P.デヴィッドソン『ケインズ・ソリューション』日本経済評論社,2011年
本書は2009年に出た原書の翻訳。デヴィッドソンという人物は,おそらくサミュエルソンやフリードマンと同世代くらいで80歳を超えるようだが,ケインズ派の代表として依然として活発に活動しているようだ。
本書は,金融危機から始まる世界的な大不況に対するケインズ・ソリューション,すなわちケインズが考えるであろうような解決策を提起することを目的としている。
国内不況に対する解決策としては,かつてのニューディール政策のようにとにかく政府による支出が必要だと説かれる。そのためには巨額の財政赤字が必要となり,将来の人々に莫大な債務を負わせることになる。しかしながら,こうした累積債務を回避してしばらく不況に甘んじるよりも,債務がいくら残っても積極的にインフラや保健衛生その他に投資した方が,後の世代にとってよりよいという判断が下される。また余剰生産能力があるかぎり,紙幣をいくら増刷してもインフレの心配をすることは無用であると考えられている。このあたりの判断の是非は,私にはわからない。本書の執筆が2009年であるということを考慮しても,とりわけ米国債の信認が危ぶまれている状況下においては,債務の累積を等閑視することはできないだろう。
金融市場に関しては,グラス・スティーガル法をはじめとして各種の規制が必要だとされる。私の理解するかぎりでは,著者は,金融市場は2種類あるいは3種類に限定されなければならないという。ひとつは相対取引市場であり,相対取引によって生まれる債権の証券化は禁止される。二つ目は,マーケットメーカーの存在する金融市場である。マーケットメーカーは,市場の秩序を保ち,市場価格が連続的になるようにするという任務を負う。たとえば圧倒的な売り注文があって,買い手不在であれば,マーケットメーカーは進んで買い向かう。マーケットメーカーは中央銀行窓口から借入することによって市場を買い支える。これは典型的な短期政府証券の市場モデルといえる。三つ目は,たとえばタバコの警告のように,リスクがあることを明記された金融商品を扱う市場である。このように金融市場に何らかの規制が必要であるという点では,著者の意見は,程度の違いはあれ,現在の主流派とおおむね一致しているように思われる。
国際貿易に関しては,まず現代において比較生産費説は有効ではないことが示される。製造業において特定の国に比較優位があるとすれば,それは労働時間,賃金など労働に関する法規制の甘さである。すなわち現代の比較優位は,労働条件,労働環境の劣悪さを許容できる程度を意味している。こうした比較優位を利用して,多国籍企業は,生産の外部委託を行っている。いわゆる産業の空洞化である。空洞化は国内の失業につながるのであるから,それを防ぐことが雇用対策となりうる。そこで著者は,国内と同程度の労働環境で生産されたものしか輸入してはならないという一種のフェア・トレード論を提起する。
多国籍企業が,劣悪な労働を許容する国を選んで投資することは倫理的には確かに違和感を覚えるのであるが,生産を委託された国の労働者にとって,それが本当に悪いことであるかどうかは難しい。たとえば東南アジアの繊維工場は,同地方の平均賃金よりは高く,それが女性の地位向上にも役立っているともいわれる。このあたりの是非は,私にはまったくわからない。
国際金融面に関しては,国際決済機構の設立の必要性が説かれる。外国との決済はすべて国際決済機構に加盟する中央銀行を通して行われることになり,経常取引,資本取引ともに監視が容易となるという利点がある。著者のいっていることは,ブレトンウッズ会議におけるケインズ案の現代版である。本書ではきわめて簡潔に説明されているにすぎないから,本書だけでデヴィッドソンの提案の是非を議論することはできないが,個人的にはインターネットでクリックするだけで海外と取引できる時代において,あらたに国際決済機構を設立するなんてことは明らかに非現実的であり,不便きわまりないと思う。いまケインズが生きていたら,そんな主張はしないような気がする。
