マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

後藤正治の仕事

2010年12月16日 | 読書

 「清冽」の著者後藤正治についても少し触れたいと思います。これまでに読んだ作品はすべてノンフィクションで5冊。読んだ順に挙げれば「ベラ・チャスラクスカ 最も美しく」「りターンマッチ」「牙 江夏豊とその時代」「1960年代の肖像」「清冽」の僅か数冊に過ぎずませんが・・・。「清冽」以前では「ベラ・・・」と「牙」が特に印象に残ります。わけても「ベラ・・・」には圧倒されました。

 言うまでもなく”ベラ・チャスラフスカ”は1964年の東京オリンピックにおける体操個人総合・平均台・跳馬での金メタリスト。60歳を超える日本人が記憶するオリンピックにおける最大のヒロイン。優美な体操のみならず、稀なる美貌の持ち主として、私の記憶にもはっきりと刻まれています。しかし、彼女のその後の運命は波乱万丈に満ちていました。
 
 著作の「序章 旅へ」から、その概略をまとめます。
 1960年代、自国チェコスロヴァキア(ここではチェコと書きます)の民主的改革(いわゆる”プラハの春”)を求める「二千語宣言」に署名したベラは、ワルシャワ条約機構軍のチェコ侵攻により短い春が終わった後も、署名撤回を求める党の圧力に屈せず非撤回者であり続けます。厳冬の時代の到来です。
 1980年代に入りベルリンの壁が倒され、東欧社会主義体制も次々に崩壊。チェコでは「ビロード革命」が成就。大統領制のもとで、ベラは「大統領顧問」になり、チェコオリンピック委員会委員長にも就任します。だが、栄光に満ちた日々も数年後暗転します。ベラの息子がベラの元夫を殺害したとのニュースが伝えられます。その心労により彼女は精神に変調を来たしたとも。ベラ・チャスラフスカになにが起きたのか。彼女のくぐり抜けた歳月はどのようなものであったのか。その事を知りたいと思いに駆られ、後藤は異国への取材の旅に出ます。

 取材地域は、チェコ・ロシア・ウクライナ・ルーマニア、更にアメリカにも及びます。取材した人々は60年代~80年代にかけての当時の体操界のスター選手、”プラハの春”後の長く厳しい冬を耐え抜いてきた人々、殺人を犯したとされるベラの長男、コマネテの実弟にまで足を運びます。
 これほどの手のかかった取材を、時間も費用も度外視して、誠実かつ徹底して行ったったという、事実に私は圧倒されると同時に、その誠実な取材態度に魅せられ、後藤の幾つかの作品に手を伸ばしました。
 ベラ自身へも取材を申し込みますが、体調不良との理由で面談は叶いません。しかし通訳との面談には応じ、書面での後藤の質問に答えてくれたそうです。「あなたはなぜ二千語宣言への署名を撤回しなかったのですか」との問いには[節義のため。それが正しいとする気持ちはその後も変わらなかったから]との言葉が記されていたとの事。
 この物語はベラ・チャスラフスカ個人の人生だけでなく、チョコにおける戦後史の断面、特に社会主義革命の変遷をも伝えてくれて、一気呵成に読み終わりました。

 
 


『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を読む(その2)

2010年12月14日 | 読書

 茨木のり子の詩に初めて接したのは、20歳代の頃。尾瀬の山小屋「長蔵小屋」の主人平野長靖さんが、三平峠で36歳の若さで急逝されたのを惜しんで組まれた遺稿集「尾瀬に死す」を読んだときです。彼の愛した劇や本と共に詩も登場し、その中に「六月」という詩がありました。
 
  どこかに美しい村はないか
  一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
  鍬を立てかけ 籠を置き
  男も女も大きなジョッキをかたむける

 で始まる、メルヘンの様な、リズミカルな詩です。以来茨木のり子の愛読者の一人となった私は、その詩集の多くを読み、それらの詩を<わがことのように>受け止め、励まされて来ました。

 茨木のり子73歳の時に発刊された第八冊目の詩集『倚りかからず』は、版を重ね、発行元筑摩書房が文庫化するまでに、発行部数十数万に達したという。これは詩壇においては異例なことで、大事件だったそうです。この詩集の編集子中川美智子の机の上に積み重ねられていく読者カード。その都度中川は茨木に電話で連絡すると「もうおよしになって。詩集なんてそんなに売れるものじゃないんですから・・・」との茨木の返事。
 そんな彼女を、著者後藤は「彼女が”強い人”であったとは私は思わない。ただ、自身を律することにおいては強靭であつた。その姿勢が詩作するというエネルギーの源でもあったろう。たとえ立ちすくむことはあっても、崩れることはなかった。そのことをもってもっとも彼女の<品格>を感じるのである」とまとめました。そうだろうと私も思います。彼女には<清冽> <凛として> <品格> などの言葉が良く似合います。

