ニート博士の手記

自称博士が現実逃避しながら現代資本主義の矛盾に立ち向かう自己矛盾ブログ

ケインズ・ソリューション

2011年09月09日 21時47分19秒 | 読書メモ
P.デヴィッドソン『ケインズ・ソリューション』日本経済評論社,2011年

 本書は2009年に出た原書の翻訳。デヴィッドソンという人物は,おそらくサミュエルソンやフリードマンと同世代くらいで80歳を超えるようだが,ケインズ派の代表として依然として活発に活動しているようだ。
 本書は,金融危機から始まる世界的な大不況に対するケインズ・ソリューション,すなわちケインズが考えるであろうような解決策を提起することを目的としている。
 
 国内不況に対する解決策としては,かつてのニューディール政策のようにとにかく政府による支出が必要だと説かれる。そのためには巨額の財政赤字が必要となり,将来の人々に莫大な債務を負わせることになる。しかしながら,こうした累積債務を回避してしばらく不況に甘んじるよりも,債務がいくら残っても積極的にインフラや保健衛生その他に投資した方が,後の世代にとってよりよいという判断が下される。また余剰生産能力があるかぎり,紙幣をいくら増刷してもインフレの心配をすることは無用であると考えられている。このあたりの判断の是非は,私にはわからない。本書の執筆が2009年であるということを考慮しても,とりわけ米国債の信認が危ぶまれている状況下においては,債務の累積を等閑視することはできないだろう。

 金融市場に関しては,グラス・スティーガル法をはじめとして各種の規制が必要だとされる。私の理解するかぎりでは,著者は,金融市場は2種類あるいは3種類に限定されなければならないという。ひとつは相対取引市場であり,相対取引によって生まれる債権の証券化は禁止される。二つ目は,マーケットメーカーの存在する金融市場である。マーケットメーカーは,市場の秩序を保ち,市場価格が連続的になるようにするという任務を負う。たとえば圧倒的な売り注文があって,買い手不在であれば,マーケットメーカーは進んで買い向かう。マーケットメーカーは中央銀行窓口から借入することによって市場を買い支える。これは典型的な短期政府証券の市場モデルといえる。三つ目は,たとえばタバコの警告のように,リスクがあることを明記された金融商品を扱う市場である。このように金融市場に何らかの規制が必要であるという点では,著者の意見は,程度の違いはあれ,現在の主流派とおおむね一致しているように思われる。

 国際貿易に関しては,まず現代において比較生産費説は有効ではないことが示される。製造業において特定の国に比較優位があるとすれば,それは労働時間,賃金など労働に関する法規制の甘さである。すなわち現代の比較優位は,労働条件,労働環境の劣悪さを許容できる程度を意味している。こうした比較優位を利用して,多国籍企業は,生産の外部委託を行っている。いわゆる産業の空洞化である。空洞化は国内の失業につながるのであるから,それを防ぐことが雇用対策となりうる。そこで著者は,国内と同程度の労働環境で生産されたものしか輸入してはならないという一種のフェア・トレード論を提起する。
 多国籍企業が,劣悪な労働を許容する国を選んで投資することは倫理的には確かに違和感を覚えるのであるが,生産を委託された国の労働者にとって,それが本当に悪いことであるかどうかは難しい。たとえば東南アジアの繊維工場は,同地方の平均賃金よりは高く,それが女性の地位向上にも役立っているともいわれる。このあたりの是非は,私にはまったくわからない。
 国際金融面に関しては,国際決済機構の設立の必要性が説かれる。外国との決済はすべて国際決済機構に加盟する中央銀行を通して行われることになり,経常取引,資本取引ともに監視が容易となるという利点がある。著者のいっていることは,ブレトンウッズ会議におけるケインズ案の現代版である。本書ではきわめて簡潔に説明されているにすぎないから,本書だけでデヴィッドソンの提案の是非を議論することはできないが,個人的にはインターネットでクリックするだけで海外と取引できる時代において,あらたに国際決済機構を設立するなんてことは明らかに非現実的であり,不便きわまりないと思う。いまケインズが生きていたら,そんな主張はしないような気がする。

