みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

これを共産主義と言います

2012-03-21 18:15:51 | Weblog

下の記事ですが、これを共産主義と言います。

いずれ必ず破綻するシステム。

但し、今があの頃のままであるなら共産主義とは言えなくなる。

要は、この国のココロの問題。

当たり前と思うのなら、共産主義。

有難いと感謝するなら、古き良き時代。

 

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

なつかしきあの頃

2012-03-13 08:20:45 | Weblog

m3に投稿されていた『よしくるそう』先生の手記

引用開始

・・・

府内で唯一の切断指再接着医療機関に勤めていた頃、
下手すりゃ毎日、最少でも3日に一度はオールナイトの手術だった。
延々と続く手術。

朝に定期の手術が始まるまでに緊急手術が終わる時はまだ良かった。
そのままオペ場に居残り、定期のオペするだけ。
誰も代わりなんて居ない。

緊急手術の終わらない時の人のやり繰りはそれはそれは大変だった。

それでも研修医の給料は税込み4万円だった。
緊急手術代はおろか、超過勤務手当もつかない。
唯一当直者のみ9000円の当直手当がついた。

4万円弱で1ヶ月どう暮らせ言うのか?(家賃は5万3千円だった。)
明らかに憲法違反の大学病院だった。

食えない私たちは、緊急の当番で無い時に、
激しい救急病院にアルバイトに行っていた。
いつも寝不足でフラフラだった。
よく交通事故を起こさなかったものだと本当に思う。

教授の「先生は普通の人でいいの?」という言葉に奮起した時代だった。
大学院に入って、月々5万円の月謝を払って、
緊急手術の無い時に実験した。
大学院を卒業して助手になったら、初めて月給13万円もらった。

そんな時代があったから今があると思っています。

・・・

私が消化器外科教室に入局した頃と状況はほぼ同じ。

来る日も来る日も医局に15時間以上詰めてのジリ貧生活。

なつかしき研修医時代。

知っている人は知っている、『神田川』の世界・・・。

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

頑なな民

2012-03-07 16:22:51 | 聖書研究・信仰

マタイ19章8節
イエスは彼らに言われた。
「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、
その妻を離別することをあなたがたに許したのです。
しかし、初めからそうだったのではありません。
(新改訳)

とあるので、モーセは同胞の心が頑(かたく)なとなっていることを知っていたことになります。

そうすると、前回の記事とつじつまが合ってきます。

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

顔におおいを掛ける

2012-03-02 16:51:32 | 聖書研究・信仰
第2コリント3章14節
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。
というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、
同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。
なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
(新改訳)

まず、この訳出で問題とすべきは「鈍くなる」と訳された単語。

原典ではπωρόωという単語が使用されていて

πωρόω:
pōroō
po-ro'-o
Apparently from πῶρος pōros (a kind of stone); to petrify, that is, (figuratively) to indurate (render stupid or callous): - blind, harden.

‘stoneのような’‘petrify’(語源はペテロか?)とあるように、ここでは、鈍くなる、ではなく、頑なになる、と訳したほうがよい。

また、思いと訳された単語は、νόημαで

νόημα:
noēma
no'-ay-mah
From G3539; a perception, that is, purpose, or (by implication) the intellect, disposition, itself: - device, mind, thought.

思い、知性、という意味。

第2コリント3:14a
しかし、彼らの思いは頑なになった
(直訳)

では、何時から彼らの思いは頑なになったのか。

(その時から)今日に至るまでおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいない

とあるので

モーセが顔にベールを掛けた時からと考えるのが自然。

そこで、出エジプト34章を見てみると

・・・

34:28
モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。
彼はパンも食べず、水も飲まなかった。
そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

34:29
それから、モーセはシナイ山から降りて来た。
モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。
彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。

34:30
アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。
なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。
それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

34:31
モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。
それでモーセは彼らに話しかけた。

34:32
それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、
彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。

34:33
モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。

34:34
モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、
いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。
そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。

34:35
イスラエル人はモーセの顔を見た。
まことに、モーセの顔のはだは光を放った。
モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

・・・

さて、上の記事には、なぜモーセが顔におおいを掛けたかはっきり書かれていないし、顔におおいを掛ける行為が

何か否定的であるかのような内容にもなってはいない。

しかし、パウロは、第2コリント3:13に

消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように
顔におおいを掛けた

とあるように、顔におおい掛ける行為のみならず、モーセの顔が光を放つこと自体も極めて否定的に理解しているような印象を受けます。


どのように理解するのが自然なのか、さらに検討を続けます。



コメント (0) |  トラックバック (0) |