千の言霊

一生ぬぐえない想いからたくさんの本をよみました 
そして いろんな言葉たちに出会いました 

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

現代語約 般若心経 

2013-03-09 14:49:24 | Weblog


★ 般若心経


★ 般若心経 新訳
超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?
誰でも幸せに生きる方法のヒントだ
もっと力を抜いて楽になるんだ。
苦しみも辛さも全てはいい加減な幻さ、安心しろよ。

この世は空しいモンだ、
痛みも悲しみも最初から空っぽなのさ。
この世は変わり行くモンだ。
苦を楽に変える事だって出来る。
汚れることもありゃ背負い込む事だってある
だから抱え込んだモンを捨てちまう事も出来るはずだ。

この世がどれだけいい加減か分ったか?
苦しみとか病とか、そんなモンにこだわるなよ。

見えてるものにこだわるな。
聞こえるものにしがみつくな。

味や香りなんて人それぞれだろ?
何のアテにもなりゃしない。

揺らぐ心にこだわっちゃダメさ。
それが『無』ってやつさ。
生きてりゃ色々あるさ。
辛いモノを見ないようにするのは難しい。
でも、そんなもんその場に置いていけよ。

先の事は誰にも見えねぇ。
無理して照らそうとしなくていいのさ。
見えない事を愉しめばいいだろ。
それが生きてる実感ってヤツなんだよ。
正しく生きるのは確かに難しいかもな。
でも、明るく生きるのは誰にだって出来るんだよ。

菩薩として生きるコツがあるんだ、苦しんで生きる必要なんてねえよ。
愉しんで生きる菩薩になれよ。
全く恐れを知らなくなったらロクな事にならねえけどな
適度な恐怖だって生きていくのに役立つモンさ。

勘違いするなよ。
非情になれって言ってるんじゃねえ。
夢や空想や慈悲の心を忘れるな、
それができりゃ涅槃はどこにだってある。

生き方は何も変わらねえ、ただ受け止め方が変わるのさ。
心の余裕を持てば誰でもブッダになれるんだぜ。

この般若を覚えとけ。短い言葉だ。

意味なんて知らなくていい、細けぇことはいいんだよ。
苦しみが小さくなったらそれで上等だろ。

嘘もデタラメも全て認めちまえば苦しみは無くなる、そういうモンなのさ。
今までの前置きは全部忘れても良いぜ。
でも、これだけは覚えとけ。

気が向いたら呟いてみろ。
心の中で唱えるだけでもいいんだぜ。

いいか、耳かっぽじってよく聞けよ?

『唱えよ、心は消え、魂は静まり、全ては此処にあり、全てを越えたものなり。』
『悟りはその時叶うだろう。全てはこの真言に成就する。』

心配すんな。大丈夫だ。
-----

この「現代語訳」は2010年9月、ニコニコ動画に投稿された動画「初音ミクアレンジ『般若心経ロック』」へのコメントとして、その後まもなく書き込まれたものだそうだ

■ 江戸時代は「絵般若心経」もあった
「般若心経」は600巻に及ぶ「大般若波羅蜜多経」の教えを、わずか300字ほどに要約した経典だ。現在よく知られるのは玄奘三蔵がサンスクリット語から漢訳したとされるもので、日本でも古くから多くの宗派で重んじられており、数多くの「現代語訳」や解説本も出ている。

ここ2、3年に限っても、現役僧侶で小説家の玄侑宗久さん監修の『面白くてよくわかる!般若心経』から、脳科学者の苫米地英人さんによる『一生幸福になる超訳般若心経』、お笑いコンビ「笑い飯」哲夫さんの『えてこでもわかる 笑い飯哲夫訳 般若心経』といったところまで、さまざまな観点から読み解いた書籍が出ている。

今回の「若者言葉」の意訳版については、ネットでも今のところ、過去の訳や、これまでに発売されたラップ調の意訳版との類似性の指摘がないことから、投稿者による独自訳と見られている。