 このようなケインズ・ソリューションとは別に,本書でデヴィッドソンは,古典派効率的市場理論を批判している。彼は,ケインズが主流派となりきれず,古典派が復活してしまったことを大いに嘆いている。しかしながら,経済学が古典派とケインズ派の2つだけしかないわけではもちろんないだろう。彼の頭はサミュエルソンとフリードマンで止まっているようだ。今回の危機が古典派効率的市場理論によってひき起こされたというのも無理があるように思われる。むしろ資本主義に生きるわれわれの資本主義的情動によって必然的に生み出されたものというべきである。いまケインズが生きていたら,彼は,好況期には買いによって危機には売りによって大もうけしていただろう。もっともケインズ派代表デヴィッドソンによる古典派批判は,骨董品的な歴史的価値があり,たんに時代遅れだといって拒否してしまってはならないのかもしれない。
 
 時代遅れという点では,やはり私はケインズには歴史的な限界があると思う。私が想定する限界とは,たとえば福祉と環境に対する配慮がないという点である。ケインズは,失業者を救うためには,ピラミッドをつくったり,穴を掘って金を埋めてそれを掘り起こさせたりすればよい,といっていた。私は,ケインズは極端な例としてそういっていたのではなく,本気でそう思っていたんだと思う。彼の理想とする社会は,あくまでも(企業家的な)才能のある人間が自由にいかんなく才能を発揮できる社会であると思われる。その実現のためには,才能のない人間を暴動を起こさない程度に生かしておかなければならない。そこでピラミッドを造らせる。はたして人は,ピラミッドを造って自尊心を維持することができるのだろうか。本書との関係が希薄となってしまうのでこの点の議論は別の機会に譲りたいが,とにかくケインズを福祉国家の父として祭り上げるのは間違いだと思う。
 環境に関しても,もちろん公共投資の文脈でそれに配慮することはでき,それは必要なのだが,少なくとも消費を拡大するということに重きをおくのは,エコの時代に反しているような気がする。むしろ消費を拡大するのではなく,消費の分配を変える方が望ましいはずだ。デヴィッドソンは「所得および富の恣意的で不公平な分配」という「欠陥」が資本主義を不安定化しているという認識がケインズにあったと指摘している。しかし一文で触れられているだけで,本書では分配の問題がまったく考察されていない。ここに私はケインズ・ソリューションの最大の限界があると思う。

 このようにケインズ・ソリューションに対してはいくらか疑問が残るのであるが,本書は,簡潔なケインズ理論の説明としては有意義であり,ケインズ派に関心のあるものにとっては,デヴィッドソンという偉大な人物が書いたものとして価値があると思われる。

