないが、でも本音はそうだろう。

 世界のどんな大英雄も、大賢人も、大宗教者も、未来のことを予言はしなかった。

 釈迦は「矢に射抜かれた人を見たら、まず矢をぬかなければならない」と言った。

 だったら、まず、円高をどうにかしたらどうなんだ!

 私は、ユーロ安のヨーロッパ人に、ここはひとつ、大いに稼いでもらうじゃないのと、大枚を支払ったんだけどね。
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お手上げ

2012-02-03 20:27:19 | Weblog
 gooのブログは、書き込むたびに、今日のアクセス数が表示されるが、こっちはアクセス数なんかを気にして書いているわけではないので、止めてほしいのだが、あれがサービスだと思っているのか、一向に止めてくれない。

 もう何かにつけ頓珍漢なgooブログは止めたいのだが、いろいろメンドクサイので続けている。

 旧電電公社の体質は簡単には直らないだろう。

 その点ではJRも同断で、帰宅困難者の発生の多くはJRに責任があると私は思っているのだが、今後の首都地震の発生に備えて、帰宅困難者の応援に米軍まで協力するんだそうだ。

 それは大いに歓迎なんだが、前回程度の地震規模、といっても現地の岩手、宮城,福島ではとんでもない被害が出たわけで、決して軽んじていっているわけではないが、東京近辺では、交通機関が数時間全面ストップするのは当然にしても、線路や道路が破壊されていないことが確認されたら,即、再開、終日運行を実施すべきだったのだ。

 もちろん、いや、あの日は無理だったという意見もあるかもしれないが、JRの行動の是非をこれっぽちも検討せずに、「帰宅困難者は帰宅するな」とか笑止千万。

 何度も書いているが、みんなが帰宅したいと思ったのは、帰宅困難だったからなのだ。

 まあ、私の見解が間違っていると言われればそれまでだが。

 朝日新聞で、2月2日ってことは、一昨日、小林慶一郎先生がインタビュー記事で、「国債暴落に備え、消費税を25%にせよ」と持論を展開していた。

 私は,消費税25%はまったく構わないので、その分、民主党のマニフェストを実行せよ、と言っているのだ。

 マニフェストの実行のために、消費税アップが必要とシンプルに訴えれば、野田政権をどんどん支持しちゃうのだが、そうじゃなく、国債が暴落しないように消費税を上げると頓珍漢を言うから、バカだと言っているのだ。

 それはさて、小林先生は、国債が暴落するとなぜ困るのですかという質問に、金利が上がります、金利が上がるとローンを抱えている人は困ります、と答えていたが、普通、ローンって市場連動ではなく、契約時に決めているのではないの?

 市場連動型で、ローンを組んでいる人もいるかもしれないが、そういう人は即刻、固定に変えなさい、と小林教授はアドバイスすべきなんじゃないの?

 もちろん、こんな問題は無視、教授は続けて、「国債が暴落すると、最終的に日銀が買わざるを得なくなるので、お札が沢山発行され、インフレになる。」と言う。

 実はその「お札を沢山発行する」のがインフレターゲット政策で、アメリカの日銀総裁、バーナンキが実行宣言したばかりなんだが……中村教授は、このような状況、すなわち、インフレターゲット政策を実行せざるを得なくなるような状況を避けるために、増税と社会保障政策の抑制に即刻とりかかるべきだと言うのだ。

 増税と社会保障政策の抑制を本当にやったら、日本はとんでもない不景気のどん底に陥る可能性が極めて高い。

 なんでって、そこそこ生活している人、日本人の大半を占める人は、倹約しないと明日の生活ができないというような状況でなくても、一斉に支出を極限まで切り詰めるだろうから。

 いずれにせよ、「今すぐ、増税と社会保障費の大幅削減」に着手することは「不退転の決意」を表明している野田政権といえども不可能だ。

 というわけで、中村教授は、「今できること」として、国債暴落に備える政策を提言する。

 それは、割安になっている対外資産を買うための基金を創設するという「円を大量に刷る」インフレターゲット政策に近い政策で、詳しくはよくわからないが、要するに「円安政策」のようだが、事実上、「財政再建のための時間稼ぎ」の限定付きで、「インフレターゲット政策を実行せざるを得なくなるような状況を避けるためにインフレターゲット政策に近い政策を行う」という政策のようだ。