高野山真言宗総本山・金剛峯寺総長公室課長の薮邦彦(やぶ・ほうげん)さんによれば、たとえば江戸時代には文字が読めない人でも読経ができるよう、その文句を絵で表した「絵般若心経」ができるなど、時代を問わず「般若心経」は人の心をつかんできたという。藪さんは「個人的な見解ですが」と断りつつ、
「『般若心経』の価値はいつの時代も変わりませんが、その表現は世代ごとに違った方法があると思います。インターネットへの書き込みという形も、若い世代の知的好奇心に訴えかけるアプローチの一つでしょう。経典の意味を知ることは有意義ですが、誤った理解はしないよう気をつけてほしいです」
と話した。 』

http://blog.goo.ne.jp/triarrowstar/e/de2310ff6cb1b632fef1f5ec2d299787


「気のせい」ということがある  
つらいことも かなしいこともそれはきのせい 
それくらいの受け取り方が幸せなんだと 
でも・・・・
生身の人間 悲しみからも つらさからも逃げられないときもある
そう 簡単にはいかないもの
般若心経はそういう心には到底なれないからこそ唱え願うものなのかもしれない
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

「生」とは 生まれることか 生きることか

2011-07-30 19:27:48 | Weblog


生老病死というものを考えたとき 
まず 「生」についてですが 生まれることなのか
生きることなのかということでちょっとぶつかってしまったんです


生きるということについて 昔 空海でしたか、
「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて生のはじめに暗く」と
ああいうえらい方も生まれるというのは闇の中から生まれてきている
死ぬときも 結局 なんだかわからないと
森繁久弥さんもおなじようなことをいっていて
「人というのは何もわからないで生まれて 
何もわからないで生きて そして 何かわかったような顔をして
死んでいく」と言っています
             
              太田保世 「はじめの一言」

の問いかけに答えています 
玄侑宗久 「生苦というのは あてがい扶持で 自ら望んだわけでもないのに
完全に受身でうまれてしまうということの苦しみでしょうね」


久々に書き込んでいます
図書館でふと目に止まった「般若心経で救われるかー空の読み方 生き方」
3人の座談会形式で話が進んでいく
初っ端から これまでなにもおもわず 生きることが苦しいと思っていた私は
生まれることが苦なのか・・・・

そういえば・・・
娘を失って はじめに思ったことは
私がこの世にうまれたからこんなことになってしまったんだと
自分の存在が原因だと想いこんでいましたね
そして その怒りは私をこの世に生み出した両親
特に母親に「私を生んだからこんなことになったんじゃない」と
口にはだすことはありませんでしたがうらみましたね

でも そのあといろいろな本に出会い
生の誕生に関して なぜ生まれたかなど考えてもしょうがない
自分にはその根拠も責任もないのだから
自分の存在に気がついたときにはもうすでに数年たっているのですからね
だったら うまれてきたことは自分の管轄外であり
問題はこうなったら どう生きるかでしかない
そう開き直りましたね

生まれることも 生きることも苦しいのです
どっちにしても苦しいのなら
受けて立つしかないでしょ
娘は生きていたかったんですものね
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

<いのち>のメッセージ

2010-10-10 11:41:30 | Weblog

<いのち>のメッセージ -生きる場の教育学

若林一美 著

死の尊厳

イギリスの老人ホームでのこと
一人の入居者がひっそりと死んでいきました
一日中ベッドで暮らし 時には車椅子にのせて散歩をさせたりすることはあっても
口を利くことはなく 周囲の人たちは「廃人」としてみていました
彼女がしんだときもそれほど悲しむ人もなく ひっそり消えていったという感じでした
ところが 死後彼女のベッドサイドの片付けがされたとき
彼女の書いたとおもわれる一枚の手紙が見つかりました
震える字で書かれた長い手紙を読み終わったとき そこにいる人たちの間に感動と衝撃が走ったのです
「廃人」としか見えなかった老女のなかになんと豊かで初々しいその人がいたことが
自分たちはこれまで人の世話をしていると思いながら いったい何をみてきたのか
魂の叫びそのものであった