TPP亡国論

2011年08月31日 10時55分22秒 | 読書メモ
中野剛志『TPP亡国論』集英社新書、2011年


 TPPについてまったく無知だったので,いまさらながらTPPのことを知りたくて本書を読んでみた。
 6章構成となっているが,4章まではわりとおもしろく読めた。
 TPP反対の論理を私なりにまとめてみると,TPPの参加国となりそうなのは、日本と米国以外は小国であり,しかも輸出主導国なので日本の製造業の輸出先としてはあまり魅力ではない。実質的にTPPとは日米FTAである。ただ通常のFTAと違って、例外のない関税撤廃、生産要素の自由移動が実施される。
 TPPにおけるアメリカの目的は,輸出先の市場として日本をねらうところにあり、その最大の輸出財は農作物である。
 アメリカは,経常赤字を減らすことを目指しており、そのためにも日本市場に対して輸出拡大が必要である。そのためいまはドル安に誘導している。
 つまり,TPPへの日本加入は,アメリカの戦略であり,日本の農業はもちろん、製造業にとっても利益とならない。
 さらに10数パーセントの関税よりも,為替相場のほうが,輸出入にとって重要な変数であり,韓国企業の強さもウォン安によるところがおおきい。
 したがって関税にこだわること自体あまり意味はなく,資本移動規制や農業に関する規制が撤廃されるということ自体が,日本にとって大変不利である。
 ゆえにTPPは日本にとって何らメリットがないので反対されなければならない。
 確かに著者のいうとおりにTPP参加を推奨する合理的根拠を探す方が難しそうだ。
 もちろんアメリカがTPP日本加入を望む背景には、大幅な経常赤字、グローバルインバランスという問題がある。著者はこれを放置してよいとはいっていない。
 むしろ経常黒字国の日本は、積極的にグローバルインバランスの解決に寄与する責務がある。
 しかしそれは,不利益しかないTPPに加入することによってではなくて,デフレ脱却することによってである。
 すなわち,日本は、内需拡大をしてデフレを脱却し,増加した国民所得によって輸入を増加させる。これこそが,日本国民にとっても利益であり、世界経済にとっても利益である。
 ここまでの議論は、私も納得できたし,大いに賛成である。元気があれば何でもできるのはアントニオ猪木だけという指摘があったことも有意義であった。本書は4章までならばよい本であった。

 しかし本書にはいくつか疑問点がある。
 まずデフレ脱却するために,著者は公共事業拡大、国債増発、場合によっては日銀直接引き受けを推奨する。日本の巨額な財政赤字は,ギリシャなどの事例とは異質なので心配無用だという。
 しかしはやりどこまでも発行してよいというものではないと思われる。著者は発行限度を知るための指標となるのが,物価指数、失業率などであり,それらを見て行き過ぎであれば手綱を締めればよいと考えている。しかしここで問題となるのは信認である。たとえば個人や企業において将来に不安がなく返済可能性に問題がなくても,収入に対して負債額が大きすぎるならば,それだけで心配になるのではないだろうか。財政危機の懸念に理論的に合理的な根拠がなくても、巨額な負債に対する不安が支配的となれば、国債市中消化が困難になりそうな気がする。
 
 また5章では、農作物の輸入に関して,日本の自給率が低いことの懸念が示されている。農作物は供給国にとっては戦略的商品であり,その輸入国に対して戦略上優位に立つ。
 たとえばアメリカにおいて天候不順などで食糧危機が発生したら自国分の食糧を確保して,残りを日本に供給することになる。こうして日本の命運は,食糧供給国アメリカに決定的に依存することになる。
 ド素人の私としては,こうした議論が妥当なのかどうか判断できない。だが素朴な疑問として,発展途上国などで農作物を輸出している国は,自国民がどんなに飢えていても先進国に農作物を輸出しなければならないのはなぜかというのが浮かぶ。それはもちろん,帝国主義的な支配従属関係、あるいは農業資本が外国に支配されているということもあるかもしれないが,決定的に重要なのはおそらく経常赤字の存在であり,輸入するための外貨を稼がなければならないからなのではないか。アメリカは基軸通貨国なので外貨を稼ぐ必要はなく、だから経常赤字を垂れ流すことができていた。しかし,本書で指摘されるように,アメリカは経常赤字の削減を目下の課題とし始めた。それはなぜかといえば,もちろん不況対策としてでもあるが,なによりも基軸通貨としてのドルの地位が怪しくなってきたからだろう。だからこそアメリカはTPPに参加し,日本市場をねらっている。TPPは経常赤字国として輸出を拡大するという義務をアメリカに課すわけである。要するに、TPPへのアメリカの加入と,戦略的商品の供給者としてのアメリカとが,整合するのだろうかという疑問である。もちろん,食糧危機という異常事態にあっては経常収支など関係なくなるともいえる。だから食糧自給率を高めなければならないのかもしれない。そのへん私はまったくわからないが、長期的には日本の自給率に見合う程度に人口が減少するだろうといってしまったほうが経済学らしいような気もする。
 
