故郷の昔を訪ねようと、祖父が明治の初めに職人町で働いていたお店の場所のあたりでその店のことを色々聞きましたが、誰もわからず、帰ってきました。大正時代には、松阪の地図には、その店の名前があるので、確かにそのあたりにあったと思われます。また、この辺りは、京都から松阪の両替商田丸屋に養子に行った書家の韓天寿(池大雅、曽我蕭白と並ぶ人物)の店があったのですが、以前訪ねたのですが、そのこともほとんどわからずでした。
今度は、実家の周辺について戦中・戦後の時の様子を兄から聞きました。道路の変化、戦争中に実家の前の道を広げる要請があり屋敷を供出したこと、その屋敷の庭には、いちじくが生ったこと、など隣近所のなんとなく聞いていたことを本日、しっかりと脳裏に刻み込みました。先日、展墓祭があった、近くの松坂城主の古田重勝の墓に行って、その墓は、重勝のものだと確認してきました。翌日、我々の先祖之址碑にも手を合わせてきました。本年は、この碑を建てて50年にあたります。
今度は、実家の周辺について戦中・戦後の時の様子を兄から聞きました。道路の変化、戦争中に実家の前の道を広げる要請があり屋敷を供出したこと、その屋敷の庭には、いちじくが生ったこと、など隣近所のなんとなく聞いていたことを本日、しっかりと脳裏に刻み込みました。先日、展墓祭があった、近くの松坂城主の古田重勝の墓に行って、その墓は、重勝のものだと確認してきました。翌日、我々の先祖之址碑にも手を合わせてきました。本年は、この碑を建てて50年にあたります。
牛銀さんで高い昼食を食べ、市内の旅館で止まりました。友と歩いた街の印象は古い建物がひたすら続いていることでした。
高い昼食は決して食べません。また味わいたい街です。
あの頃は車中泊のさすらい、かつ観光ご当地名物料理に全く興味なかったころなので、旅館に泊まり、松阪牛をいただき、さらに散策と三拍子は奇跡的なことでした。