活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

印刷界は活字文化と無縁なのか

2008-03-26 18:17:50 | 活版印刷のふるさと紀行
 激越っぽいタイトルすいません。
昨日、2008年3月25日の日経朝刊に特集「活字文化が養う次世代 IT化の先、新たな動き」という横見出しが見開き2ページに踊っておりました。
紙面左右にシンポジュウム「言葉の力で未来を拓く」での文字・活字文化推進機構会長の資生堂の福原義春名誉会長と明治大学の斎藤 孝教授お二人の基調講演がデンと置かれておりました。

 そして、紙面中央に当日のパネル討論がサンドウイッチされておりました。パネリストの顔ぶれとしては、東大名誉教授の月尾嘉男さん、筑摩書房の松田哲夫専務、作家の石田衣良さん、そして日経の特別編集委員の足立則夫さんでした。

 活字文化を守る活動は、日本文化をもう一度力強いものにするのに必要だという
福原会長の意見、次世代の能力アップには、大人が積極的に活字文化を復興させることが必要だという斎藤教授の意見にも賛成です。

 IT化に論点を置いたパネル討論の中身も興味ぶかいものがありますが、「本には美しい装丁があり、においがあり、手にとったときにページが人の体温を吸い込んでいくような感動がある」という石田発言にどうしても私は拍手してしまいます。

 私が残念なのは、このシンポジュウムの出席者に印刷界からどなたも選ばれていないことです。活字文化を語る場に「印刷者」を想起しないプランナーがいらしゃったのです。新聞・出版・ITメディアの情報の送り手だけに活字文化を論じさせておいてよいのでしょうか。印刷界の方々は口惜しくないのでしょうか。ザンネン。



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大曲塾の川上澄生版画勉強会

2008-03-19 12:09:54 | Weblog
鹿沼の川上澄生美術館を訪ねるまで、私の澄生に関する知識はあまりにも乏しかったのです。「天正少年使節」の絡みから、澄生の南蛮船やポルトガル人の風俗や文明開化を題材にした作品に惹かれていた程度でした。

 今回、澄生の教え子で、コレクションした2000点の作品を鹿沼市に提供して美術館を誕生させた長谷川勝三郎氏のご子息のレクチュアーを直接、受けることが出来たのは実に幸運でした。大曲塾もヤルモンダ。

 若い頃、生活体験があったというカナダやシアトルやアラスカの話から作品の底流にあるエキゾチックさが理解できましたしたし、青山学院の高等科で版画家合田清の子息と同級生だった話を興味深く聞きました。合田清といえば、明治20年代に「都の花」「国民之友」、「新小説」などの雑誌の木版墨刷りの挿絵を手がけていた生巧館の館主として印刷界でも知られた人のはずですから。

 学校の帰りに、遊びに立ち寄って、合田清の作品や生巧館の手がけた版画挿絵をみせてもらったことが、澄生を版画制作によびこんだ?と、想像もできるのでは。

  あと、ひとつ、びっくりしたのは、1944年、昭和19年という戦争末期に《いんへるの》という巻子版を銀箔や金箔に木版多色刷、手彩色で仕上げていたことでした。宇都宮中学の教師を退職して、北海道に疎開していた頃に重なりますが、あの時代を知っている私には不思議でした。



 
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棟方志功と川上澄生

2008-03-17 11:10:50 | 活版印刷のふるさと紀行
「わだばゴッホになる」棟方志功が雑誌「白樺」に掲載されたゴッホのひまわりと出会った話は知っていましたが、川上澄生の代表作の一つ《初夏の風》1926年(大正15)によって「版画一筋」を志したとは知りませんでした。

 この木版多色刷の作品は澄生31歳のとき、第5回国画創作協会展に出品されました。ある人はバックの淡いエメラルドグリーンで刷られているのが「風の精」ともいい、ある人は男性たる澄生自身の荒れ狂う「欲望の風」だともいいます。

 モンローではありませんが、画面中央でスカートをなびかせている女性には、果たして《初夏はつなつ》の風がどのようにうけとめられたでしょうか。
 
 澄生は詩人でもありました。
 「かぜとなりたや はつなつのかぜとなりたや かのひとのまへにはだかり
 かのひとのうしろよりふく はつなつの はつなつのかぜとなりたや」
画面両サイドに詩も彫られております。このあたりに、志功が心を動かされたのも想像できます。

 澄生には私刊本がたくさんありますが、市販本の挿絵については、本日は見ることが出来ませんでした。ただ、ひとつだけ彼が版画に興味を持ったのは、このためではなかったかということを知りました。それについては次回。


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川上澄生美術館を訪ねる

2008-03-16 18:16:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 〝水ぬるむ〟というか、ようやく春の到来を感じることが出来る日々がめぐって来ました。
 東武浅草駅午前9時集合。本日は神田川大曲塾の今期最後の定例見学勉強会、「川上澄生(すみお)の木版画世界をのぞく」に参加する日。