 もうひとつだけ疑問をあげるとすれば,著者は自由貿易主義を批判しているが,その批判は経済学に対してやや公平さを欠くのではないか。著者は「戦略」という観点から自由貿易推進派の意図を読み解き,それを批判し、貿易には「戦略」が必要だという。おそらく現実的にはその通りだろう。しかしながら,経済学の提唱する自由貿易は,それとは次元を異にしていると思う。
 私は、自由貿易主義とは平和の思想であり、国際協調の思想だと思っている。それは比較生産費説が示すように互恵的なものである。互恵が実現するためには,「戦略」というものを各国が放棄しなければならないのではないか。特定の国が戦略的に輸出拡大をねらうならば,もはや互恵は成り立たない。他国が戦略的ならば,自国も戦略的でなければ生き残れない。その意味で互恵性は、理念的であり非現実的である。しかし非現実的であるということは,比較生産費説が誤謬であることを意味しない。
 そもそも著者は、比較生産費説をよく理解していないのではないかと思われる節がある。そのことは次の叙述に示唆されている。「二国間で貿易を行えば、ある財の生産国は相手国にその財を宇出して利益を稼ぎ、消費国はその財を輸入して消費という利益を享受することになります。そこで、とりあえずの互恵関係が成立します」。自由貿易の互恵性は,そうゆうものではない。私の理解するかぎりで簡単に言えば「互いに得意な分野の商品の生産に専念して,それを交換しあうことによって互いに利益をえましょう」というのが自由貿易の互恵性である。その実現のために必要なのは協調である。そして「協調」を実現するためには「戦略」を放棄する必要があるはずである。ただしこうした協調関係が成り立つためには、各国が資源の完全雇用を実現していなければならず,その意味では自由貿易よりもデフレ脱却が優先だという著者の議論は正しい。
 著者は戦略を重視するので,最後は福沢諭吉が登場し,自主防衛の重要性が説かれる。しかし私は,日本が自主防衛を放棄することが望ましいと思っている。いやむしろ,世界各国が防衛を放棄することが望ましいと思っている。もちろん他国が戦略的ならば自国もそれに対抗して自衛力をもたなければならないだろう。しかしこの場合も「戦略」を放棄して「協調」を目指すことが誤りであるというわけではない。繰り返しになるが私は経済学者のいう自由貿易主義は平和の思想だと思っている。戦略的なTPPを批判しつつ,なお国際協調としての自由貿易を志向することは,決して矛盾しないはずだ。

通貨経済学入門

2011年08月29日 16時22分59秒 | 読書メモ
宿輪純一『通貨経済学入門』日本経済新聞出版社,2010年


 最近ドル安が話題なので,国際通貨に関して勉強してみたいと思い本書を読んでみた。
 通読してみて、国際通貨という分野は本当に難しいというのが率直な感想。
 本書は、国際通貨の歴史や理論、最近のユーロなど通貨同盟に関して説明されている。
 このように取り扱われている範囲は広く、知識の整理に役立つ。
 反面、私のように国際通貨に関して勉強を始めたいと考えるものには、難解であった。
 これは私の理解力不足というよりは、通貨というものが本当に捉えがたいものであるからだと思いたい。
 本書では、前半に「ファンダメンタルズ」という言葉がよく出てくるが、ファンダメンタルズにも経済と通貨に関する2種類があるとされる。
 通貨のファンタメンタルズは、経常収支、利子率、経済成長率、財政収支に依存するとされる。これらがたぶん本来の通貨価値を決める。しかしこれらの4つの概念がどう決まるかが、そもそも本来詳しい説明を要する難しい問題であることが、国際通貨という分野をよりいっそう難しくしているような気がする。
 さらにファンダメンタルズだけでなく、各国の金融市場の成熟度や資本移動規制、政治的状況、為替制度などにも、為替相場は大きく依存しているから、問題はなおさら難しくなる。
 このように基本的なことがよくわかってない私でも、本書を読んで、歴史的に外国為替制度は、金という単一国際通貨から、固定相場制、変動相場制へと進んできて、将来的には次に世界各地の通貨同盟の結成、そして最終的には世界単一通貨へと出発点に戻ってくるという予測の説得力みたいなものはよく伝わってきた。
 
