Oil on Canvas

19~20世紀前半の西洋美術、日本近代美術などに興味があります。気になったことを調べつつ、メモしています。

【絵画】 『ロッテルダム、蒸気』 ポール・シニャック 1906年

2015-02-24 21:18:40 | 資料
(図版1)

artmight.com  *実物は全体的にもっと薄い色彩で構成されています。(参考:Google Arts&Culture

[タイトル]     ロッテルダム、蒸気
          (仏) / Rotterdam, Les fumées
          (英) / Steamboats, Rotterdam
[作者]       ポール・シニャック / Paul SIGNAC [1863-1935, フランス]
[年代]       1906年
[技法・材質]    油彩・カンヴァス
[サイズ(cm)]   73.0×92.0
[作品番号]     Cachin 436
[所蔵]        島根県立美術館 [島根・松江]
[見た場所]     「新印象派―光と色のドラマ Neo-Impressionism, from Light to Color」@あべのハルカス美術館 (2014.10) / @東京都美術館 (2015.2)


 2014年10月、大阪・あべのハルカス美術館。「新印象派 光と色のドラマ」にこの作品が展示されていた。以前から一度みてみたかったもの。ただ、実物を目の当たりにして、いきなり目に飛び込んくる「躍動感」に、ゾクッとした。


 グワッと、鮮やかさが迫ってくる。ここまで「動き」のある”シニャック”をこれまで見たことがない。上記の画像データでは、全体的にブルーが濃く出てしまっている。。しかし、実物の色彩は、もう少し薄いブルーで構成されていて、白い蒸気の”もくもく”感が、よりよく伝わる。


 点描といえば、シニャックの親しい友人で点描画の開拓者、ジョルジュ・スーラがまず思い浮かぶ。彼の点描作品は、時間が止まって見える。そういった印象が強い。まだ、幅広く作品を見ることができたわけでなはないが、シニャックの作品もその「止まった」傾向の作品が少なからずあるように思う。


 それらの点描作品は、パレットでなく、見る人間の目で色彩が混ざり合う。対象物を「点」で描き、補色を用いて色彩の調和を図ろうとすればするほど、科学的に計算された、静的な雰囲気を持つ。そんな印象を受ける。


 それが、画期的で魅力的な試みなことであることは周知の事実。しかし、たとえば、カミーユ・ピサロが新印象派から距離多く一つの理由になったのは、そういった静的で、感情がなくなってしまい、どこかレアリスムのような雰囲気があるからではないかとと思われる。


 しかし、この≪ロッテルダム、蒸気≫は、間違いなく「動いている」。


 1891年に、スーラが亡くなって、15年。シニャックの点描は、従来のイメージをやや変えるものに変化しているといえるのかもしれない。「点」に太さを持たせ、水面の波、蒸気の煙を通じて、「動き」を表現している。それが、全体を通じて、ロッテルダムの街を活気づかせている。≪ロッテルダム、蒸気≫には、情景がある。たくさんの”蒸気”を通じて、本来描かれていない人々の営みが見えてくるようだ。


 ここまで大きな動きのあるものは非常に珍しいのかもしれない。シニャックの姿勢がそうさせたのか、ロッテルダムという街がそうさせたのか。≪ロッテルダム、蒸気≫が示すものは、スーラからひとつ点描 (DIVISIONISM, POINITISM) を発展させた姿のひとつと言えるのかもしれない。


 シニャックの油彩作品総目録[1](モノクロ図版)で確認する限り、1900年付近から、シニャックは蒸気を描くようになり、部分的に興味があった様にはうかがえる。それらの実物にあたっていないので、はっきりとは言えないが、積極的に動きのある作品という印象はない。それにしても、なぜ、この≪ロッテルダム、蒸気≫で、いきなり「動き」が出てきたのだろう。
(図版2)
 [タイトル]     ウォータールー橋、曇り
           (仏) / Waterloo Bridge, temps gris
           (英) / Waterloo Bridge, Gray Day
 [作者]       クロード・モネ / Claude MONET [1840-1926, フランス]
 [年代]       1903年
 [技法・材質]    油彩・カンヴァス
 [サイズ(cm)]   65.1×100.0
 [作品番号]     Wildenstein 1569
 [所蔵]        ワシントン・ナショナルギャラリー [アメリカ合衆国・ワシントンDC]


© National Gallery of Art, Washington DC., Chester Dale Collection 
 
 1880年16歳のシニャックは、雑誌『ラ・ヴィ・モデルヌ』主催のクロード・モネの個展を見て、画家を志したといわれている。32年後の1912年。モネのヴェネツィア滞在期作の展覧会「ヴェネツィア」がベルネーム・ジュヌ画廊で開催された。それを見たシニャックはモネ自身に称賛する内容の書簡を送っている[3]こともよく知られている。そのことからも、シニャックの画業のスタートから、1912年までの32年間。モネの作品が、シニャックの興味の対象のひとつであり、決して小さな存在でなかったことは、あったことは想像できる。

 
 そのことから、この≪ロッテルダム、蒸気≫にしても、「川」と「橋」、船の「蒸気」、といったキーワードはモネが描いた、ロンドンのウォータールー橋、チャーリングクロス橋を連想させる。シニャックは、モネがテムズ川を描いた「ウォータール」、「チャーリング・クロス」といった連作を、どこかで見ていただろうか。


 モネがロンドンで制作した連作が公開されたのは1904年、ベルリンとパリ。特に知られているのはパリのデュラン=リュエル画廊で5月9日から6月4日まで開催された展覧会「Monet.Vues de la Tamise a Londres」[4]。現在、ワシントン・ナショナルギャラリーの≪ウォータールー橋、曇り≫もその時に発表された(No.12)。


 しかし、当時、シニャックはヴェネツィアに滞在しており、後日、モネのこれらの絵を見た直接・間接的な事実は見つからない。特徴的なものが似ていても、≪ロッテルダム、蒸気≫が、「モネの影響である」と言い切ってしまうには、画家の個性への敬意を欠いてしまう恐れも感じる。しっかりとした調査をするだけの能力や手段、資料もないので、ここでは推測もできない・・・。

