狐・狸・祭

フラメンコの故郷よりマイペースに発信、カンタオーラ小里彩のブログです

ディエゴの思い出

2016年10月15日 02時16分37秒 | 日記
寄り道をして、ようやく昨日ヘレスに帰ってきました。遅くなりましたが、ディエゴ・デ・ラ・マルガラのクルシージョでは全国5都市、合計11日間たくさんの方にご参加いただき本当にありがとうございました。受講者のみなさんからいただいた暖かいメッセージの数々も大きな励みとなりました。ディエゴとみなさんと過ごせた長いようで短かった日々。宝物になりました。また精進しますのでどうぞよろしくお願いします!

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クルシージョ期間中、クラスでエストゥレマドゥーラのブレリアを歌ったことがあった。ディエゴは笑った。なるべく色々なタイプのレトラを、と思ってない知恵を絞りながらの苦肉の策だったので、「変だったかな」と尋ねると、「そうじゃないよ。歌が変だったんじゃなくて昔のことを思い出して・・・・」と遠い記憶を探るように語ってくれた。

物心ついた頃から家族内で、地域内で踊っていたディエゴだが、その奇才ぶりは幼少のみぎりから顕著で常に一目おかれていたという。ある時など家で寝ていると夜中にもかかわらずドンドンと戸をたたく音で目覚める。「ルイサ、子供を呼んでくれ」と近所のアーティスト連。当時ボデガを中心に経済的に潤っていたヘレスには、フラメンコのフィエスタやフエルガも盛んに行われていた。「明日学校だし、もう寝ているから起こさないでほしい」という母の声もむなしく、「セニョリートたちがディエゴが来ないならフィエスタはなしだと言っているんだ。何とか頼む!」と仕事ほしさに必死の形相の仲間を前になすすべもなかった。子供時代のディエゴにとってフィエスタの思い出といえば「眠かったのを我慢して呼ばれたら踊ること」。

やはり名高い踊り手だった母ルイサに「踊りはあんたが教えたのか?」と皆一様に尋ねたそうだが、10人の子持ちの母は「この私にいつそんな暇があるのか逆に教えてほしい!」と呆れて笑った。子供のうちからフィエスタで引っ張りだこだったディエゴは大家族の家計をずいぶん助けた。ギャラはそのまま母に渡し、自分は早く自由の身になって同じ年頃の友達と遊びに行きたいとそればかり望んでいたそうだ。

それでもディエゴの噂はマドリッドまで届き、70年代黄金時代といわれたフラメンコシーンでもその名を轟かせる事になる。当時商業的にもっとも成功していた歌い手の一人フアニート・バルデラマをして「現代のフラメンコ界には3人の神童がいる。アルヘシラスのパコ・デ・ルシア、サン・フェルナンドのカマロン・デ・ラ・イスラ、そしてヘレスのディエゴ・デ・ラ・マルガラだ」といわしめたという。闘牛士クーロ・ロメーロがディエゴの踊りを一目見たくて劇場に足を運んだ話、マノロ・カラコールが彼の踊りのあまりのすばらしさに興奮してグラスを床にたたきつけ、ガラスの破片が粉々に飛び散ったのが恐ろしく「自分がなにをしたというのだろう」とすくみ上がった話。ディエゴの口からぽつりぽつりと語られる当時の思い出話は思わず身を乗り出さずにいられない興味深い逸話ばかりだった。

ある時、エストレマドゥーラの女性歌手マレルと共演する事になった。歌を聴いてびっくり、ブレリアといえどヘレスのコンパスとはかけ離れたハレオのリズムは初めて耳にするものだった。全身を耳にして立ち上がると、椅子が高すぎて足がつりそうになってしまった。マレルはすばらしい人だったそうだが、「お母さん僕もういやだ、ヘレスに帰りたい」と泣きついてマドリッドを後にしたという。

自分は苦労したからこそ3人の我が子には踊ることを一度も強要したことがないというディエゴ。巨匠のほろ苦い子供時代の思い出に何だか胸の奥がツンとした。



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