神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

生きるということは、じっと辛抱することよ。

2017年04月19日 | 
 ※この記事には「指輪物語」についての重要なネタバレ☆があります。なので、注意して閲覧してくださいねm(_ _)m


「生きるということは、じっと辛抱することよ」

 この言葉は、アーシュラ・K・ル=グィンの有名な小説「ゲド戦記Ⅰ~影との戦い~」に出てくる言葉です。

 さらに、この言葉に続いて「辛抱に辛抱を重ねて人ははじめてものに通じることができる」と、主人公ゲドの魔法使いの師匠、オジオンは言っています。

 辛抱という言葉は、辛さを抱えると書きますので、そのような辛い状態を抱えていてもじっと我慢する……という、そういうことでしょうか。もちろん、このブログでは何度もマーリン・キャロザースさんの「感謝と讃美」の教えに触れておりますので、わたしたちクリスチャンはそんな時にも神さまへの感謝と讃美に歌い踊る……というのが、クリスチャンとして「生きる」、「生きた信仰を持つ」という基本姿勢ではあります♪(^^)

 それはさておき、ル=グィンの「ゲド戦記」はJ・R・R・トールキンの「指輪物語」、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」と並んで世界の三大ファンタジーと呼ばれているのですが、このうち、個人的に思うに「指輪物語」はキリスト教的思想を裏に読みとるという方が多いのではないでしょうか。また、「ナルニア国物語」第一作「ライオンと魔女」のライオンの死はキリストの復活を表わしていると言います(わたしの場合、そう指摘されている文章を読まなければ、実はこれ、わかりませんでした^^;)。

「指輪物語」の場合は、光と闇の勢力間に戦いがあり、最後、光の勢力が闇に打ち勝つわけですが、こちらを世界の善の勢力と致しますと、ほとんどこちらの光や善の力というのは、闇に負けるという本当にギリギリのところを通らされます。そしてこの物語の主人公はホビットと呼ばれるわたしたち人間よりも小さな人々で、彼らが大活躍するのです。また、ファンタジーというとやはり「剣と魔法の世界」といったように想像しますが、「指輪物語」の戦いというのは、突き詰めていうなら非常に地味な魂の内面的な戦いに焦点があてられています。もちろん、剣対剣によってゴブリンといったモンスターと戦ったり、魔法を使って敵を蹴散らすといった場面も出てくるのですが、主人公のホビットであるフロドは、冥王サウロンの心臓といっていい強い魔力を持つ指輪の保持者で、この指輪が持ち主を悪の側へ引っ張ろう引っ張ろうとするわけです。

 そしてそのような強い魔力を帯びた指輪ですから、持ち主にも当然強い影響を与えずにはおきません。また、この指輪は冥王サウロンの指輪であるがゆえに、魔法の金槌で叩き壊すであるとか、通常の物理攻撃によって人間が破壊できるといった種類のものではないのです。

 では、どうするのか――といえば、この世界にある滅びの山と呼ばれる火口にその指輪を捨てに行くしかないのですが、そこは敵の本拠地、冥王サウロンその人のお膝元みたいな場所なのでした。

 この絶望的な世界を救う旅に、フロドは他のホビット仲間その他(笑)と出かけてゆきます。しかも、その旅の間も危機にあうたびに彼が首にかけている指輪は誘惑してきます。というのも、この指輪には特殊能力があって、指輪をはめている間、誰からも見えない状態になることができるため、何かの命の危険のある時にはそのように姿を消したい衝動に駆られるのは、誰でも当然のことですよね。

 また、指輪を持つフロド当人だけでなく、この強い魔力を帯びた指輪は、周囲の人々をも狂わせてゆきます。つまり、フロドからこの指輪を奪い、自分こそがその指輪の力によって世の支配者、覇者となろうといった欲望ですとか、そんな人々の思惑にも翻弄されつつ、フロドはこの指輪の所有者にしかわからぬ苦悩と絶望を経験しながら旅を続けてゆくのです。

 ようするに、「指輪物語」のフロドって内面的に物凄く孤独で、辛抱に辛抱を重ねて旅を続けていくんですよね。また、この絶望的で孤独な旅は、彼と同じホビット仲間の助けなしには到底達成しえないものでもありました(なんと!フロドは最後の最後で指輪の誘惑に負けてもいるわけですから!)

 このあたりのことについては端折りますが、フロドは指輪の力から解放されてのちも、指輪の魔力に囚われ続けました。長くサウロンの指輪を持ち続けたことで、その影響により心のほうが虚ろになっていたのです。この世界が救われるために、フロドはそのような、極めて孤独で内面的な、彼本人しかわからぬ苦悩の道を通りました。また、最後まで自分に付き従ってくれたサム・ギャムジーの力なくしてはこの旅は成功しなかったことから、フロドは彼こそが世界を救った英雄だと思っていたに違いありません。

「指輪物語」って、図書館へ行くと児童文学とか、そのあたりの棚においてあると思うんですけど、あれは子供が読むためのファンタジーというより、大人のためのファンタジーという気がしてなりません(^^;)

 さて、ここはキリスト教のことについて何か書くという主旨のブログですので、わたしたちクリスチャンにとって「救世主」といえば当然、イエス・キリストのことです。フロドは誰にも理解しえぬような恐ろしい犠牲を払って世界を救ったと思うのですが、それはイエスさまも同じだったのではないでしょうか。

 けれど、イエスさまが釘で両手両足を打ち抜かれ、十字架にかかってくださったことは、やはり全人類の希望でありのちの喜びでもあったという点で、フロドとは大きく違っていたと思うんですよね(^^;)

 そしてこの「違い」について思う時、やはりわたし自身としては「感謝と讃美」の思いに満たされるばかりなのですが、そんなクリスチャンであるわたしたちにも闇や孤独や辛抱といったことは許される時があります。

 そういう時こそより熱心に神さまに祈り、そのようなつらい状況が許されたことをも感謝し喜ぶわけですが、イエスさまのことを思って耐え忍ぶ、また聖霊さまを通して神さまが助け導いてくださるという道を通りつつ――そんな時に「指輪物語」の深い思想性に触れてみるというのも、もしかしたらなかなかに乙☆なことかもしれません。

 やっぱり、自分的に思うには「指輪物語」のキィワードって、物語の主人公であるフロドが非常に内面的で孤独な、彼本人にしかわからぬ道を通って世界を救った、しかもそこまでの犠牲を払いながらも、それは全世界に向けて、「どうだー、俺ってすげえだろう!この世界を救っちまったぜー!ヒャッハァ!!」だの、「おまえら一生俺様に感謝しろよー!今のこの世があるのも俺のお陰なんだからよう!」といったようにはまるで自慢できないといった点でしょうか(^^;)

 だから、「この気持ちは誰にもわからない」とか、「この苦悩は自分だけのもので、しかもこのような苦悩は一生続くんだ」といった悩みのある時、「指輪物語」は物凄い共感性や精神世界での深い連帯感を持つことのできる文学である……という、もし「指輪物語」という文学の素晴らしい点を一点だけ述べよ、と言われたら、自分としてはその点を一番にあげるやもしれません。もちろん、他にも「指輪物語」にはすごいところや優れたところがたくさんあるのですけれども。

 あ、この記事は本当は最初、「ゲド戦記」について何か書こうと思ってたんですよ(^^;)

 なのに、なんでか話が逸れてしまいましたので、「ゲド戦記」についてはまた次回ということにしてみたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!




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