 世界各地での通貨同盟の結成は、ドル不信、ドル離れを象徴する現象だと思われるが、だとすれば、今後アメリカがどのような行動を取るのかは、大変興味深い問題だと思った。たぶんTPPも絡んでくるだろう。しかしこのドルの将来、アメリカの将来に関して触れられていなかったのは残念。
 将来的にSDRが基軸通貨となる可能性もあるならば、各地域の流通通貨とSDRとは、どのような関係になるのかもよくわからない。
 しかし本書は「通貨経済学」の入門書なのだから、こうした不確かな将来予測よりも、既存のより確かな理論や事実説明のほうに、より重点を置かれる必要があったと考えるべきだろう。
 
 とはいえ、本書は説明が簡潔すぎたり、序盤で当たり前のように使われていた基本的事項の説明が中盤以降に出てきたりして、構成が初学者には不親切である。
 一文一文の間にあるはずの「通貨経済学」的なメカニズムの説明をもっと入れてほしかった。そもそも文字が大きく1ページの文字数が少なすぎて、これで2500円では割高感が残らざるをえない。
 説明が少なすぎることの最大の弊害は、著者のいっていることは正しいのかどうかという疑問が読者の脳裏に浮かんでしまうことだ。著者への不信感は入門書としては致命的だ。
 たとえば「本来、変動相場制と基軸通貨は相容れない概念なのである」という文章がさらっとでてくるが、なぜだろうか。基軸通貨がなければ中央銀行は世界各国の通貨を準備通貨として保有しなければならず、実務上不便ではないか。ドルが好んで保有されてきたのは介入通貨として便宜であったことも大きな要因だろう。
 この一文は(少なくとも私には)たいへんインパクトのある叙述なので、是非とも説明がほしい(しかしこれはたんに私の理解不足によるもので、本書をよく理解すれば答えが出てくるのかもしれない。あるいは国際金融論では常識的で改めて説明を要しないのでかもしれない)。
 もうひとつ例を挙げると、最後のほうで突然「日本でも米国のように東京工業品取引所のような商品先物取引所をより成長させることが、日本の金融市場全体のいっそうの成長につながると考える」という文章が現れるが、なぜ、本当に?という疑問が(少なくとも私には)出てきてしまう。この点是非説明してほしかった。
 
 あと些細な疑問点を挙げると、たとえばブレトンウッズ体制の説明に関して、同体制下では義務として為替レートの固定に注力することが「ゲームのルール」となったと書かれている。しかし「ゲームのルール」というのは、19世紀後半から20世紀初期の国際金本位制下で、金流入国は流通貨幣を増やし、金流出国は流通貨幣を減らすというルールのことを意味するものだと私は理解していたので、本書の「ゲームのルール」という表現の使用法が正しいかどうか疑問に思った。私の拙い記憶では、1910年代後半からアメリカが「ゲームのルール」を逸脱し、金の流入を不胎化させ金をため込みはじめたのが、国際金本位制崩壊の原因のひとつとされていたような気がする。さらに著者は「ゲームのルール」という表現を最初につかったのはケインズだと述べているが、これが本当ならばぜひ出典を出してもらいたかった(本書には参考文献を指示する脚注がまったくない。これは入門書としてきわめて不親切ではないか)。
 「貨幣数量説」がフリードマンが提唱したものになっていたり、「比較優位」という概念が誤用乱用されていたりとほかに気になる部分も多々ある。いうまでもなく貨幣数量説は400年以上前にあったし、金地金委員会では政策的に応用されている。「比較優位」は、固定相場と変動相場では後者に比較優位がある、というような使い方をする概念ではないことは、誰でも知っている。「貨幣数量説」や「比較優位」なんかは経済学ではもっとも基本的かつ重要な概念に含まれるといえるので、本書が「通貨経済学」の入門書を志向するならば、経済学的に正しく説明する必要があり通常の語法から外れるならば、その旨を読者に知らせるべきだと思う。そもそも「通貨経済学」というのが何なのかよくわからず、それに関する説明もないのはいかがなものか。
 