 
 そのヴェネツィア滞在の2年後、1906年の4月から5月にかけて、シニャックはロッテルダムやアムステルダムを旅行して、油彩や水彩を描いた[1]。

Oude Haven en Maasbruggen 1939 そのタイトルにもあるように、描かれた場所はオランダ・ロッテルダム。左の写真は1939年のロッテルダム上空を写したもの。背景にアーチ橋が見える。これは、5連アーチになっていたマース橋(Maasbruggen)という鉄道橋であることから、シニャックは街を流れるマース川の蒸気船を描いていたということがわかる。描かれた具体的な場所は、特定されているのかわからない。 

 シニャックが描くマース橋を見ると、横に伸びる鉄道橋の直線の上にもう1本線が描かれている。橋桁を見ると明らかなように。実は、この後ろにもう1本(四角いピントラス構造の)橋があったことを示している。点描はある程度、実景をデフォルメしてしまうような印象を持っていたが、その中にあっても、シニャックは風景のディティールをしっかりカンヴァスに収めようとしていることがうかがえる。
Wikimedia Commons

 また、2本の橋のうち、アーチ状の鉄道橋はアーチの境目に橋げたを設置しており、≪ロッテルダム、蒸気≫では、やや薄目に描かれている。このことから、アーチ橋後ろにあったと推測できる。


 そのことから、少なくとも、マース橋の左側、シニャックは(写真)左上の方向から、マース川と橋を描いていたことが推測できる【*下記コメント、欄にてご指摘を頂きました、正しくは「右上」から。】。


 色彩、情景の魅力だけでなく、ヨーロッパの都市風景画を見るときの興味は、シニャックは実際どのあたりから描いたのだろうか?ということ。パリの場合、19世紀に都市計画による街並みの改造があり、それ以降大きく変化していない。日本とは異なりヨーロッパは、描かれた場所がそのまま残っている傾向が多いように思う。現在、ロッテルダムの街並みは、シニャックが見たものとはやや異なったものになっていると思われる。1940年5月10日に、ナチスによるロッテルダムの爆撃により、それらの街並みは失われてしまった。


 そういったことから、シニャックが描いた≪ロッテルダム、蒸気≫は、19世紀の産業革命以降、モネが描いたロンドンのように、ところどころで蒸気がゆらめくマース川を通じて、ロッテルダムが発展してゆく、当時の様子が感じ取れるひとつの資料といえるかもしれない。 


 ≪ロッテルダム、蒸気≫(図版1)を含めて、シニャックはロッテルダムの港の光景を場所を変えて、油彩で4枚描いている。2点は個人のコレクションになっているが、残り1枚の、一番大きい作品は、ロッテルダムのボイマンス美術館が所蔵している。

(図版3)
Paul Signac - The Port of Rotterdam - Google Art Project [タイトル]     ロッテルダムの港
            (仏) / Le port de Rotterdam
            (英) / The Port of Rotterdam
 [作者]       ポール・シニャック / Paul SIGNAC [1863-1935, フランス]
 [年代]       1907年
 [技法・材質]    油彩・カンヴァス
 [サイズ(cm)]   87.0×114.0
 [作品番号]     Cachin 448
 [所蔵]        ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館 [オランダ・ロッテルダム]

Wikimedia Commons 
 

 ≪ロッテルダム、蒸気≫(図版1)は長らくパリにあったが、島根県立美術館が、1997年に購入した。これだけのものが、国内の公立美術館が所蔵しているというのは素晴らしいことだと思う。2013年、フランスのジヴェルニー印象派美術館で開催された展覧会「Signac, les couleurs de l’eau / シニャック、水の色」に≪ロッテルダム、蒸気≫(図版1)が出品された。国内外に貸し出されている。


 ≪ロッテルダム、蒸気≫は、水辺に揺らめく蒸気船とその煙。その数の多さに、20世紀初頭のオランダ・ロッテルダムの街が生き生きと映し出されている。夕日が美しい水辺の美術館、島根県立美術館にふさわしいコレクション。今度は、いつか、島根で再会したい。


 * 現在、上野の東京都美術館で開催されている「新印象派-光と色のドラマ」展に出品されており、3月29日まで見ることができる。



 - 参考資料 -

[1] 『Signac: Catalogue raisonné de l'oeuvre peint』 Françoise Cachin, Gallimard, 2000 Cat.436,448 p10,11,135,136,276,281,376,377

 p374年表。1904年2.5-3.29までブリュッセルに滞在。Exiposition des peintres impressionnistes, a La Libre Esthetique de Bruxelles. Signac expose t toiles. 11月19日からパリに滞在。

[2] 『新印象派―光と色のドラマ Neo-Impressionism, from Light to Color』 あべのハルカス美術館、東京都美術館 2014-15年 p131 No.98

[3] 『クロード・モネ 視覚の饗宴 1940-1926』 カリン・ザーグナー TASCHEN 2010年 p184

    1912年、ヴェネツィア展を見たシニャックからモネへの手紙。

[4] 『Monet Catalogue Raisonne』Daniel Wildenstein, Wildenstein Institute, Koln, 1996 Vol.4 p1019

  巻末の展覧会リスト。


[5] France tv info. 「Signac, le pointillisme expliqué en trois (petits) points」[1 avril 2013] (2014年11月1日閲覧)


【絵画】 『林檎の木』  カミーユ・ピサロ 1896年

2014-09-19 21:24:17 | 資料
 
(図版1) 

WIKIART.org

[タイトル]    林檎の木
          (仏) / Femme et enfant dans un pre, Soleil Couchant, Eragny (La Pommes, Soleil Couchant, Eragny)
          (英) / Woman and child in the field, Sunset at Eragny (Apple Trees, Sunset, Eragny)      
[作者]      カミーユ・ピサロ / Camille PISSARRO [1830-1903]
[年代]      1896年
[技法・材質]   油彩・カンヴァス
[寸法(cm)]     81.5×66.0
[所蔵]      個人蔵
[備考]      RV 977, PDR 1132
[見た場所]   エミール・クラウスとベルギーの印象派@東京ステーションギャラリー (2013.7)