 川上澄生は栃木県鹿沼の出身で、1992年(平成4)に澄生の作品のコレクターだった故長谷川勝三郎氏の2000点にも及ぶコレクションが市に提供されて、開館された「鹿沼市立川上澄生美術館」を訪ねようというわけ。

 印刷文化の研究団体である神田川大曲塾の見学会はいつも、和気あいあい、いたっておおらかです。
今日も今日とて、新鹿沼で下車して、まず、向ったのが地元のうなぎの名店、石橋でした。まずは、親睦&腹ごしらえというわけ。さらに、参加総勢21名がぞろぞろ、帰りのおみやげ調達に鹿沼名物「湯沢屋の酒まんじゅう」の予約に訪れるという念の入れよう。

 美術館は市内を流れる黒川のほとり、明治の洋館と見まがう素敵な建物、入り口で澄生の「へっぽこ先生」のシンボル・アイキャッチャーがにこやかに迎えてくれる。

 本日の講師は長谷川勝三郎氏のご子息長谷川勝朗氏、版画、陶芸、音楽に造詣が深く、現在、印刷博物館勤務だからわれわれとしては心強い。
代表作《初夏の風》1926年(大正15)にはじまって、《鬼ごと》1928年(昭和3)、《たばこ渡来記》1943年(昭和18)、《蛮船入津》1953年(昭和28)《女学生》1968年(昭和43)など、時代ごとに懇切な解説をうかがうことができた。

 川上澄生と棟方志功とのエピソードなど、知らないことを教わったことが多かったが、それについては次回。








 


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戦記ものを輪転機で印刷

2008-03-13 12:56:28 | 活版印刷のふるさと紀行
明治はじめの活版印刷は和紙に印刷して袋とじという、まるでそれより250年もさかのぼって、天正時代の「キリシタン版」顔負けの体裁のものが結構、多かったらしいのです。

 大半の印刷物が洋紙に印刷され製本装丁も欧風になったのは、日清戦争が終って博文館の「日清戦争実記」が評判を呼ぶころとほぼ一致しています。
 造本装丁ばかりではありません。それまでは挿絵も西洋木版や石版に頼っていましたが、写真銅版とよばれた、網目のある写真版にとってかわりました。

 戦線で活躍した将兵の写真や戦場風景がより鮮明に再現されるようになったのですから「実記」は引っ張りだこで読まれたのです。
 つまり、日清戦争が引き金になって、出版が盛んとなり、出版社の数が増し、印刷所が急激に増えたのでした。。

 まさに、日本の印刷業の黎明期が戦争によってもたらされたのです。発展ぶりは、民間だけにとどまらないで、政府も印刷局を増強して、1883年(明治16)から官報を発行しだしまた。そうした背景から活版印刷組合がさかんに活躍するようにもなりました。

 さて、日清戦争の次がちょうど十年後に勃発した日露戦争です。
〝柳の下のドジョウ〟ではありませんが、博文館は「日露戦争実記」を企画しましたし、他の出版社でもぞくぞく画報的な戦記物を出版するようになりました。

 とくにこの頃になると人工のカラーもの、三色版が発達し、三色版口絵が読者の人気を呼ぶようになって来ました。それに、印刷機も「日露戦争実記」の印刷を請け負った小石川の博進社工場が日本の民間第一号としてのマリノニ社の輪転印刷機を入れて消化したといいますからスゴカッタといえます。





 
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戦争と印刷

2008-03-11 12:07:33 | 活版印刷のふるさと紀行
 前回の「博文館から共同印刷へ」の見出しは誤解を招いたようです。
 なぜなら、博文館は出版社で、印刷所の方は博文館印刷所と記さねば正確ではありませんでした。

 博文館-年配の方には懐かしい社名でしょうが、現在は博文館というと、日記帳を連想してしまいます。私なんか、伝通院のそばの玄関脇に日記帳の並んだショーケースがある現社屋が浮かびます。

 ところで、博文館印刷所の誕生には「日清戦役」という戦争が絡んでいます。
 戦争が終っていまでいう戦記ものガバカ売れしてホクホクの博文館は、経営革新を進めたのです。従来発行していた13種類の雑誌を全部廃刊にして、1895年に「太陽」・「少年世界」・「文芸倶楽部」の三誌を創刊したのです。余分なことですが、この頃樋口一葉が「文芸倶楽部」を舞台に活躍しだしました。

 戦争に勝って、自信をつけた国民に新しい教養を提供しようという心意気でした。そこで、博文館の経営者大橋佐平は今の銀座近くに博文館印刷所を興して、
自家出版物の専属印刷を始めたのです。
 戦争と印刷といえば、日露戦争のあとも同じように、印刷ブームが起きました。それについては、また、触れます。
 

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