 最晩年、いくらでも世話をしてくれる身内や知人に恵まれながら、それらの方の大きな世話にならず、自宅で、多分脳の発作で突然に亡くなった彼女。結果として、誰にも「倚りかからず」に一人旅立っていきました。
 今は、山形県鶴岡市加茂にある三浦家の菩提寺の浄禅寺に夫とともに眠っています。見上げると広い空。眼下に青い海。まことに眺望よしの墓地だそうです。
 鶴岡には、今年の4月29日「藤沢周平記念館」がオープンしました。是非ここと、彼女の眠る寺を訪ねたいと強く思います。
 海が登場する「根府川」を最後に記します。
 
  根府川
  東海道の小駅
  赤いカンナの咲いている駅

  たっぷり栄養のある
  大きな花の向こうに 
  いつもまっさおな海がひろがっていた

  中尉との恋の話をきかされながら
  友と二人ここを通ったことがあった

  あふれるような青春を
  リュックにつめこみ
  動員令をポケットに
  ゆられていったこともある

  燃えさかる東京をあとに
  ネーブルの花の白かったふるさとへ
  たどりつくときも
  あなたは在った

  丈高いカンナの花よ
  おだやかな相模の海よ

  沖に光る波のひとひら
  ああそんなかがやきに似た
  十代の歳月
  風船のように消えた
  無知で純粋で徒労だった歳月
  うしなわれたたった一つの海賊箱

  ほっそりと
  蒼く
  国をだきしめて
  眉をあげていた
  菜ッパ服時代の小さいあたしを
  根府川の海よ
  忘れはしないだろう?

  女の年輪をましながら
  ふたたび私は通過する
  あれから八年
  ひたすらに不敵なこころを育て
 
  海よ

  あなたのように
  あらぬ方を眺めながら・・・・・。
   

 


『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を読む(その1)

2010年12月13日 | 読書

 現代詩人の一人茨木のり子が亡くなってから早や4年が経ちました。「清冽」は”詩人茨木のり子の肖像”との副題のもと、この詩人の初の本格的評伝です。著者はノンフィクション作家後藤正治。徹底した取材を通して作品を仕上げる後藤正治の作品と知り、期待感大きく作品を読み始めました。作品は茨木のり子の生涯とその詩の本質を尋ねる物語で、見事な出来栄えの作品に仕上がっています。最近読んだ本の中でも秀逸なノンフィクション作品です。



 取材は、彼女の詩集の出版に係った編集者・同人誌「櫂」の仲間・医者だった実家「宮崎医院」で働いていたお手伝いさん・甥をはじめとする親戚の人々・親交深かった友などに及びます。NHKアナウンサー山根基世もその一人です。これらの取材を通して、彼女の人となりを浮かび上がらせます。多くの優れたノンフィクションがそうであるように、その取材結果をただ平板に時系列に沿って並べるのではなく、立体的に再構築して彼女の生涯を語ります。
 彼女を規定している要素なかでの真っ先に取り上げたのが、その思春期、戦争に身も心も侵した戦中世代であったという点。その歳月への思いは、数年のときを経て、第一詩集『対話』に登場する「根府川」や第二詩集『見えない配達夫』の「わたしが一番きれいだったとき」に結実します。
 戦後、結婚・川崎洋と同人詩「櫂」の創刊・48歳にして夫との死別。ハングルとの出会い・『韓国現代詩選』の刊行等など。
 彼女の生涯を13章に分けて語りながら、その章毎に、その舞台に相応しい詩が何篇か散りばめられています。詩の本質を独白(モノローグ)であるよりも、対話(ダイアローグ)であることを特徴とした、と見なします。問いのベクトルは第一に自身に向けられ、それが結果として読者に<わがことのように>伝播する作用を果たす、と著者は語ります。
 少し分かりにくい部分のある説明ですが、
 「自分の感受性くらい」の詩を通して、私なりに理解しました。
     
