2007/04/07のエントリーで以下のような考察をしました。内容自体に大きな変更はありませんが、この記事を一部修正しながら(一部に間違いがあります)検討を進めたいと思います。
ガラテア2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きている
のではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、
この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(新改訳)
「この文章の最初の一行目は、口語訳、新共同訳には存在しません。異本が存在するためです」と書きましたが、これは間違いで、
ガラテア2:19に、
わたしはキリストと共に十字架につけられた
(口語訳)
わたしは、キリストと共に十字架につけられています
(新共同)
とあります。そして、新改訳は上にあるように
ガラテア2:20a
私はキリストとともに十字架につけられました
(新改訳)
以上ご指摘の通りです。英語訳のほとんどは、この文章をガラテア2:20の文頭に入れています。実はその方が文法的により適切なのです。
原典をみると、この文章は
χριστω συνεσταυρωμαι(クリストー スーネスタウローマイ」という短い文章から成っていて、直訳すると「私はキリストと共に十字架に付けられてしまっている」。動詞の時制は完了形です。英語でもそうですが、「完了形」を日本語に訳出すると、多くの場合その本来の意味合いが落ちてしまうようです。的確な日本語表現が存在しないためです。
よって、
私はキリストと共に十字架に付けられてしまった
というややくどい訳出になってしまいます。
古典ギリシャ語の完了形というのは、「〜した結果、現在は〜である」という用法です。「現在は〜である」という文章が次に来ることが期待されます。
この原則をこの聖句に当てはめてみると、
私はキリストと共に十字架に付けられて「しまった結果」
(私は死んで)「現在」キリストが私の中で生き「ている」
となるわけです。
・・・(以下は参考までに)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」に誤訳はありません。
問題は、次の文章です。
他の原典も確認してみましたが、この文章は関係代名詞(主格または対格)中性単数であるho(ホ)から始まります。この文章、そして前聖句にも中性単数名詞は存在しません。つまり訳出不能な文章なのです。この単語がなければ全く問題はないのですが。そこで、強引に以下のように解釈したいと思います。英語では前文全体を受ける関係代名詞whichがありますが、この用法を当てはめて直訳を試みます。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。
となります。
「神の御子を信じる信仰」ではありません。これは極めて重大な誤訳です。「神の子の信仰」が正訳です。この大きな違いがお分かりでしょうか。「神の御子を信じる信仰」と訳出した場合の主格は誰でしょうか。「私」です。「私が神の子を信じる信仰」となりますが、原典にはそのようには書いていません。「神の子の信仰」です。つまり「人の子イエスが持っていた信仰」です。
主イエスがあくまでも神に従順であったが故に、私パウロは今永遠の命に与っている、という意味なのです。
全文直訳します。
私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。
となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです。
主イエスの信仰が私(たち)を生かしているのです。言い換えると、主イエスの信仰によって私(たち)は生きているのです。
ガラテア2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きている
のではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、
この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。
(新改訳)
「この文章の最初の一行目は、口語訳、新共同訳には存在しません。異本が存在するためです」と書きましたが、これは間違いで、
ガラテア2:19に、
わたしはキリストと共に十字架につけられた
(口語訳)
わたしは、キリストと共に十字架につけられています
(新共同)
とあります。そして、新改訳は上にあるように
ガラテア2:20a
私はキリストとともに十字架につけられました
(新改訳)
以上ご指摘の通りです。英語訳のほとんどは、この文章をガラテア2:20の文頭に入れています。実はその方が文法的により適切なのです。
原典をみると、この文章は
χριστω συνεσταυρωμαι(クリストー スーネスタウローマイ」という短い文章から成っていて、直訳すると「私はキリストと共に十字架に付けられてしまっている」。動詞の時制は完了形です。英語でもそうですが、「完了形」を日本語に訳出すると、多くの場合その本来の意味合いが落ちてしまうようです。的確な日本語表現が存在しないためです。
