goo

第151話 「旬=瞬」



ことし山の幸は豊作で、むかしからの通説“芽出しは5月の連休前後”が、中頃には大半が、
すでに “旬”を過ぎ、本当に一瞬のことだった。

ついこの前まで裸木の林で、遠く日高の山並みも裾野に広がる耕作地も透けて丸見えだったわたしのお気に入りの場所は、瞬く間に緑の衣をまとい、日中の気温が上がり暑くなる日がつづくと衣もどんどん嵩(かさ)を増し、小さな林は深い森の様相となる。
そのかたわらを流れる小川を境に、牧草とデントコーンの畑が広がっている。住まなくなって、朽ちるままの畑の持ち主の住居が、畑向こう端の少し高くなったところに見える。
ここへ初めて来た時、すでに住んでいる気配はなかった。が、建てた当時は近代的な作りだったのだろう、半分朽ちた敷地内のサイロや牛舎とは対照的に、住宅はまだしっかりしている。でも、家屋の西壁に藪となった雑木やツル性の植物が張り付き、蔓がベランダの窓までつたい、もうすぐにすべてを飲み込む勢だ。
その緑の中に見え隠れする朱色の花は、庭木に植えた山ツツジだろう。
その林を突き進むと、やがて台地が行く手をふさぐ、その台地の麓はむき出しの崖で、それに沿うように残された小さな森がある。わたしはこの森を「太古の森」と呼んでいる。
本当に太古からの森かどうかは定かではないが、大人ふたりが手をつないでも届かないほどの太いハルニレやヤチダモの樹が数本、良いキノコが出る倒れ朽ちかけた大木も含めると巨木は十本を超える。地上部は古い河川跡で、深く削られた流れの跡が大きな岩を縫うようにして森のはずれの川へと繋がっている。
岩肌の、南向きに張り付くふかふかの苔を掌で押す。と、その厚さは五センチほど、これだけになるのにどれだけの時が必用なのか!?ここに来るようになって数十年、「どんどん野生を取り戻してきているナ」とおもう。
あちこち歩くと、山菜の大半はとうに旬を過ぎていたが、大根か?と見まがうほどの太いウドもあった。一番太いものを引き抜く、これはこれでキンピラや焼きウドの旬なのだ。
食べごろが瞬に過ぎてしまう山菜も、何十年も生きるわたしたち動物の一生も、46億年の地球の歴史からみると、瞬きほどのことなのか。

同世代の仲間が顔を合わすと、交す言葉は、「あっという間に一日が、ひと月が終る。歳をとるということはこういうことなのか…」と。
人間それぞれが思い描く時の概念とは関係なく、この大宇宙のなかで生きとし生けるものは自転、公転しながら新陳代謝を繰り替えしている。“旬は瞬”―自然なことなのだナ。

コメント ( 0 )
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第150話 「... 第152話 「... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。