 しかしながら、これらは些細な不満であり、文字数が少なく割高であることから出てくる不満である。「通貨」に関心があり、(あくまで)知識を整理したい人には適した本だと思う。

夢のない無職

2010年10月03日 11時43分05秒 | 日々雑感
 よく「疲弊した日本」とか「行き詰まった日本」とかゆう表現が聞かれるが,よく意味のわからない表現だと思います。「活力」とか「活性化」とかも意味のわからない言葉です。こういうよく意味のわからない表現を多用して,聞き手に正体不明の危機感を植えつけ,自身の主張に説得力をもたせようとする輩が多いような気がします。ここで私が念頭に置いているのは,たとえば森永○朗です。森永の日銀批判は聞くに堪えません。
 具体的に誰が疲弊したり行き詰まったり閉塞したりしてるんでしょうか。日本そのものでしょうか。何らかの平均的な日本人のことを指しているのでしょうか。
 日本を人にたとえて,借金が大きいから,破産寸前とか先行き見えないとかいうこともできるでしょう。でも人にたとえるならば,グロスの負債額ではなくて,資産を差し引いたネットの負債額で,借金の大きさを評価するべきなんではないでしょうか。
 さらに日本を家族にたとえてみると次のようにいえると思います。財務省「債務管理リポート2010」を見ますと,たとえば現在の日本国債は,外国人保有割合が約6%であり,この点は他の先進国とは大きく異なります(日本の経常黒字を考えれば当然です)。日本の借金の94%は,日本人が貸して日本人が借金しているといえます。家族にたとえれば,家族内での貸し借りのほかに,他人からの借金が少しあるということでしょう。家族内はともかく,他人からの借金は必ず返さなければいけません。しかしここでも,ネットの負債を考慮する必要があります。正確な数字は知りませんが,日本は対外借入をはるかに上回る対外貸出を行っているはずです。つまり他の家からお金を借りている以上にお金を貸しているはずです。となれば,さしあたりは家族内での貸し借りだけが問題となると思われます。
 これは先行きが不安になるほど大きな問題なのでしょうか。家族内での金銭問題は,死活的に大きな問題となりうるかもしれませんし,大して問題ではないということもできるかもしれません。たとえば借金の利子を支払うためには税金を集めなければなりません。ですが,税金は広く一般から収集されるのに,利子を受け取るのは,主に国債をもてる富裕層です。そうすると,貧困層から富裕層への所得移転が発生してしまうことになります。
 しかしながら,そもそも私の考えは根本的に間違っているかもしれません。日本という国を個人にたとえて借金問題を考えることは,原理的に誤りかもしれません。しかし,だとしますと,日本を個人にたとえて「疲弊している」とか「行き詰まっている」とか「活力がない」とかいうのも根本的におかしいことになりそうです。とにかく私の現時点での結論としては,疲弊しているのは,日本でも日本人でもなくて,夢のない無職であるということです。

さよならmild7

2010年09月30日 23時15分45秒 | 日々雑感
紙に巻かれた葉っぱを燃やしてその煙を吸うなんて野蛮すぎますね。
煙を吸うなんて信じられませんね。
タバコなんて有害無益なもの課税しまくればいいんですよ。
マイルドセブン1箱1000円でいいですよ。
有害な煙を口からまき散らすなんて,もうほんと迷惑ですね。
正直私はマイルドセブンが220円の時から吸ってました。
くわえタバコで自転車通学してました。
でもいまは煙じゃなくて水蒸気を吸っています。
どこでも気軽にニコチン補給できます。
15歳の時に買ったzippoも捨てました。
さよならmild7