"Cry From An Old Cribbed Woman"「閉じ込められた老女の叫び」

看護師さんへ

看護師さん
あなたはいったい何を見ているの?
あなたが私を見るとき あなたは頭を働かせているかしらー
きむずかしい年老いたおばあさん
それほど賢くなく
とりえがあるわけでもない
老眼で
食べるものをぽたぽた落とし
あなたが大声で
「もっときれいに食べなさい」
と言っても
そのようにできないし
あなたのすることにもきずかずに
靴や靴下をなくしてしまうのはいつものこと
食事も入浴も
私が好きか嫌いかは関係なく
あなたの意のままに 長い一日をすごしている
あなたはそんなふうに私のことを考えているのではないですか?
私をそんなふうにみているのではないですか?
そうだとしたら
あなたは私を見てはいないのです 
もっとよく目を開いて 看護師さん
ここにだまってすわり
あなたの言いつけどおりに あなたの意のままに食べている私がだれか 教えてあげましょう
十歳のとき 両親や兄弟姉妹に愛情をいっぱい注がれながら暮らしている少女です
十六歳のとき 愛する人とめぐりあえることを夢見ています
二十歳になって 花嫁となり 私の心は踊っています 結婚式での永遠の誓いを覚えています
二十五歳 安らぎと楽しい家庭を必要とする赤ちゃんが生まれました
三十歳 子供たちは日々成長していきますが しっかりとした絆で結ばれています
四十歳 子供たちは大きくなり 巣立っていきます しかし 夫がかたわらにいて見守っていてくれているので悲しくはありません
五十歳 小さな赤ん坊たちが 私のひざの上で遊んでいます 夫と私は子供たちと過ごした楽しかった日々を味わっています
そして 夫の死
希望のない日々が続きます

将来のことを考えると 恐ろしさでふるえおののきます
私の子供たちは自分たちのことで忙しく 私はたったひとりで過ぎ去った日々の楽しかった思い出や
愛に包まれていたときのことを思い起こしています
今はもう年をとりました
自然は過酷です
おいたものは役立たずと あざ笑い からかっているようです
体はぼろぼろになり
栄光も気力もなく
以前のあたたかい心は
まるで石のようになっていました

でもね 看護師さん
この老いたしかばねの奥にも
まだ小さな少女がすんでいるのです
そして この打ちひしがれた私の心もときめくことがあるのです
楽しかったこと 悲しかったことを思い起こし・・・・
愛することのできる人生を
生きているのです
人生はほんとうに短い
ほんとうに早く過ぎ去ります
そして今
私は永遠につづくものはない というありのままの真実をうけいれています
ですから 看護師さん
もっとよく目を開いて 私のことをよく見てください
気むずかしい年老いたおばあさんではなく
もっとよく心を寄せて
この私の心を見てください


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

6歳のお嫁さん

2010-01-02 22:36:02 | Weblog
「私は ベッドに横たわるふたりのオムツを換えてきました
一人は景子 本当につらかったです もう一人は母です
息子が母のオムツを換えるとき どうしても哀れさを感じずにはいられません
 ふと 自分は何をしてきたのだろうかと思います
一生懸命やりましたが 景子のいのちは救えませんでした
もう どんなに介護をしても 母は良くはなりません では 私がこれまで
してきたこととは いったい何だったのでしょうか
 それは「寄り添うこと」だったと思います
人生にはどんなにがんばってもできないこと 駄目なことが必ずあります
しかし 人はそのことに絶望するのではありません
そういう事態に直面したとき 自分しかいない孤立感に絶望するのです
 もし あなたの大切な人が涙するとき 言葉は必要ありません
ただ 寄り添ってあげてください 
そして あなた自身も忘れないでください
あなたには 寄り添ってくれる家族がいることを 
あなたは ひとりぼっちではないことを

亡き娘から託された「命の授業」鈴木中人


寄り添う
この文字を見たとき 娘のある場面が蘇りました
娘沙織の友達のお姉ちゃんが登校拒否となりました
友達関係もあったのですが 体中がアトピーとなり顔もひどく
学校でいやがられるようになってしまいました
そんなとき そのお母さんから電話をいただきました
「今日ね 沙織ちゃんが遊びにきてくれたんだけど
おねえちゃんの隣にちょこんと座ってね ずーっと なにも話さないで
二人でテレビを見てるの そばに寄り添ってくれてね
それがおねえちゃんの心に響いたのか 久しぶりにおねえちゃんが
笑ったのよ ありがとうね 本当にありがとうね」
沙織は友達を放っておけない子でした
転校生 教育実習の先生 いじめられてる子 
なにをするわけでもないんだけど いつもそばにいてあげてました
上手なことなどいえる子でもないのですが
あったかい子だったことは確かでした