このようなケインズ・ソリューションとは別に,本書でデヴィッドソンは,古典派効率的市場理論を批判している。彼は,ケインズが主流派となりきれず,古典派が復活してしまったことを大いに嘆いている。しかしながら,経済学が古典派とケインズ派の2つだけしかないわけではもちろんないだろう。彼の頭はサミュエルソンとフリードマンで止まっているようだ。今回の危機が古典派効率的市場理論によってひき起こされたというのも無理があるように思われる。むしろ資本主義に生きるわれわれの資本主義的情動によって必然的に生み出されたものというべきである。いまケインズが生きていたら,彼は,好況期には買いによって危機には売りによって大もうけしていただろう。もっともケインズ派代表デヴィッドソンによる古典派批判は,骨董品的な歴史的価値があり,たんに時代遅れだといって拒否してしまってはならないのかもしれない。
時代遅れという点では,やはり私はケインズには歴史的な限界があると思う。私が想定する限界とは,たとえば福祉と環境に対する配慮がないという点である。ケインズは,失業者を救うためには,ピラミッドをつくったり,穴を掘って金を埋めてそれを掘り起こさせたりすればよい,といっていた。私は,ケインズは極端な例としてそういっていたのではなく,本気でそう思っていたんだと思う。彼の理想とする社会は,あくまでも(企業家的な)才能のある人間が自由にいかんなく才能を発揮できる社会であると思われる。その実現のためには,才能のない人間を暴動を起こさない程度に生かしておかなければならない。そこでピラミッドを造らせる。はたして人は,ピラミッドを造って自尊心を維持することができるのだろうか。本書との関係が希薄となってしまうのでこの点の議論は別の機会に譲りたいが,とにかくケインズを福祉国家の父として祭り上げるのは間違いだと思う。
環境に関しても,もちろん公共投資の文脈でそれに配慮することはでき,それは必要なのだが,少なくとも消費を拡大するということに重きをおくのは,エコの時代に反しているような気がする。むしろ消費を拡大するのではなく,消費の分配を変える方が望ましいはずだ。デヴィッドソンは「所得および富の恣意的で不公平な分配」という「欠陥」が資本主義を不安定化しているという認識がケインズにあったと指摘している。しかし一文で触れられているだけで,本書では分配の問題がまったく考察されていない。ここに私はケインズ・ソリューションの最大の限界があると思う。
このようにケインズ・ソリューションに対してはいくらか疑問が残るのであるが,本書は,簡潔なケインズ理論の説明としては有意義であり,ケインズ派に関心のあるものにとっては,デヴィッドソンという偉大な人物が書いたものとして価値があると思われる。
本書は2009年に出た原書の翻訳。デヴィッドソンという人物は,おそらくサミュエルソンやフリードマンと同世代くらいで80歳を超えるようだが,ケインズ派の代表として依然として活発に活動しているようだ。
本書は,金融危機から始まる世界的な大不況に対するケインズ・ソリューション,すなわちケインズが考えるであろうような解決策を提起することを目的としている。
国内不況に対する解決策としては,かつてのニューディール政策のようにとにかく政府による支出が必要だと説かれる。そのためには巨額の財政赤字が必要となり,将来の人々に莫大な債務を負わせることになる。しかしながら,こうした累積債務を回避してしばらく不況に甘んじるよりも,債務がいくら残っても積極的にインフラや保健衛生その他に投資した方が,後の世代にとってよりよいという判断が下される。また余剰生産能力があるかぎり,紙幣をいくら増刷してもインフレの心配をすることは無用であると考えられている。このあたりの判断の是非は,私にはわからない。本書の執筆が2009年であるということを考慮しても,とりわけ米国債の信認が危ぶまれている状況下においては,債務の累積を等閑視することはできないだろう。
金融市場に関しては,グラス・スティーガル法をはじめとして各種の規制が必要だとされる。私の理解するかぎりでは,著者は,金融市場は2種類あるいは3種類に限定されなければならないという。ひとつは相対取引市場であり,相対取引によって生まれる債権の証券化は禁止される。二つ目は,マーケットメーカーの存在する金融市場である。マーケットメーカーは,市場の秩序を保ち,市場価格が連続的になるようにするという任務を負う。たとえば圧倒的な売り注文があって,買い手不在であれば,マーケットメーカーは進んで買い向かう。マーケットメーカーは中央銀行窓口から借入することによって市場を買い支える。これは典型的な短期政府証券の市場モデルといえる。三つ目は,たとえばタバコの警告のように,リスクがあることを明記された金融商品を扱う市場である。このように金融市場に何らかの規制が必要であるという点では,著者の意見は,程度の違いはあれ,現在の主流派とおおむね一致しているように思われる。