よって、
私はキリストと共に十字架に付けられてしまった
というややくどい訳出になってしまいます。
古典ギリシャ語の完了形というのは、「〜した結果、現在は〜である」という用法です。「現在は〜である」という文章が次に来ることが期待されます。
この原則をこの聖句に当てはめてみると、
私はキリストと共に十字架に付けられて「しまった結果」
(私は死んで)「現在」キリストが私の中で生き「ている」
となるわけです。
・・・(以下は参考までに)
「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」に誤訳はありません。
問題は、次の文章です。
他の原典も確認してみましたが、この文章は関係代名詞(主格または対格)中性単数であるho(ホ)から始まります。この文章、そして前聖句にも中性単数名詞は存在しません。つまり訳出不能な文章なのです。この単語がなければ全く問題はないのですが。そこで、強引に以下のように解釈したいと思います。英語では前文全体を受ける関係代名詞whichがありますが、この用法を当てはめて直訳を試みます。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。
となります。
「神の御子を信じる信仰」ではありません。これは極めて重大な誤訳です。「神の子の信仰」が正訳です。この大きな違いがお分かりでしょうか。「神の御子を信じる信仰」と訳出した場合の主格は誰でしょうか。「私」です。「私が神の子を信じる信仰」となりますが、原典にはそのようには書いていません。「神の子の信仰」です。つまり「人の子イエスが持っていた信仰」です。
主イエスがあくまでも神に従順であったが故に、私パウロは今永遠の命に与っている、という意味なのです。
全文直訳します。
私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。
となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです。
主イエスの信仰が私(たち)を生かしているのです。言い換えると、主イエスの信仰によって私(たち)は生きているのです。










>「私はキリストと共に十字架に付けられてしまった結果、今私は死んでいる。
だから、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中で生きている。
というのは、今私は肉の中で生きており、私を愛しそして私のために
ご自身を引き渡された神の子の信仰の中で、私は生きている。」
>となります。「私は死んでいる」ので信仰を持ちたくても持てないのです。死んだ私に代わって、主イエスの信仰(神への従順)が私を生かしているのだ、とパウロは言っているのです
実にスカッ!とした気持ちになりました!
御言葉の真理に触れる喜び、自由さは本当に素晴らしいですね!
私のブログでもご紹介させてくださいね^^
と・・事後報告ですみません。
ハレルヤ。
同感です。
実にすばらしいみことばの一つですね。
アーメン。
>エシュコルさま
和訳は誤訳だらけですから、e-swordをうまく活用して下さい。
とても丁寧に私のような者にもわかるご説明ありがとうございます。
様々な方が様々なやり方でイエスの事を解き明かしてくださることすばらしいです。
知識においても神様のすごさを味わせていただき、本当にみことばざんまいなのだと楽しかったです。
では、また楽しみにさせていただきます。
コメントありがとうございます。
こちらこそ、宜しくどうぞ。
私は5.6年前に、辞書の引き方を教えてもらい、その後インターリニアを使いながら、コツコツ原語を調べています。
すっきりと説明してくださって感謝します。
ここではエゴーとわざわざ主語が書かれていますね。
「和訳は誤訳だらけですから、」残念ながら、それは事実のようですね。
「e-swordをうまく活用して下さい。」これも残念ながら英語がわからないので、使えません。
また時々訪問させていただいて、日本語の部分だけ読ませていただきます
★16節の「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」と「キリストを信じる信仰によって」も同じように誤訳になるのでしょうか?(新改訳)
★「私は」と主語が書かれている理由を考えてみました。「義人は信仰によって生きる」と関連して、
「律法に死んだ私」、「義と認められた私」と、「私」を強調しているのかなあと思いました。
このページから色々と黙想することが促されて感謝です。また時々訪問させていただきます。よろしくお願いします。
この世のことが忙しく、またここ数日体調も良くありません。
ご質問の件について、簡単にご説明いたします。
16節ですが、新改訳の「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって」は、やはり意訳です。原典を直訳すると、「イエスキリストの信仰を通して(でなければ)」となります。
これからも宜しくどうぞ。