それとは反対に私はぺらぺらよくしゃべります
よく 言葉の暴力で沙織を傷つけてきました
そう想います
まったく なっていませんでした

鈴木さんも最愛の娘さんを6歳で旅立たせ現在は「いのちをバトンタッチする会」を立ち上げ 
小児ガンの支援活動と「いのちの授業」に取り組んでおられます
鈴木さんの「6歳のお嫁さん」を読ませていただき 力をいただきました
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

老いと脳死への疑問

2009-08-29 15:19:51 | Weblog
免疫学者の多田富雄さんの名著「免疫の意味論」での実験のなかで

ーー鶏の卵の将来脳に発展するところに うずらの卵核細胞の遺伝子を移植しておく
誕生してくるひよこはうずらの要素を盛り込まれているため 頭のてっぺんの毛が茶色とか ピーピーと一声ずつなくはずが ピッピピーと三分節でうずら式の鳴き方をする やがて成長していって うずらの免疫体制が発展してくると それが脳に対して これは自分の脳ではないという命令や指示をだす そして ついには脳が壊れてしまい ひよこは死ぬーー

人間の中心は脳であるといわれますが 多田さんは脳死状態になった人でも身体の免疫機能は作動していることを明らかにしました 脳が命令することで免疫活動がおこなわれるわけではない 免疫機能と脳とどちらに優先的な命令権があるのかとなると 免疫システムの方が人間の命を長くしはいしているともいえます
(中略)
脳よりも上位の指示機能が免疫システムの中にあるとすれば 脳死の後でも免疫システムはしばらくうごいているわけです 多田さんの説では 心臓が止まり 肺が止まって脳が動かなくなったときに人間の我というものを決めるのは免疫のシステムだということになる 自己以外のものを排除するためにはまず自己を確定する必要があり それを決定するのは免疫だというのです

これを読んだとき 私は少々ショックを受けました
こうなると 脳死が人の死という判定に疑問がでてくるし 植物状態の人間にも免疫の働きはある以上 その人間は生きていると考えるべきだと私は思います
人間は たとえ意識がないように見えても 魂 というとおかしいかもしれませんが目に見えない 科学的に証明できないものを持っているようです

「人間の覚悟」-五木寛之ー 抜粋

私は難しい医学的な見解はまずありませんし 単純に脳が肉体を支配していると思っていました
ただ 親として体があたたかい状態が維持できているということは 
生きたいと 生きていたいというメッセージだと思っていましたから
もちろん 脳死状態での臓器移植には反対でした

五木さんも感じてるように人間が死んだこともない人間が 単純な脳死判定で
それを人の死と判定することは傲慢ではないでしょうか
その人の死はその人が決めればいいことだと思います
しかし 多田さんの実験からみると 脳死は死ではないということなんでしょうね

娘は意識を失ってからも生きていました ちゃんと生きていました
傷ついたからだは4日間かけ きれいに治りかけていました
体の臓器は次第に停止に向かっているのに 体毛はのび 転んだときの傷がしだいにきれいに治っていったのです 
それが私には不思議でなりませんでした 
彼女の免疫システムはあきらめてはいなかった 
最後の最後まで生きていたかったのですね

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「死」はどこにあるのか

2009-06-28 14:32:13 | Weblog

生命科学の扱うものは、その通り生命なのだから、これは裏返し 死を扱うことだといっていいはずである。ところで、それなら 科学で死を扱うことはできるのだろうか。

数年前 脳死の問題をめぐって 社会的にも議論となったが あそこにそれが端的に現れている 死の判定基準 どの時点をもって死とするのか 脳機能の停止か
心肺の停止か はたまた瞳孔がうんぬんーー 