 中村教授は、「財政再建とは政府の借金をすべて返済するという意味ではありません。…借金が無限に増え続けることはない状態にもっていくことです」と言っているのだが、この「借金が無限に増え続けることはない状態にもっていく政策=インフレターゲット政策に近い政策」を「時間稼ぎ」の政策と心得よと主張し、リフレ派は「時間稼ぎ」こそ為すべきことだと言っているわけだ。

 そこらへんがリフレ派の主張のわかりにくいところなのだが、私は、とりあえずは、「わかりにくい」リフレ派に賛成したい。

 今の世の中、ケインズの経済政策をはじめ、量子力学など、「わかりにくい」理論が正当性を主張しているから。

 しかし、「人類史」という長い視点で見ると、いつまでも「時間稼ぎ」だけでいいとも思えない。

 でも、ケインズはこう言っているのだなあ。

 長い目で見れば、我々はみんな死んでいる。

 いやはや、「お手上げ」。
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世界標準

2012-02-03 01:35:11 | Weblog
 なんて書いた割にはまたちまちましたことを書くが、NHKの9時からのニュースで、日本近海に埋蔵されているメタンガスの発掘プロジェクトがスタートしたそうで、このプロジェクトに成功すると日本のエネルギー状況はかなり改善されるという。

 それは結構なことなのだけれど、それを報ずる女性アナの口調が、「この手」の放送のときは決まってそうなのだが、いかにも嬉しげで、華やかな口調。

 放送メディアとしては、常識的なことなのかもしれないが、番組は「ニュース」なのだ。

 放送内容に応じて、時には勇壮に、時には悲壮に、時には明朗に語りながら、去年の秋、突如姿を消し、金正日死去後復活、「若い女性の方がみなさんお好きでしょ」と言ってのけて、正式に引退した北朝鮮のベテラン女子アナと同じだってことに気づいていないのが滑稽だ。

 北朝鮮体制は戦前日本と同じという人がいて、「そうかなー」と疑問に思っていたが、もしかしたら当たっているのかも、と思いだしている。

 ついでなので、ちまちましたことをもう一つ。

 昨日、プロ野球のキャンプ初日で、各球団、選手揃って、キャンプ地の近所の神社に必勝祈願をしている風景が「恒例」として報じられていたが、ヤクルトが、小川監督と選手会長の二人だけだった。

 すっきりしていてよい。

 もう、あんな選手揃っての必勝祈願なんて「恒例行事」はやめるべきだ、と思う。

 必勝祈願して優勝したチームはいるのか?

 優勝して「ありがとうございました」と神社に優勝報告したところはあるのか?

 「形式的」とわかっていて、否、それだからこそ、それを続けているきらいがある。

 なんでって、みんなが「形式だけ」と思っているから、反対したくても反対できない。

 なんとバカな!

 ちまちましているが、こういうところから、はっきり「止める」べきではないかと思う。

 「形式だけ」で、日本の一体感が実感されるのだとしたら、そんな日本にどんな価値があるというのか。

 実は、私は、靴を脱いで家に上がる習慣も「止める」べきだと思っている。

 机と椅子の生活の方が活動的で、また便利だと思うのだが、それはそれとして、「外と内」、「私と公」で生活スタイルが極端に異なる、というのは、やはり「おかしい」と思うべきだ。

 当たり前と疑問に思っていなくても、無意識で、心をゆがめている可能性がある。

 そういう意味で、日本で唯一、私生活でも靴を履いているのではないかと、なんとなく思われている天皇陛下が率先垂範、世界標準にあわせ、机と椅子を中心にした生活を敢行していただきたく思う。


 
 
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かつて、日本という国があった

2012-01-30 22:39:32 | Weblog
 2060年には、日本の人口は4割減って、8400万(8800万だったかな)になるそうだ。

 4割というと驚くが、8400万というと、私が小学校時代に教え込まれた日本の人口にほぼ等しい。

 この頃に教え込まれたことって、非常に根深いものがある。

 輸出が大事とか、鯨は全身捨てるところがないとか、日本は水力発電が多いとか、今となっては全然ちがうのだが、イメージとしては、人口8400万ともども、ずっと強く残っている。

 にしても、地域の人口というのは常に変化しているので、例えば、中国では例の三国時代に飢饉、戦乱等で9割以上死んでしまい、偉大な「古代中国」は実質的にこの時滅亡し、西方の遊牧民族が取って代わった、と岡田なんとかという歴史家が言っていた。