国際貿易に関しては,まず現代において比較生産費説は有効ではないことが示される。製造業において特定の国に比較優位があるとすれば,それは労働時間,賃金など労働に関する法規制の甘さである。すなわち現代の比較優位は,労働条件,労働環境の劣悪さを許容できる程度を意味している。こうした比較優位を利用して,多国籍企業は,生産の外部委託を行っている。いわゆる産業の空洞化である。空洞化は国内の失業につながるのであるから,それを防ぐことが雇用対策となりうる。そこで著者は,国内と同程度の労働環境で生産されたものしか輸入してはならないという一種のフェア・トレード論を提起する。
多国籍企業が,劣悪な労働を許容する国を選んで投資することは倫理的には確かに違和感を覚えるのであるが,生産を委託された国の労働者にとって,それが本当に悪いことであるかどうかは難しい。たとえば東南アジアの繊維工場は,同地方の平均賃金よりは高く,それが女性の地位向上にも役立っているともいわれる。このあたりの是非は,私にはまったくわからない。
国際金融面に関しては,国際決済機構の設立の必要性が説かれる。外国との決済はすべて国際決済機構に加盟する中央銀行を通して行われることになり,経常取引,資本取引ともに監視が容易となるという利点がある。著者のいっていることは,ブレトンウッズ会議におけるケインズ案の現代版である。本書ではきわめて簡潔に説明されているにすぎないから,本書だけでデヴィッドソンの提案の是非を議論することはできないが,個人的にはインターネットでクリックするだけで海外と取引できる時代において,あらたに国際決済機構を設立するなんてことは明らかに非現実的であり,不便きわまりないと思う。いまケインズが生きていたら,そんな主張はしないような気がする。
このようなケインズ・ソリューションとは別に,本書でデヴィッドソンは,古典派効率的市場理論を批判している。彼は,ケインズが主流派となりきれず,古典派が復活してしまったことを大いに嘆いている。しかしながら,経済学が古典派とケインズ派の2つだけしかないわけではもちろんないだろう。彼の頭はサミュエルソンとフリードマンで止まっているようだ。今回の危機が古典派効率的市場理論によってひき起こされたというのも無理があるように思われる。むしろ資本主義に生きるわれわれの資本主義的情動によって必然的に生み出されたものというべきである。いまケインズが生きていたら,彼は,好況期には買いによって危機には売りによって大もうけしていただろう。もっともケインズ派代表デヴィッドソンによる古典派批判は,骨董品的な歴史的価値があり,たんに時代遅れだといって拒否してしまってはならないのかもしれない。
時代遅れという点では,やはり私はケインズには歴史的な限界があると思う。私が想定する限界とは,たとえば福祉と環境に対する配慮がないという点である。ケインズは,失業者を救うためには,ピラミッドをつくったり,穴を掘って金を埋めてそれを掘り起こさせたりすればよい,といっていた。私は,ケインズは極端な例としてそういっていたのではなく,本気でそう思っていたんだと思う。彼の理想とする社会は,あくまでも(企業家的な)才能のある人間が自由にいかんなく才能を発揮できる社会であると思われる。その実現のためには,才能のない人間を暴動を起こさない程度に生かしておかなければならない。そこでピラミッドを造らせる。はたして人は,ピラミッドを造って自尊心を維持することができるのだろうか。本書との関係が希薄となってしまうのでこの点の議論は別の機会に譲りたいが,とにかくケインズを福祉国家の父として祭り上げるのは間違いだと思う。
環境に関しても,もちろん公共投資の文脈でそれに配慮することはでき,それは必要なのだが,少なくとも消費を拡大するということに重きをおくのは,エコの時代に反しているような気がする。むしろ消費を拡大するのではなく,消費の分配を変える方が望ましいはずだ。デヴィッドソンは「所得および富の恣意的で不公平な分配」という「欠陥」が資本主義を不安定化しているという認識がケインズにあったと指摘している。しかし一文で触れられているだけで,本書では分配の問題がまったく考察されていない。ここに私はケインズ・ソリューションの最大の限界があると思う。
このようにケインズ・ソリューションに対してはいくらか疑問が残るのであるが,本書は,簡潔なケインズ理論の説明としては有意義であり,ケインズ派に関心のあるものにとっては,デヴィッドソンという偉大な人物が書いたものとして価値があると思われる。