マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『家康、江戸を建てる』を聴く

2016年09月18日 | 読書

 タイトルを書き間違えたわけではない。『家康、江戸を建てる』の著者門井慶喜氏の講演を聴いてきたので、少しひねって書いてみた。916日(金)14時からシビック小ホールで開催された、アカデミー文京主催の特別公開講座「著者が語る、『家康、江戸を建てる』」に妻と参加してきた。

 著者の門井氏は、推理小説作家として出発したが、この春上記の歴史本を出版。それがベストセラーとなり直木賞候補ともなった。最終選考には『海の見える理髪店』とともに残ったが、「歴史の解説本を読んでいるようで、家康の人間像が頭に浮かんでこない」との意見も根強く受賞を逃した。私はこの本をオンライン予約の到着を待ちきれず購入し一気に読んでいた。
 NHK大河ドラマ『真田丸』にも登場していたが、秀吉と家康の“関東の連れ小便”で、関八州に移封を命じられた家康は、作品上では家臣団の猛反対を押し切り江戸に移り、そこで次々とプロジェクトを展開する。全部で5話からなる作品では、利根川の東遷、慶長小判、神田上水、江戸城石垣、江戸城天守閣が取り上げられていた。その中では取り分け、利根川の東遷と神田上水を面白く読んだ。
 その門井氏の講演会開催を知り、講演希望を申し込んでおいたところ妻共々に受講の知らせが来て、聴きに行ってきた。
 著作そのものに詳しく触れることは後日に回し、今日は以下、講演での門井氏の話の内容。(写真は主として講演前に舞台スクリーンに映し出されていたもの)
 名前は徳川慶喜(よしのぶ)と同じく“よしのぶ”と読む。幼少の頃はこのアンチヒーロと同じ名前が嫌で堪らなかった。それが、大河ドラマ「徳川慶喜」を見て以来慶喜の名前が嫌ではなくなった。


 秀吉の命での国替え、家康の本心はしぶしぶだったと思う。結果的には成功であったが、江戸は大変な土地で、開発に相応しい土地だったと後の人は言うがそれはウソ。その頃の関東平野は幾つもの川が北から東京湾方向へと並行して南下する流れで、極端な“綾瀬”だった。実はこれが利根川東遷には幸いした。(写真:右の図の様に関東平野は何本もの川が東京湾に注いでいた。この様な状態を門井氏は”綾瀬”と呼んだ)

 武蔵の國の中心は府中にあった。江戸とは文字通り、府中からみて海の端という意味で、草茫々としていた。現在の江戸城辺りは太田道灌が整備して人は集まる様になったが、あくまで戦闘基地で、町並みが開けない理由は利根川にあった。その利根川を、関東平野が綾瀬だったことを上手に利用して、何度かに分けて流れを曲げる付替え工事を行い、南下していた利根川を次第に東へと移し替えていった。江戸湊に注いでいた利根川を、今に見る如く太平洋へと流路を変えてしまった。これが東遷事業で、担当者は甲斐の国の出身。当時甲斐は治水の先進地だった。
 東遷完成は50年後の家光の時代。綾瀬という南下する何本もの川があったから、順々に東へと流れを変えられた。江戸時代の町作りは東京湾の潮位の高低差が少ないことも幸運だった。潮が満ちてきてもせいぜい汐留で止まった。

 玉川上水は玉川兄弟の功績となっているが、資料がなく本当のところは分からない。という理由もあり玉川上水では無く、神田上水を取り上げた。飲料水用の水を求めて、遠く西にある井之頭から水を引っ張ってきた。市内に入ると暗渠にしたが、市内直前では流水量調節の必要があり、水のプールを作り、水門を板で調節した。その跡が現在関口と呼ばれるところに残っている。なお神田川の上流で水量を増やすために妙正寺川との合流が不可欠だった。その地点は現在落合と呼ばれている。
 思うに江戸ほど人工的な町はない。自然と共生なんてできる訳がない。江戸の時代に「近代」を建ててしまったのだ。

 講演はまだ続いたが、主要な部分は以上なのでこれ以下は割愛します。


  
         (大手門)                            (天守閣跡)

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