 
  ありふれたモチーフ、美しいグリーン 
 

 2013年7月、東京ステーションギャラリーの展覧会『エミール・クラウスとベルギーの印象派』で見た、とても立派なピサロの作品。1884年にピサロが移り住んだ北フランスのエラニー=シュル=エプトの風景を描いたもの。

  おそらく、この真ん中にあるのが、林檎の木。大きな人物は、手にカゴのようなものを持っており、子供か、妹か?の面倒を見ながら、何かしら仕事をしていた様子だろうか。林檎の木を中心に据えている構図だが、人物がこちらを向いているので、林檎の木と一緒に撮った写真のような雰囲気もある。


 実物は、とても細かく筆を重ねていて、林檎の木が青々としている。ピサロは1885年以降の点描期を過ぎて、細かい筆致ながら、やや印象主義的な温かみのある筆遣いに緩やかに変化していった傾向がある。この≪林檎の木≫も、光の当たり加減、木の種類などで、グリーンが多彩に変化する。それが、81.5×66センチメートルの決して小さくないカンヴァスに、敷き詰められていて、重層感があった。赤レンガの東京ステーションギャラリー(『エミール・クラウスとベルギーの印象派』)の暗めな展示室からライトを当てていることで、額の立派さが引き立った面も多少あるかもしれない。しかし、何気ない木々の風景なのに、品のような美しさを感じたのは、単にそのせいだけではない。
  
  ふたつのタイトル、ふたつの視点 
 


 この絵には2つのタイトルがある。一つは≪林檎の木≫、もう一つは英題の≪草原の女性と子ども、エラニーの夕暮れ≫というもの。


 『エミール・クラウスとベルギーの印象派』展のカタログに記載された≪林檎の木≫の英題表記は《Woman and child in the field. Sunset at Erany≫だった。実際に見た時には、その色合いから、あまり夕暮れの印象は感じられなかった。私の場合、英題を見て、はじめて夕暮れの光景だとわかった。

 ただ、図版をよく見ると、2人の人物や木の影が長く伸びているところから、太陽が低い位置にあることが想像でき、日没に近い時間帯であることがわかる。比較的新しい、2005年のヨアキム・ピサロ&スノレールの研究[2]では、林檎の木よりも、風景全体をとらえた表題の記載になっている。『エミール・クラウスとベルギーの印象派』展の英題も、これを基準にしているのだろう。


 しかし、林檎の木のことをよく知っている専門家やピサロ作品をよく見ている人以外は、なかなかこれが「林檎の木」であることは認識しづらい。当時の私も、そのような理由から、なぜ、≪林檎の木≫というタイトルになったのかが気になった。


 1939年のL・ピサロ&ヴェントゥーリの研究[1]時点での、元々のタイトルは≪林檎の木、エラニー、夕暮れ / La Pommes, Soleil Couchant, Eragny≫と両方の視点が併記されていた[1]


 ただ、何より、ピサロの構図が、カンヴァスの中央に林檎の木を捉えている。日本語のタイトルは≪林檎の木≫は、おそらく、ここからつけられたのかもしれない。


 描かれた構図でみるのか、風景全体をみるのか。見る人によって、その印象は変化するかもしれない。青々としたリンゴの木、いくつかのグリーンで描かれる夕暮れの光景。その両方ともこの作品の魅力になっている。 
  
  ピサロの自信作? 
 


 ≪林檎の木≫が描かれたは1896年、ピサロは、1~3月、6月にも短期間、9~11月と、この年のほとんどをフランス西部の都市・ルーアンに滞在している。ルーアンでは晩年の都市風景画の連作の先駆けとなる作品群を描いていたことはよく知られている。


 そのなかで、≪林檎の木≫、ピサロが8月の夏の間のエラニーに滞在したときに、描かれたものだと思われる。絵画の中の親子の服装や林檎の木の葉が青々としていること、9月にはデュラン=リュエルに買い取られたエラニーを描いた4枚の油彩画のうちの1枚であることがわかっている[2][3]


 また、ピサロはリュシアン宛(1896年9月2日)の手紙で、[3]「そのうちの3つはルーアンを描いたものよりも良い」[3]と述べていて、この時期のエラニーの描いた作品には、画家自身、ある程度の自信を持っていたことがうかがえる。実物の仕上がりから見ても、ピサロが言及した「3枚」の中に、≪林檎の木≫を含んでいる可能性が高い。


 1896年はピサロにとってルーアンの年だった。 4月26日にはルーアンの作品に関する話題の中で、リュシアン宛の手紙で「私は新印象主義から完全に解放されたのだ![2]と明確に述べている。この≪林檎の木≫も、そのような背景から、新印象主義からの自分の画風を取り戻したピサロの自信を感じることができるかもしれない。


 実際の作品も、筆致は細かいものの、印象派らしい優しさ、温かみのようなものを私は感じる。まだ、「傑作」という言葉を使えるほど、多くの作品に当たって比較わけではないが、ピサロが印象派を超えた画風として新印象派を模索し、その中で10年近く続いた悩みや障害を乗り越えた、画家の農村風景画のひとつの収穫がこの絵にはあるように感じられた。
  
  なかなかお目にかかれない 
 


 ≪林檎の木≫は、国内のピサロや印象派関連の展覧会カタログでは、見たことがない。展示された記録をさかのぼると、1896年から、1915年にミネアポリス美術館、1967年にフィルブルック美術館、1988年にニューヨーク、サザビーズと、アメリカで展示された。日本では、2010年にサントリーミュージアム[天保山]で開催された『印象派とモダンアート』展。2012年の『カミーユ・ピサロと印象派、永遠の近代』(ただし、兵庫県立美術館のみ、「特別出品」のため、カタログには掲載されていない)。2013年の『エミール・クラウスとベルギーの印象派』展。

 2013年時点で、プライベート・コレクションになっている。おそらく日本にあるものだと思われるが、もう、なかなかお目にかかれない作品かもしれない。多彩なグリーンで、美しく青々とした林檎の木。もうすこし先の未来で、また再会したい。

 
- 参考資料 -

[1] 『Camille Pissarro son Art- son Oeuvre: A Catalogue Raisonne』
    Ludovic Rodo Pissarro / Lionello Venturi, Alan Wofsy Fine Arts, 1989 
No.977 「La Pommes, Soleil Couchant, Eragny」