中略

考えてみたい 止まった心臓は止まった心臓であってそれが死であるわけがない
したいのどこをどう切り刻んでみても これが死だと取り出して見せられるものだど何もないのである これは なぜか

決まっている 死は無だからである 死はないものだから無いのである
科学というものは その定義により存在する物質を扱うものだから 無としての死を扱うことなどできないのである これは科学の盲点なので多くの人は気づかない
死体と死とを同じものだと思っているが 死体と死とは実はおなじものではないのである

これは科学の現場だけでなくて 我々の日常の光景における錯覚でもある 
人は他人の死体をみて それを死だと恐れるけれども 自分の死体なんて 
どうやってみることができると思いますか?

「死」とは何か さて死んだのは誰なのか より 池田晶子


池田晶子さんは2007年47歳でなくなりました
彼女の本とであったのは「14歳からの哲学」でとにかく 死とは 生きるとはを
考える 自分で考えることを教えてくれました
どんな定義があったところで それもすべて考えた人の定義であり
生きている人間が考えた死など 意味がないように思いました

晶子さん どうですか? 
実際 「晶子さん」としての肉体からぬけだした
晶子さんは死を感じてるのでしょうか
やっと 生きている人たちが「死」んだといっているのを見て
得意になってるのではないでしょうか

父の臨終に際し感じたのですが いったん心停止になりかけ それでも
再び動き出した心臓がゆっくり 時間をかけ心臓を止めていくさまをみて
意識を失ってからの様子はまるで陣痛のようにおもいました
ゆっくり 体内から生まれてくるように 
父はゆっくり その肉体からぬけだしていくように思いました

娘のときは狂ったように追い求め 追いすがり 絶対 死だと認めることなど
できませんでした 
でも 父のときは父のいわゆる死体をみて これはもう父ではない
そう思いました 
きっと 父は不自由な体から抜け出し 本来の父として今もそばにいるような
きがしています


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

生命のメッセージ展より

2008-10-29 16:11:19 | Weblog
>>>>>生命の重さ<<<<<

「世の中で、一番大切なものって?」

 この質問に、多くの人が「人の生命(いのち)」と答えるだろう。

「最も残酷で許せないことは?」

 それは、人がその人生をまっとうすることなく、人の手で暴力的に生命を断ち切ることではないだろうか。

 人生をまっとうすることなく、人の手で暴力的に生命が断ち切られる悲劇…。

 先ず私たちの頭に浮かぶのは戦争であろう。かつて私たちの国は国家拡大を目指し、大戦を引き起こした。第二次世界大戦後に制定された日本国憲法は「戦争放棄」を謳った世界に類を見ない平和憲法と評価され、私たちの国は、世界一治安の良い国とうらやまれる。しかし、平和であるはずのこの国は、今まさに「交通戦争」のただ中にあるのだ。私たちの生活を豊かにする車は、愚かな使い手により凶器と化し、年間約1万人がその「凶器」に生命を奪われている。一番大切なものが、日常茶飯事のように奪われているのだ。

 交通犯罪だけではない。強盗殺人、通り魔による無差別殺人、ストーカー殺人、暴徒化した若者のリンチ殺人、、。私利私欲を満たすための罪は、戦争と何ら変わりはない。

 生命は取りとめたものの、人生の光りを失った被害者は数知れない。職場や学校で執拗に存在を否定され死を選んだ人、過酷な労働に生命をすり減らす人々。失われた生命を思う時、一見平和に見える現代社会に潜む混沌に、戦慄を覚えずにはいられない。

 しかし、悲劇はくり返されている。

 残酷で許せない事件の衝撃は、月日とともに薄れ、またひとり、またひとり新たな事件で生命が奪われていく。犠牲者は忘却の彼方に葬られ、数字というデータの中に埋没させられてしまうのだ。

 「忘却」は神の恩寵であることは確かだが、尊い生命を奪われた犠牲者たちを忘れることは、彼らの死から学ぶという貴重な権利を放棄することではないだろうか。彼らの死、そして確実に存在していた尊い生命をけして無駄にしたくない。彼らが生命を賭けたメッセージは「生命の重み」。

