河辺のブログ

正しいことだけが正しいわけじゃない

(無題)

2009-05-07 00:35:14 | Weblog
希望を捨てる勇気 - 池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f12938eaad206d10b7629456f0a051e

サヨナナ:何もかもについて事細かにルールを決めるしかない
http://replica-love.jp/sayonana/archives/000708.html

404 Blog Not Found:ある種のネト充やオタクたちが決して「リア充」にはなれない理由
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51202331.html

最近、少し考えさせられた上記のブログエントリーをまず張ってから、この文章の書き出しを考えたいと思う。



生きてるのはつまらない。いきなりな書き出しであれだけれど、今の時代を生きる20代の人間として、確かにそういう感覚はある。そして、僕より年齢の低い人たちも、気づいているにせよいないにせよ、そういう感覚を背負っているんじゃないかと僕は感じている。

僕の場合、どうしても、語る切り口はハロプロのことからとなる。ハロプロは、ある観点から見れば、ある時点から「つまらなく」なる一方だった。もちろん、今なおハロプロを愛している人たちもいることも、僕はわかっているが。

その過程の中で、いろんな人たちの、いろんな場合を見て来た。他のアイドルに目を向け始める人、過ぎ去った「よきハロプロ」と今を比べ、愚痴を言うだけになってしまった人、何も言わずに離れていった人、改心したかのように、今一度ハロプロを肯定する道に戻った人、皆それぞれだ。



論理の飛躍と思われるだろうが、僕にとって、そのようなハロプロの「衰退」は、宮台真司氏のいう「共同体の崩壊」や、斎藤環氏のいう「大きな物語の消失」と共通するものがあると感じられる。実際、僕はずっと、ハロプロの流れと社会の流れとに通底する物があるような、そんな見方をずっとしてきた。

つまり、「若者も大人も年寄りも混じって構成される身近な共同体」がどんどん崩れ、かつ「若者は若者らしく、大人は大人らしく、年寄りは年寄りらしく」という社会の中での役割の通念も崩れ、「若者は勉強を頑張って大人になり、大人は仕事に邁進してお金を儲ければ、老人になったとき安楽に暮らせる」という社会の一般的なモデルも崩れて、みんながバラバラの個人になり、他人との連帯を見いだせず、不安に苛まれたり、息苦しくなったりしていく、そういうことだ。



いい時代になった、と言えばいい時代になったのだと思う。各人が「らしさ」に縛られることなく、自由に動けるようになったということだから。もちろん、その「らしさ」の押しつけの中で、気づかないうちに伝承されていた能力、心構えなんかが伝承されなくなった、という点はデメリットだろうが。

そして、ハード面から言えば、他ならぬこのインターネットという技術ができた。それにより、情報へのアクセスは非常に容易になった。テレビや新聞が持つ、時間的な制約や、論調・センセーショナリズムなんかのバイアスを避けて、一気に一次情報に触れる機会も増えた。

プロ論」なんかを読んでも、今はいい時代なのだ、という人たちは少なくない。インターネット、その他いろいろなハードを使いこなして、自分なりの仕事をする能力のある人たち、あるいは能力はなくても気概のある人たちには、今の時代はいい時代なのだろう。

ただ、その同じインターネットの世界の中で、いつ果てるともしれない言い争いや罵倒に精を出し、陣取り合戦やストレス発散をするばかりの人たちがいることも確かなのだ。そしてそういう人たちの性情が、「古き日本人像」と変わらないという点は、池田信夫氏が喝破しているとおりだ。



それに加えて、さっき言った、「各人がバラバラの個人になる」ことによって、人と人との繋がりが希薄化し、それにともなって、見知らぬ人には声もかけない、見知らぬ人と関わりたくない、という欲求も、社会で増えていているように思う。

そして、逆説的に、「仲間内」での付き合いには注力し、「空気を読み」、雰囲気を壊さないように常に配慮し、仲間はずれにされないように血眼になる、という風潮も増してきているように思う。