[2] 『Pissarro: Critical Catalogue of Paintings』
    Joachim Pissarro / Claire Durand-Ruel Snollaerts,  Skira / Wildenstein, 2005 [Vol.3] p714,715
    No.1132 「Femme et enfant dans un pre, Soleil Couchant, Eragny」

[3] 『Camille Pissarro : letters to his son Lucien』 Camille Pissarro; John Rewald; Lionel Abel; Lucien Pissarro, New York : Pantheon Books 1943 p287,288,p293,294

 ピサロは息子リュシアンに宛てた1896年4月25日の手紙では、ルーアンに関する作品の話題の中で「I am completely liberated from neoimpressionism!」とはっきりと述べている。

 また、同年9月2日に手紙では、その一部に、画家が≪林檎の木≫を含むと思われる4点の作品に言及している。

 
 My dear Lucien,

 I am preparing to go to Rouen, providing, that is, that Durand-Ruel grants me the necessary funds. I am very anxious to know whether he will want to take the four pictures of Eragny, three of which seem to me better than the Rouen paintings. It is true that the motifs are of green trees and that the general tone is rather grave and restrained, and the collectors don't like anything with a grave note.   [PARIS, SEPTEMBER 2, 1896]


 リュシアンへ。

 私は、ルーアンに行く準備をしているよ。必要な資金を提供をしてくれることを、デュラン=リュエルは承諾してくれている。
エラニーを描いた4枚の絵を、彼が購入してくれるかどうか、私はとても心配なんだ。そのうちの3つはルーアンを描いたものよりも良いものだと思うんだ。しかし、モチーフは緑の木でありふれた色調なんだ。そのことは、かなり重大で、抑制的なんだけど、実際、コレクターはたちはこの重大な特徴について、何一つ好まないんだよ。 [1896年、9月2日、パリ]


  *いろいろ悩みながら訳しては見ましたが、恥ずかしながら、文法・単語の選択など、かなり怪しいレベルの英訳に仕上がっております。その点ご留意を、または、ご指摘をいただければと思います。

[4] 『エミール・クラウスとベルギーの印象派』 東京ステーションギャラリー、ほか 2013年 p92 No.40 「林檎の木」
 

【絵画】 『ブラン氏の肖像』 エドゥアール・マネ, 1879年頃

2014-08-02 08:26:25 | 資料
 
(図版1) 
Édouard Manet - Portrait of Monsieur Brun - Google Art Project
Wikimedia Commons (Google Art Project)

[タイトル]   ブラン氏の肖像
         (仏)/ Portrait de Monsieur Brun
        (英)/ Portrait of Monsieur Brun
[作者]     エドゥアール・マネ /Edouard MANET [1832-1883]
[年代]     1879年
[技法・材質]  油彩・カンヴァス
[寸法(cm)]   194.3×126.0
[所蔵]     国立西洋美術館 [東京・上野]
[備考]     旧松方コレクション、Rouart/Wildenstein 326、Edgar Degas
[見た場所]   「モネ、風景をみる眼―19世紀フランス風景画の革新」(参考出品)
         @国立西洋美術館 (2013.12, 2014.1, 2014.3)
         国立西洋美術館・常設展 (2014.5, 2014.7)


 2013年12月。やっと出会えた。1年前の2012年の12月、国立西洋美術館の常設展にあるはずのこの作品は、そこになかった。翌年の4月の常設展にもなかった。2013年に開催されたマネの海外巡回展「Manet: Portraying Life」(*)のため海外に貸し出し中だと分かったのはもう少し後のこと。国立西洋美術館の《ブラン氏の肖像》、ブリヂストン美術館の《自画像》、2013年の前半は、何故か、マネは見れない。そんな感覚があった。

 2013年末、国立西洋美術館の展覧会「モネ、風景をみる眼」で「参考出品」という形で展示されていて、初めて見ることができた。

 
 この絵の第一印象は、想像以上に、大きい。。その表情は「かっこいい」のだろうか?「かわいい」のだろうか?。それとも、「おもしろい」のだろうか?マネが描くブラン氏の表情は、見る人によってその印象が変わるのかもしれない。私の中では、ちょっとお茶目に見えて、それでも、どこか威厳を保とうと、背伸びしているおじさん。そんな風に見える。思わす笑ってしまいそうになる。どこか憎めない(憎む必要はないのだが・・・)、愛着を感じる。


 マネは印象派の画家たちに慕われながらも、印象派展には出品しなかったことから、印象派グループの画家とはみなされていない。しかし、この作品では、背景の描写を見ると、木の葉や道にさす光の捉え方は、まさにクロード・モネのような印象主義的なものになっている。
 
(図版2)
Manet Emilie Ambre as Carmen [タイトル]   カルメンに扮したエミリー・アンブルの肖像
         (仏)/ Portrail d'Emilie Ambre dans le rôle de Carmen
         (英)/ Portrait of Emilie Ambre in role of Carmen (Portrait of Émilie Ambre as Carmen)
 [作者]     エドゥアール・マネ / Edouard MANET [1832-1883]
 [年代]     1880年
 [技法・材質]  油彩・カンヴァス
 [寸法(cm)]    92.4×73.5
 [所蔵]     フィラデルフィア美術館
         [アメリカ合衆国・ペンシルベニア州・フィラデルフィア]
 [備考]     Rouart/Wildenstein 334


 《ブラン氏の肖像》(図版1)が描かれた背景は、国立西洋美術館の「作品解説」のとおり。療養中のパリ郊外のベルビューに滞在した。そこで知り合ったとされるオペラ歌手のエミリー・アンブル。モデルのアルマン・ブラン氏は彼女の友人であったことからマネと知り合ったようだ。


Wikimedia Commons 

 
 《ブラン氏の肖像》は、エドガー・ドガが生涯所有していた。よくこんなに大きな絵を買ったものだなぁと。ドガの死後、1918年3月に「第1回売り立て」(No.78)があり、ジョルジュ・プティ画廊が31000フランで購入[2]。1923年には松方幸次郎が、デンマーク人コレクターのウィルヘルム・ハンセンのコレクションを買い取った。モネ7点のほか、コロー、ピサロ、ドガ、など約30点[4]の中に、マネの《ブラン氏の肖像》もあり、この絵には80,000フランという価格がついていたという[2]。