    
ばさばさに乾いてゆく心を
     ひとのせいにはするな
     みずから水やりを怠っておいて
 
     気難かしくなってきたのを
     友人のせいにはするな
     しなやかさを失ったのはどちらなのか

     苛立つのを
     近親のせいにはするな
     なにもかも下手だったのはわたくし

     初心消えかかるのを
     暮らしのせいにはするな
     そもそもが ひよわな志にすぎなかった

     駄目なことの一切を
     時代のせいにはするな
     わずかに光る尊厳の放棄

     自分の感受性くらい
     自分で守れ
     ばかものよ
    
 最終連にある「ばかものよ」という言葉は勿論作者
自身に向かって投げかけられているのですが、この詩を読んだ者は、これを自分の問題として捉えることになり、<わがことのように>受け止めるがゆえに、結果論として対話となると、私は理解したのです。
 更に付け加えれば、茨木のり子の詩は非常に分かりやすい点に最大の特徴があると私には思えます。
(次回ブログに続く)
 
 


少し早めのクリスマスパーティー

2010年12月12日 | 身辺雑記

 昨夜(12月11日)、2週間ほど早いクリスマス会が、12人ほどの参加のもと、Mさん宅で開かれました。集いし仲間はみな元同僚とその配偶者と子供さん達。この会がいつ頃から始まったのか定かな記憶はありませんが、7回~8回は開かれているはず。大人達の共通の遊びはゴルフ。そのうちの数名で山に登ったり、我が山小屋で毎年”松茸パーティー”などに及んでいます。(雰囲気を盛り上げるクリスマスツリー)



 毎年開催のMさん宅にあまり大きなご負担を掛けないようにと、ささやかな配慮から、各自が役割を決め、飲食物を持ち込んでいます。お寿司・日本酒・ケーキなどです。私はコシヅカハム特製の牛のタタキを買い置いておきました。M婦人の手料理も並び、今年は誰一人欠けることなく、この日を迎えられたことに感謝して、「メリークリスマス」と発声しシャンペンで乾杯!
 大人たちには食べ飲みお喋りする楽しみが。3人の小学生の子供さんには、各自が用意した特別のプレゼントが。子供達は3つか4つの贈り物を手にして大喜びです。
 気がつくと4時間はあっと言う間に過ぎていました。


『椿山荘』へ紅葉狩ー都内の名所へ(その2)-

2010年12月10日 | 東京散歩

 一昨日(12月8日)、我がマンションは排水管工事の為、午前中は断水とのことで、著しく生活に不便が生じると判断し、東京のモミジを観る日を変更し、今年最後の紅葉狩に椿山荘に出掛けました。自宅→椿山荘→鬼子母神→椿山荘→自宅と巡ってきましたが、2つほどの発見がありました。

 都バスを江戸川橋で下車し、坂道を登って椿山荘を目指そうとすると、神田川に沿って8分ほど歩くと「冠木(かぶき)門」があり、10時以降はここから椿山荘に入れます、との看板を見かけ、神田川沿いに歩き始めました。発見その1です。
 南こうせつ「神田川」に歌われた神田川は、川が度々氾濫することでも有名でしたが、今は護岸工事が完成し、その頻度はかなり減って来ています。大滝橋付近には、この辺りが「神田上水」の取水場所であったとの掲示板があり、又「取水口の石柱」の遺稿も残されていました。かってここを何度か散策したこともあるのですが、気にも掛けなかったものが、最近は眼に入って来ます。



    
(取水口の石柱についての掲示版)


       (取水口の石柱遺稿)


  (護岸工事なった神田川。川沿いには多数の桜木が)

 「冠木門」から椿山荘に入ります。まだモミジは残っていました。しっかり手入れされた、高低差のある庭園には多様な樹木が植えられ、木ごとに名前札が付けられています。ここの象徴たる三重塔は修理中で、布に覆われ姿を見せてくれませんでしたが、意外なものに出会いました。(まだモミジありました)


     
                    

       (庭園内に池)

    
        (池には鯉が)


   

 若冲作による、「羅漢石」が多数置かれています。発見その2です。大正年間にこの地に移築して来たとか。可愛らしいくてユーモラスな表情の羅漢さまに初めてお目にかかりました。

















 庭園内にある蕎麦処「無茶庵」の開店まで暫く時間があるので、再度都バスで「鬼子母神前」まで移動。境内をはじめ付近の商店街をぶらつきました。再度バスで椿山荘に戻り、昼食の後4度目のバスで帰宅。都合4回利用のバス代金は「1日券」500円で済みました。完全定年後、こういうことを大変気にするようになりました
。(鬼子母神境内の樹齢600年の銀杏)