何かの共同体、何かの「場」の中にいなければ、他に居場所がないし、居場所がないことは存在を否定されることと同じだ、というのが、日本人に染み付いた考え方であることを考えれば、相反する上記2つの流れが同時進行していることは、全然不思議じゃない。

そして、そういう人間関係のあり方を続けている内に、本当は誰もが気づいてしまうんじゃないだろうか? 「自分は、本当に好きで友達と付き合いを続けているわけじゃないんだ」「仕方ないから付き合っているだけなんだ」「本当は自分は、誰のことも本気で好きなわけじゃないんだ」「本当は、自分は友達を『利用している』だけなんだ」と。

そういう感覚が、冒頭で言ったような「生きづらさ」を生み出す大きな原因の一つじゃないかと、僕は推測している。



そういう「生きづらさ」を抱えながら、たぶん多くの人が、いろんな所で息苦しくなったり、苛立ったりしているのだろう(僕だってそうだ)。冒頭の2番目に張ったURLにもあるように、マナーの悪いファミレスの客に苛立ったり、何か言ってやりたいと思いながら、結局、身も知らぬ人を怒ったりして、なお厄介なことになるのは嫌だから、黙って我慢するほかない。

あるいは、黙ってその場を絶え抜いた後で、家に帰ってネットの掲示板にその憂さを吐き出す。自分が見たその場面に、「マナーの崩壊」「社会の無秩序化」というテーマでも付ければ、もう上出来だ。立派な憂国の士を気取り、周りからも支持の書き込みをもらえることだろう。

そうやって、憂国の士になるうちに、いつしか、社会の崩壊、無秩序化を憂う「ネット右翼」の方向に引かれ、道を誤った人たちも一定数いるのだろう。僕はそう推測している。「ネット右翼」というと、いかにも人を罵倒するだけの人、というイメージもあるけれど、本当は、社会を憂う、真面目な人たちであるが故かもしれないと、僕は思っている。



冒頭の3番目に張ったURLにも関することだけど、そういう状況の中で、「脳内のイメージだけで満足してしまい、現実を全てあきらめてしまえば、それが一番幸せだ」という考えが、もう一方の流れとして出てくるのも、無理もないことだと僕は思う。

なんてったって、自分の好きなものだけでマイ・ワールドを作ってしまえば最強だ。加えて、前述のように、(幸か不幸か)今の世の中にはモノが溢れているし、簡単に手に入れることができる。自分の気持ちいい物だけ周りに集めることができる。「欲しい物は何もないいので、自分で取ってくるしかない」戦後のような状況と今とは違うのだ。

自分の周りに、自分の気持ちいいものだけのマイ・ワールドを作ってその中に耽溺していれば、一生楽しい。もちろん、人間は働いたり何やかやしなくてはいけないし、24時間ずっとマイ・ワールドに閉じこもっていることは出来ない。そういう「外に出る」瞬間は何よりの苦痛となることだろうが、その点だけを除けば、あとは幸せだ。



ただ僕は、上に書いたような「憂国の士」のような生き方も、「マイ・ワールドに閉じこもる」生き方も、あまり楽しそうな生き方とは思えない。実際にそういう生き方をしている人も少しは知っているけれど、あまり楽しそうには見えない。

だから僕は、冒頭に書いたように、人とうまく繋がれない不安や苛立ちを、日々少しは感じつつ、会社という共同体や、家族という共同体ぐらいは何とか持ち、かつ、以前から身につけて来た、孤独を紛らす術で乗り切りながら、毎日生きている。

そしてこれからどう生きるべきなのだろう?

そして、ヒントになるのは、冒頭の3番目のURLに張った、「現実は、自分のイメージよりも豊かである」「現実の中にしか、想像の材料はない」という主張であるような気がしている。



月並みな言葉だが、明日も頑張ろう!
ジャンル:
ウェブログ
キーワード
ネット右翼 見知らぬ人 陣取り合戦 ファミレス
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