 そして、最近、国立西洋美術館でこの絵を見てふと気づいたのだが、《ブラン氏の肖像》の額の下のほうには、「EDOUARD MANET」の文字とともに、「65」の数字が打ちつけられていた。これが何を意味する数字なのか?いまとても気になっている。この額がいつこの絵にかけられたのか?にも通ずるところでもある。国立西洋美術館の作品紹介のページの文献歴に「Madsen, Karl. Malerisamlingen Ordrupgaard: Wilhelm Hansens Samling: Malerier, Akvareller, Pasteller, Tegninger af franske Kunstnere, Copenhagen, 1918, p. 28, no. 65.」という記載がある。おそらく、カール・マドセンという人が1918年にハンセンのコレクションをまとめた書籍だと考えられる。ハンセンはNo.61からNo.69までの9点のマネを所蔵していたことがわかる。残念ながら図版はなかったが、その65番目に《ブラン氏の肖像》の表記がある[8]。ひとつの想像としては、松方幸次郎の前の所有者のウィルヘルム・ハンセンが自身のコレクションに作品番号を振っていた可能性もあるだろうか。


 以前、この絵の歴史をさかのぼるうちに知ったことだが、国立西洋美術館の作品解説で指摘されている通り、《ブラン氏の肖像》(図版1)はブラン氏の手に渡らなかったという。なぜだろうと不思議に思っていたが、最近その意味がようやく分かった。モデルのブラン氏のために、小さな作品を別に描いていた。

 
(図版3)
Édouard manet - Portrait de Monsieur Brun. [タイトル]    ブラン氏の肖像
          (仏)/ Portrait de Monsieur Brun
          (英)/ Portrait of Monsieur Brun
 [作者]     エドゥアール・マネ / Edouard MANET [1832-1883]
 [年代]     1880年
 [技法・材質]  油彩・カンヴァス
 [寸法(cm)]   55.0×35.5
 [所蔵]     個人蔵
 [備考]     Rouart/Wildenstein 327 、Sotheby's (New York, 2011.05.03)
 [出典]     Wikimedia Commons

 2011年5月、ロンドンのサザビーズで開催された「IMPRESSIONIST & MODERN ART EVENING SALE」で540万2500ドル(約4億3460万円:*2011年5月平均、1ドル81円計算)という値がついたもう1枚の《ブラン氏の肖像》(図版3)。大きさは数字上では、縦が半分、横が3分の1くらいに小さくなった作品。同じように見えるが、印象はちがう。小さいほうの《ブラン氏の肖像》(図版3)は大きいほう(図版1)と比べて、若干、横幅があるせいか貫録・威厳が出て、やや落ち着いた印象を受ける。

 余談だが、サザビーズの「Catalogue Note」の参考図版に国立西洋美術館の《ブラン氏の肖像》(図版1)が掲載されているが、所蔵先が「ブリヂストン美術館、東京」となっている。1975年に出版されたマネのカタログ・レゾネを参照したと思われる。国立西洋美術館の作品ページによると、《ブラン氏の肖像》(図版1)は、1953年からブリヂストン美術館に寄託されていて、1984年に松方幸次郎氏の遺族によって、国立西洋美術館に寄贈された。

 

 なぜ、2枚描かれたのだろうという興味がわく。ひとつ考えられるのは、 個人のために、マネが194.3×126.0の《ブラン氏の肖像》(図版1)の大きさを絵を描いたというのは少し引っかかる。ブラン氏の友人を描いた《カルメンに扮したエミリー・アンブルの肖像》(図版2)にしても92.4×73.5と1メートルに満たない。

 想像にすぎないが、もしかしたら、マネは、もっと大きな場所へ展示を考えていたのではないか。たとえば、サロンとか。


 ただ、サザビーズの解説の指摘のほうが現実的かもしれない。マネの肖像画は目に見える姿ではなく、モデルの特徴を描くことに特化している印象がたしかにある。(モデルを喜ばせるの要素を考慮しない)率直な表現手法で、等身大以上の大きさで”バーン”と描かれてしまったとすると・・・。モデルのブラン氏に気に入られなかったということも想像できる。


 さらに、2010年に三菱一号館美術館で開催された展覧会『マネとモダンパリ』のカタログの指摘にある「サインがない」ということから未完の作品ではないかという可能性も興味深い。

 
 少なくとも、マネの死後までアトリエにあったものであることからも、国立西洋美術館の《ブラン氏の肖像》(図版1)のほうが、マネが見た率直なブラン氏が描かれているといえるかもしれない。


 - 参考資料 -

[1] 『マネの生涯』 アンリ・ペリュショ 講談社 1983 p268-369

[2] 『巴里・印象派・日本 - ”開拓者”たちの真実』 吉川節子 日本経済新聞社 p194-201

[3] 『国立西洋美術館公式ガイドブック』 淡交社 2009 p33

[4] 『幻の美術館 甦る松方コレクション』石田修大 丸善ライブラリー 1996 p79

[5] 『フランス絵画の19世紀』 島根県立美術館、横浜美術館 2009 No.60 「カルメンに扮したエミリーアンブルの肖像」p156,157

[6] 『マネとモダン・パリ』 三菱一号館美術館 2010 No.96 p218,219

[7] 『Edouard Manet Catalogue Raisonne』 Denis Rouart/ Daniel Wildenstein
    La Bibliotheque des Arts, 1975 No.326,327,334 p254,255,258,259

[8] 『Wilhelm Hansens Samling: Malerier, Akvareller, Pasteller, Tegninger af franske Kunstnere』Madsen, Karl. Malerisamlingen Ordrupgaard:, Copenhagen, 1918, p. 28, no. 65



 - 「Manet: Portraying Life」(*) -

   2012.9.13-2013.1.13 Toledo Museum of Art , Ohio
   2013.1.26-2013.4.14 Royal Academy of Arts , London

