活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

着想の人 大橋光吉(日本の印刷人100)

2013-01-20 16:24:45 | 活版印刷のふるさと紀行

 

 現在、印刷分野以外の多分野に進出している印刷会社はたくさんありますが、印刷は印刷でもいろいろな印刷を手がけ日本で最初に、確か、昭和初期に「印刷のデパート」と呼ばれたのは共同印刷だったと聞いたことがあります。

 共同印刷の初代社長大橋光吉は博文館や博文館印刷所、博進社と出版と印刷事業を躍進させ、財界人としても著名だった大橋佐平・大橋新太郎とは血縁関係にはありませんでした。

 彼は大橋家に入り婿してこの二人に鍛えられたことは想像にかたくはありませんが、もともと着想に富んだ人であり、決断の人であり、それがある時期業界トップの地歩を築かせたのであります。

 たとえば、博文館印刷所の専務だったとき、石版・コロタイプ・木版・網目版など絵葉書。絵本印刷の美術印刷に着眼して、「日本葉書会」をつくっていろいろな絵葉書をつくったり、月刊で「ハガキ文学」を発行し、大当たりをとります。この美術印刷への注力がが精美堂。誕生させ、それがやがて精美堂と博文館印刷所の合併を産み、共同印刷の創立という経過につながったのです。

  大橋光吉は1922年(大正11)に自社内に「印刷学校」を創設したり、ドイツのフォマーグ社の4色刷りオフセット輪転機やアルバートの活版輪転機、アメリカのウェベンドルファー社の四六全版グラビア輪転機フォマーグ社のオフセット六色輪転機などを積極的に導入したり、民間で最初の「研究室」を社内に設け技術開発に力を入れるなど果敢に印刷経営に取り組みました。それもあの「太陽のない街」で有名な争議を潜り抜けながらですから、大変な人でした。とくに、博文館があったとはいえ、「ハガキ文学」のように出版企画と印刷所経営を結びつけたあたり今考えてもすばらしいことでした。

 

 

 

 

 


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