 彼らひとりひとりに家族があり、友人があり、未来があり、夢があり、人生があった。数字に埋没させられた生命ひとつひとつの素顔に想いを馳せ、安らかな冥福を祈ろうではないか。

 交通犯罪はじめ多くの犯罪が、文明社会の慢性病とあきらめてはならない。彼らを想い、犯罪を憎み、「生命の重み」を再確認する契機としよう。過去を振り返り反省すれば、悲劇は減るはずだ。そうでなくてはならない。

 

 彼ら犠牲者は生命を賭けて、私たちを悲劇のない真の平和へ導いている。

 彼らの「生命のメッセージ」を、未来の生命へつなげていきたい。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ちょうど いい

2008-08-02 12:33:11 | Weblog
佛様のことば

お前はお前でちょう度良い
顔も体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく 卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ日月さえも丁度よい
仏様と二人連れの人生 丁度よくないはずがない
これで良かったと頂けた時憶念の信が生まれます

南無阿弥陀仏
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

器のからっぽ(虚)の空間

2008-04-29 12:23:29 | Weblog

器は かならず
中がくりぬかれて空(うつろ)になっている。
この空の部分があってはじめて
器は役に立つ。
中がつまっていたら
何の役にも立ちゃしない。

同じように
どの家にも部屋があって
その部屋は、うつろな空間だ。

もし部屋が空でなくて
ぎっしりつまっていたら
まるっきり使いものにならん。

私達は者が役立つと思うけれど
じつは物の内側の
何もない虚のスペースこそ
本当は役にやっているのだ


「ほっとする老子のことば」(加島祥造)から

おもしろい発想だと思いました
空っぽの必要性
何も無いということが役にたつということだ

そういえば あの子の体がなくなってから
私はさまよい始めた 
必死でその空間をうめようとしていた

手当たりしだい読みふけって
しらないことを知ることができた
いままで無縁だと知ることをしようとも思わなかった
それが本当に大切なことだと
あのこのおかげでしることができた

そんなものしらなくてもよかったとおもうこともあったけど
いまはただ 感謝だ
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

足立 大進

2007-07-26 22:35:05 | Weblog
サライ インダビューから

「ある日突然 愛する人を失ったり 自分の余命宣告をうけたりして 命の儚さにうちのめされる」

ー耐え難い苦しみです。
「その苦しみが悟りを求める原動力になる 
 <菩提心とは観無常の心是なり> 人生の無常を知ることから駆動が始まると
経典にあります 自分とは何者か 命とは何だろうか
命の根っこ探しが禅の修業です
やがて 大いなるものに抱かれ 自分がここに生かされていることに気づく
”私が生きている”という路線から 壁にぶつかって 
”ご縁とお陰に支えられて生かされている”路線にUターンする
この悟りの体験を 仏教では<回向>といいます
すなわち ”命の有り難さに感動して生きる”
これこそが仏教の教えだと申し上げていい」

ーむしろ 苦しみが生きる喜びへと導く。
「そういうことです。 人生にはいろんなことがある
でも どんなに暴れても 人間は大いなる力の外には飛び出せない 
自分の力が微々たる物であることを知り 大いなるものに命を委ねたとき
人間は本当の安心が得られる。」
「死とは 私達を生かしている大きな世界へ戻っていくことです。
この世は一時の下宿みたいなもの ですからあらかじめ あの世に本籍を移しておけばいい 
市役所にいかなくてもできますから どうぞ みなさん
ここの本籍を仏様のほうへ移していただいて心安らかな死をお迎えください」


まったく 読んでいて笑ってしまいました
この5年 求め続けてきたことをほんの数行で片付けられたような
参りましたという気持ちでした
ただ そう簡単に気持ちは整理がつくものではないのです
頭でわかっていても 心が納得しないのです
なだめても なだめても 心が泣くんです
半分にかけた心はもう元には戻らない 
どんなすばらしい経典があっても たとえ 本籍を移しても
現世で同じ時を一緒にあるいていたかったと泣くんです
こればかりは仕方ないですよね
それが消えない想いなんですから
コメント
この記事をはてなブックマークに追加