 2012年から2013年にかけて開催された、マネの人物画の展覧会「Manet: Portraying Life」。アメリカ合衆国・オハイオ州のトリード美術館とロンドンのロイヤルアカデミー・オブ・アーツを巡回。

 有名な作品がこぞって出品された。それ以外で、この記事や日本に関係があるところだと、《カルメンに扮したエミリーアンブルの肖像》(図版2)やブリヂストン美術館の《自画像》[1878-79年頃]そして、国立西洋美術館の《ブラン氏の肖像》が出品。日本にも巡回してほしかった・・・。


◆ 《Toledo museum lone U.S. host for exhibit of Manet’s portraits》 (Columbus Dispatch, 2012.10.14)

 トリード美術館があるオハイオ州の地元紙「コロンバス・ディスパッチ」に掲載された展覧会の記事。《ブラン氏の肖像》の写真がトップでバシッと載っている。左にあるのは《クレマンソーの肖像》というのもすごい。記事の左の「View Slideshow」から展示風景を見ることができる。《ブラン氏の肖像》は2枚も。他の作品が権利の関係で写真撮影がNGだった?なんてことでなければ、ブラン氏はオハイオの人にちょっと愛されていた?

◆《Manet: Portraying Life – review》 (The Guardian, 2013.1.21)

 ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツを見たガーディアン紙の記事。《ブラン氏》の顔を「blancmange-faced」と表現しているのが面白い。なるほど。

【絵画】 『エプト河の釣人たち』  クロード・モネ 1887年

2014-04-13 08:47:23 | 資料
 


WIKIART.org

[タイトル]   エプト河の釣人たち
          (仏)/ Pecheuse a la ligne au bord de l'Epte
          (英)/ Anglers on the Bank of the Epte (Woman fishing on the banks of the river Epte)

[作者]     クロード・モネ/ Claude MONET [1840-1926]
[年代]     1887年
[技法・材質]  油彩・カンヴァス
[寸法(cm)]   81.0×100.0
[所蔵]     個人蔵 [国立西洋美術館へ寄託]
[備考]     Wildenstein 1134
[見た場所]   国立西洋美術館・常設展 (2013.4, 2014.5)
          「モネ、風景を見る眼-19世紀フランス風景画の革新」[No.58]
          @ポーラ美術館 (2013.8)、@国立西洋美術館 (2013.12, 2014.1, 2014.3) 


 
  背景の色彩、水面による反射 
 


 モネが1887年に描いたとされる自宅があったジヴェルニーのエプト川のほとりを描いた作品。のどかな情景。

 2013-14年にかけて開催された「モネ、風景を見る眼」展で久しぶりにこの絵を見たとき、「あれ、こんなかんじだったけ?」と。水面や背景の空がピンクの色彩にはじめて気づいた。以前、常設展で見たときは壁が白だったせいで、ほとんど印象に残っていなかった。企画展ということで、やや暗い館内のなかで、作品に照明を当てていること、作品が架かる壁が水色だったこと、作品が持つ色彩を際立たせたのかもしれない。


 描かれた時間帯が正確にはわからないが、このピンク色から、おそらく、これから夕暮れではないかと想像する。


 正面を見ると、岸辺に茂る青々とした草。その力強い線に生命力を感じる。また、釣竿は、優美で繊細な1本の線で描かれている。釣りをしているのは、モネの娘のシュザンヌ・オシュデ[1864-1899]だと考えられている[3][4]。全体的に、とてもさわやかな印象を受ける。

 
 画家は≪ボート遊び≫を描いたもの、≪ポプラ≫、≪睡蓮≫などの連作で、”水面による反射”や”水の中の世界”に興味を持つようになってゆく。それらが描かれていない1887年の段階で、≪エプト河の釣り人たち≫のはこれらの兆候のはじまりに位置づけられる作品なのかもしれない。

 
  1889年という年記について 
 


 この画像データは若干上下がトリミングされている。実際の絵の右下には、署名と年記がなされている。展示によると、描かれた年は1887年とされているが、なぜか、実際の作品には「Claude Monet 89」と記載されていた[1]

 1889年に描かれたのか?。気になって、後日その理由を調べてみると・・・、どうも、この絵が描かれたときは年記がされてなかったようなのだ。


 ダニエル・ウィルデンシュタインのカタログによると。1920年に、モネが正確な日付を覚えていない中で、「89」と付け加えられたとある。≪エプト河の釣り人たち≫は同年に、ベルネームジュヌ画廊とデュラン=リュエル画廊が共同購入している[4]。これは憶測だが、その際に記入を求められたのかもしれない。


 そして、現在、1887年制作と考えられているのは、とてもわかりやすい手がかりがあったからだろう。『大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産』展のカタログでは、シュザンヌの服装がひとつの決め手になっているという指摘があった[3]。≪ジヴェルニーの林、イーゼルに向かうブランシュ・オシュデと本を読む シュザンヌ・オシュデ≫[1887年 ロサンゼルス・カウンティ美術館]やジュサンヌの全身像を描いた≪散歩する人≫[1887年 メトロポリタン美術館]で描かれたものと同様の服装であることがわかる。

 
(図版2)
Monet The stroller (Suzanne Hoschede) [タイトル]  散歩
          (仏)/ La Promeneuse
          (英)/ Taking a Walk (Suzanne Hoschede, The stroller)
 [作者]    クロード・モネ/ Claude MONET [1840-1926]
 [年代]    1887年
 [技法・材質] 油彩・カンヴァス
 [寸法(cm)]   100.0×70.0
 [所蔵]    メトロポリタン美術館 [アメリカ合衆国・ニューヨーク]
 [備考]    Wildenstein 1133   

 Wikimedia Commons
 
 


 モネは1887年にジヴェルニーの自宅付近で、彼の子供たちや、ジヴェルニーの自宅近くのエプト川とポプラの木をモチーフにした風景画をいくつも描いている。また、背景の(おそらくポプラの)木の葉が青々としている時期などからも、1887年にモネが娘たちを描いた作品群と同じ時期の作品として、分類できるのかもしれない。