 その古代中国も、東方の民族だった殷王朝を西方の騎馬民族の周王朝がとってかわって打ち立てた文明なわけで、ここにも相当な「断絶」があるのだろう。

 しかし、その中国はかなり不思議な民族で、「国家意識」というものがない代わりに、「族」の意識が極めて強い。

 だから、外国に移民しても「族」のつながりは失われず、チャイナタウンを形成する。

 これと正反対なのが日本人で、外国に移民するとあっという間に日本人であることを止め、現地の国民になってしまう。

 これは本当に「日本人だけ」の現象なんだそうで、それを考えると、日本人が遠からず、世界から消えることもあり得ると思える。

 結構ユニークな民族で、他のどこにも見られない、歌舞伎とか能とか相撲とか生け花とか茶道とか落語とか俳句とか盆栽とか切腹とか、一部珍妙なものも含み、有していたのみならず、一時期はアメリカと大戦争をやらかしたり、負けたあと復活して経済覇権を再びアメリカと争ったりとか、世界の皆さんに往時を偲んでもらえたら嬉しいんじゃないかとか、思ったりする。

 しかし、真面目な話、ニュース番組のなかで、どこかの教授が、これからは老齢者のための格安の公営マンション住宅をつくれば、高齢者も安心できるだろうと言っていたが、本当に、こんな簡単な施策がなんでできないのかと不思議に思う。

 この住宅公団の「大失敗」をマスコミも学者も指摘しないのが不思議なのだが、住宅公団は、高度成長政策の成功で舞い上がり、貧困者向けではなく、中流向けの高級アパートの建設に邁進、それがバブルの破裂で破綻し、住宅公団もURとかいう機構に衣替えして、自分の失敗に頬かむりしているのだが、そもそも公営住宅が「貧乏人向け」でないなんて、考えられないほど、バカげてるのに、マスコミも学者もそれを指摘しないのは、学者もマスコミも同じくらいバカだからだろう。

 くりかえすが、日本では貧乏対策は、貧乏人を救うのではなく、貧乏人の収入を上げることだと官僚は考えてきたし、もしかしたら今もそう考えている。

 それでも発生する貧乏人は「生活保護」で面倒を見ようというわけだ。

 あ、そうだ、貧乏人云々と書いているうち、これを書きたかったんだ!というのを思い出した。

 何かというと、昨日だったか一昨日だったか、消費税が10%にする際の貧乏人対策として、食料など、貧乏人も金持ちも等しく消費する物品にかける消費税を低くするという対策は全世界のどこでもやっていることなのだが、日本だけはちがう。

 なんでかと思っていたが、理由は結局、「線引き」が難しいからということらしい。

 あの商品は消費税をかけ、これはかけないとなると、それを扱う業者から必ず文句が出る。

 それで、均一にするというわけだ。

 でもこれは、日本の官僚が日本国民を信用していないことの現れなのだ。

 太平洋戦争でも、日本の官僚は戦費を公債で国民から集めることをせず、郵便貯金を流用した。

 その郵便貯金を集める標語が「欲しがりません,勝つまでは」だった。

 「欲しがりません」で、貯金させ、それを戦費に使ったのだ。(一方アメリカはドナルドダックに公債募集をさせた。)

 「日本人を信用してはいけない。彼らは自分勝手でエゴイストだ。彼らの勝手にやらせたら絶対に話はまとまらない。だから投網で上からバサッと網をかける。そうすれば彼らは文句を言わない。自分が損をして、他人が得をするのは絶対に許せないが、自分も損、他人も損ならことは収まる。これがドン百姓の日本人を扱うコツだ。わかったか!」と先輩官僚が、はるか江戸時代にさかのぼるであろう諸先輩から学んだ支配のコツを新人官僚を教え込んでいるのだ。

 というわけで、私は、官僚支配の旧弊の打破に向け、地方自治からの改革をスローガンにしている橋下を支持したい。

 まだまだ正体不明の所あるけれど、先週の「朝生」の橋下を見て、イメージが変わった。

 あくまでも、選挙民(住民)の自由意志を尊重するというのが基本姿勢であるようなので、だったらいいのではないか、と。

 石原は、「国柄」がどうのって、陳腐すぎる。

 私は亀井静香ファンなので、亀井の行動に注目だ。

 亀井が動けば、何かが動く。
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