 
  パリ講和会議 
 



 ≪エプト河の釣人たち≫は、年記がされた1920年のうちに日本人の松井慶四郎[1868-1946]という人物が購入している[2][3]。松井は当時(1915年から)在フランス日本大使を務めていた外交官で、前年の1919年には第一次世界大戦の戦後処理として、パリ講和会議に日本の全権大使として出席した。松井は≪エプト河の釣人たち≫を購入した1920年に男爵の称号を得ており、ウィルデンシュタインのカタログには「Baron Matsui」の名で記載されている[3]

 パリ講和会議には、松井の上席にあたる日本の首席全権大使として西園寺公望[1849-1940]が出席している。西園寺のパリ留学時代の親友で、当時のフランスの首相はジョルジュ・クレマンソー[1841-1929]も出席している。クレマンソーは、モネ晩年期の友人で、≪睡蓮≫の作品群をオランジュリー美術館へと、オーダーした人物としても知られている。

 実際に彼らが親しい間柄だったのかどうかはわからない。ただ、歴史の表舞台にいた人物たちの会話の中に、「モネ」という名前が聞こえてきそうで興味深い。松井は、どのようなきっかけでモネに興味を持ったのだろう。≪エプト河の釣人たち≫は、1919年のパリ講和会議後に購入された。

 
  日本へ。寄託作品であること 
 


 
 その後、≪エプト河の釣人たち≫は、明治から昭和にかけての実業家、今村繁三[1877-1956]のコレクションに入っている[2]。今村にとって、松井は叔母の夫にあたる。現在は別の個人の所有物で、1967年から国立西洋美術館に寄託展示されている。


 記録上、もう30年以上国立西洋美術館に所蔵されていることになっている。ただあくまで、個人の寄託作品なので、今後も常設展示される保証はない。そう思うと、いつもこの≪エプト河の釣人たち≫と≪柳≫を前にすると、その情景に目を奪われながらも。いつも、「また、会えますように」という気持ちになる。


 

- 参考資料 -

[1] 『モネ、風景を見る眼-19世紀フランス風景画の革新』 ポーラ美術館、国立西洋美術館 2013-2014 No.58 p109-111

[2] 『西洋絵画の到来 -日本人を魅了したモネ、ルノワール、セザンヌなど-』 宮崎克己 日本経済新聞出版社 2007 p294

   ≪エプト河の釣人たち≫の購入者は駐仏大使の松井慶四郎であることがわかる記載がある。

[3] 『大回顧展モネ 印象派の巨匠、その遺産』 国立新美術館 2007 No.41 p95

  釣りをしている人物はその服装からジュザンヌ・オシュデであると指摘。

[4] 『Monet Catalogue Raisonne』Daniel Wildenstein, Wildenstein Institute, Koln, 1996 Voi.3 No.1133,1134 p429,430

  「1889年」という年記に関する経緯が記載されている。

[5] 『世界の印象派 光の讃美』 松坂屋美術館 1991 No.14  





【展覧会】 シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界 @Bunkamura

2014-02-15 20:08:52 | 展覧会・美術館・博物館
渋谷。Bunkamura。首都圏を覆った大雪が収束して間もなく。シャヴァンヌ展を見に。ピュヴィ・ド・シャヴァンヌという画家に関して、印象派画家たちのかかわりの中で、わずかに名前が出てくる程度で、8月にポーラ美術館の展覧会「モネ、風景を見る眼」で≪貧しき漁夫≫で実物を見るまで、ほとんど知らなかった。

 10月、「ぶらぶら美術館・博物館」(BS日テレ)で大原美術館の特集をしていて、シャヴァンヌと≪幻想≫という作品と画家について少し解説があって、フランスではとても有名な国民的画家だと知る。

 印象派と同時代の画家だけに、少し気になり始めたが・・・。美術全般に疎いので、正直、神話画は読み取りが苦手で、とっつきづらい印象がどうしてもある。この展覧会に行くかは、12月あたりから迷っていた。2014年、今年に入って、「美の巨人たち」(TV TOKYO)、「日曜美術館」(NHK)などで、暇を見つけて、予習。

 「美の巨人たち」、「日曜美術館」など”予習”でわかってきたのは、どうも従来の神話画ではなく「誰が見てもわかるように」という観点で描かれているという部分。少し興味をもった。

 そして、半分途中で読みかけになっている本『黒衣の女 ベルト・モリゾ』にも、シャヴァンヌはマネやモリゾの友達として登場する。そういった印象派と同時代の画家だったり、フランスでは有名な画家でもある、というちょっとミーハー的な部分が・・・。今は理解できないことが多くても、後々の記憶の財産になるかもしれないと、期待して。

 
 Bunkamura ザ・ミュージアムは初めてで、地下にあった。途中、中庭のようなカフェテラスがあって、上から日差しが入ってくるので地下にいることを感じさせない。

 
  第1章 最初の壁画装飾と初期作品 1850年代 
 


8.『自画像』 1857年 プティ・パレ美術館、パリ、フランス

 会場に入るとすぐ見えてくる、やや斜めを向いている自画像。黒ベースでところどころ茶色ががった、「闇」にちかい暗い背景。左半分がその「闇」に隠れているが、かすかに輪郭がわかるほど絶妙に描かれていた。専門家ではないので詳しくはわからないが、かなり技術レベルが高いのではないかと思わせる1枚。名刺代わりといったところだろうか。


 
  第2章 公共建築の壁画装飾へ アミアン・ピカルディ美術館 1860年代 
 



18.『瞑想』 1867年 個人蔵

 雰囲気としては「めまい」という印象で、ちょっと疲れているのかなぁと感じてしまう。そういった弱さ、はかなさのようなものを感じる。加えて、暗めの背景と対照的に、女神の白い衣服が神秘性を帯びて見える。

 女性彫刻家のマリー=ノエミ・カディオ[クロード・ヴィニョン夫人, 1832-1888]邸のために描かれた壁面装飾4点のうちの1つ≪瞑想≫の別バージョン。


19.『幻想』 1886-87 個人蔵

 大原美術館の≪幻想≫と同じ構図で、かなり小さいバージョン。描き方はちょっと違て、「塗ってます」というのがわかる感じ。


16.『幻想』 1866年 大原美術館

 とても大きく立派な作品で、劇的な構図。当初、ブルーがとても鮮やかな印象を持っていたが、実際に見てみると、色彩のトーンをかなり抑えめに描かれて、図版で見るよりも暗めの印象。

 クロード・ヴィニョン邸のために描かれた壁面装飾4点のうちの1つだという。残り3点の≪警戒≫、≪瞑想≫、≪歴史≫はともにオルセー美術館が所蔵しているというのが何ともすごい・・・。


 
  第3章 アルカディアの創造 リヨン美術館の壁画装飾へ 1870-80年代 
 


35.『諸芸術とミューズたちの集う聖なる森』1884-89年頃 シカゴ美術館

 リヨン美術館の壁画装飾の縮小版。穏やかで優しさを感じる光景。広々とした舞台に余裕をもって人物が配置されているので、どこか落ち着いて、ほんわかする。当時のパリって、現代の東京もだけど、近代都市化でこんな余裕を持ったスペースはなかったことを考えると、なおさらそう感じる。

 
28.『聖ジュヌヴィエーヴの幼少期』 1875年頃 島根県立美術館

 パンテオン(パリ)の壁画装飾として描かれている同作品の準備のための下絵。はっきりと表情が描かれているわけではないが、安らぎに満ちた佇まいの聖ジュヌヴィエーヴ。彼女を中心に、周囲の人物たちによるX字のような構図。これって、十字架のようにも見えてくる。

 
  第4章 アルカディアの広がり パリ市庁舎の装飾と日本への影響 
 


47.『メロンや桃などの果物と白い皿のある生物』 個人蔵

 パステル画。背景が暗く、全体的に明るさを抑えた色彩。果物の曲線が美しい。シャヴァンヌは立体を強調しない表現で描かれた作品が多いが、≪自画像≫と同じように、シンプルな静物画を見ても、確かな技術を持っていることがわかる。


 
  展覧会の感想 
 


 シャヴァンヌ展のキーワードに「アルカディア」という言葉が出てくる。ギリシャの地名であり、ここでは、「理想郷」を示す言葉だという。同時期の印象派画家、カミーユ・ピサロはこの「アルカディア」を農村の生活に見ていたことを思い出した。画家たちは、なぜ「アルカディア」を描いたのだろうと。


 19世紀後半のパリは、普仏戦争、パリ・コミューンといった戦争による荒廃、オスマンの都市改造や近代化の波で、生活環境が目まぐるしく変化する。そのなかで忘れ去られてしまったもの。ピサロとは違った形で、シャヴァンヌもまた、絵画表現を通じて、心の拠り所を探していたのかもしれない。

 ≪諸芸術とミューズたちの集う聖なる森≫に代表されるいくつかの作品では、「もや」がかかっていて柔らかく、写実的ではない表現がある。あえて写実的に描かないことで、誰もがその世界に入っていきやすくなるというか、そこに自分を重ねられるという効果もあるのかもしれない。そして、「もや」のような柔らかく抑えられた”甘さ控えめ”の色彩表現が、「現実」と「理想郷」とのフィルターの役割を果たしているようにも見えた。


 シャヴァンヌはどの派にも属さないといわれているが、象徴主義に近いという気もする。アルフォンス・ミュシャも晩年は、祖国愛や平和を願うメッセージのある作品を描いていたことを思い出した。画風は異なるが、雰囲気は似ているかもしれない。


 
 シャヴァンヌの代表的な作品は、リヨン美術館、パリ市庁舎、パンテオン(パリ)などに描かれた壁画装飾といわれている。「シャヴァンヌ展」では、画家自身が、それらを展示するための「絵画として再構成(縮小)したもの」、「準備段階の習作」、などが今回の展覧会に多く出品されている。

 
 オリジナルを目にしているフランスの美術好きの人にとっては、より興味深い展示ではないかと思う。その意味では、印象派やフランスの近代美術を知っていく中で、後々、貴重なものを見たのではないかと思えるような気もしている。「シャヴァンヌ展」のおかげで、今後どこかでシャヴァンヌの絵を見たら、以前よりも身近に感じることができそうだ。


 あとは、印象派や同時代の画家たちとの関連性がわかるとより魅力的だったかもしれない。印象派の流れでシャヴァンヌが登場するのは、エドゥアール・マネの友人として。そして、マネを通じて、知り合ったベルト・モリゾとも友人でもあった。また、マネの≪オランピア≫国家寄贈運動で、印象派の画家たちとともにシャヴァンヌもその名を連ねている。もうひとつは、ルノワールのモデル(恋人?)だったシュザンヌ・ヴァラドンがシャヴァンヌの絵画のモデル(恋人?)だった時期があるということ。


 また、今後、中心に見ている印象派の作品と比較してみたり、同時代の文献の中に出てくるシャヴァンヌの記述に関して、「こんな感じの作品だった」という、より具体的にイメージを持てるはず。その意味で、今回のシャヴァンヌ展が、これからの財産になってくれるとおもう。

 
 [展覧会] シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界
 [場所]  Bunkamura ザ・ミュージアム [東京・渋谷]
 [期間]  2014年1月2日(木)~2014年3月9日(日)*会期終了
 [入館料]  1,400円(一般)
 [巡回]  島根県立美術館 2014年3月20日(木)~6月16日(月) 


 「シャヴァンヌ展」は島根県立美術館に巡回。島根展では「モネ、風景を見る眼」で展示されていた≪貧しき漁夫≫(国立西洋美術館)が展示される。しかも、講演が充実してる。閉館時間が日没基準。美しい夕陽を見ることができる美術館らしくて、ステキだ。いつか行けるかな。

 
 -メディア-

◆ 「シャヴァンヌ展 水辺のアルカディア ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界」 Bunkamuraザ・ミュージアム

 監修者のエメ・ブラウン・プライス氏がシャヴァンヌを紹介するインタビュー動画があります。

◆ 日曜美術館 「世紀末 祈りの理想郷 ~ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ~」[NHK]

◆ 美の巨人たち 「ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ ≪諸芸術とミューズたちの集う聖なる森≫」 [TV TOKYO]