神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

すべての霊の源泉なる神。

2017年09月20日 | キリスト教
【エマオへの道】ロバート・チューンド


 >>ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知らず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 なぜなら、だれが主の計画にあずかったのですか。

 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

(ローマ人への手紙、第11章30~36節)


 かなり前のことになりますが、こんな夢を見たことがありました。

 夢の中で、自分は死んで、どうやら天国へ行く途上だったらしいのですが、そこでまず、草原から見える森の中で、パンダとコアラが仲良くしているのを見ました。

 ええと、これは何かぬいぐるみ的なイメージのパンダやコアラではなく、本当にリアルなコアラ&パンダでした(笑)

 そこでパンダは樹の上にいるコアラにユーカリの枝を与えてあげ、またコアラのほうではパンダに竹をあげてました。

 これもまた、何か物語イメージの絵本の中の一場面……という感じではなく、本当にリアルな感じだったんですよね(^^;)

 実際、現実的に見ましても、コアラもパンダも神経質なところがあって、もしこの二匹が現世で出会いましたら、お互いに警戒心を抱いて遠くから見つめあう――でもただそれだけ……ということで終わりそうな気がします。

 そしてそこからわたしがさらに草原の中を進んでゆきますと、今度は人の笑い声や話し声が聞こえてきました。

 そこは、18~19世紀風のお屋敷と広い庭があって、その庭でヴィクトリア朝時代の衣服を着た人々が笑いさざめきながらお茶をしているところでした。今にして思うと、まるで『ダウントン・アビー』の一場面のように見えましたが、わたしも何故かそのお茶会に参加していますと、ある瞬間に突然、その人々が瞬間移動でもするみたいにいなくなってしまったんですよね(^^;)

 特に言葉でそう説明された、ということではないのですが、この人々が「礼拝の時間」になったので、それでそちらのほうへ向かったのだということが、これもわたしにはよくわかっていました。

 そしてわたし自身、自分がどこへ行くべきなのかがわかっておりましたので、その後もナイル川に沿った草原を歩いていきました。

 これもそれが何故、エジプトに行ったこともないのに「ナイル川」とわかるのか……という話なのですが、何故か霊的情報としてそれが「ナイル川」であることが夢の中のわたしにはわかっていました。

 でも、現実のナイル川はたぶん、あんなに綺麗ではないはずなんですよね(^^;)

 その川はまるで、宝石のラピスラズリを溶かしこんだようにとても深く蒼くて綺麗で……そしてわたしは川の中に入っていくと、その源を目指しました。何故かというと、この川を辿っていったところに神さまがおられるということが、わたしにはわかっていたからなのでした……。


 夢はここで終わりましたが、なかなか不思議な夢でしたので、その後も忘れずずっと覚えていたというか(^^;)

 そして、目が覚めたあとにわたしが思い浮かべた聖書箇所が、次のイザヤ書の第11章と、ルカの福音書のエマオ途上のことだったでしょうか。


 >>狼は子羊とともに宿り、
 ひょうは子やぎとともに伏し、
 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
 小さい子どもがこれを追っていく。

 雌牛と熊とは共に草を食べ、
 その子らは共に伏し、
 獅子も牛のようにわらを食う。

 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

 わたしの聖なる山のどこにおいても、
 これらは害を加えず、そこなわない。
 主を知ることが、
 海をおおう水のように、地を満たすからである。

(イザヤ書、第11章6~9節)


 もちろん、この聖句の中にはパンダもコアラも名前出てきませんけれども、意味合いとしては似てると思ったというか(^^;)

 エマオ途上につきましても、「え?べつにあまり関係なくない?」と思われそうなんですけど、エマオ途上にあった弟子のふたりが、イエスさまが一緒におられても「目がさえぎられていて」イエスさまのことがわからなかったみたいに――天国の情報については、肉体というものを持っている以上、その一部を夢や幻など、その他神さまの不思議な御力の現われによってしか知ることが出来ない……でも、そのほんの一部を垣間見ただけでもあんなに素晴らしいのだから、もし本当に天国という場所へ行けたとしたら、どれほどのことをわたしたちの魂は感じ、味わうことが出来るのだろう――ということは、本当に多くのたくさんの信仰者の方がおっしゃっていることのような気がします。

 もっともわたし、この夢については特に霊的な夢だと思っていなかったりはするんですよね。第一、「なんでユーフラテス川じゃなくて、ナイル川なの?」と疑問に感じたりもしますし、そうした意味であまり深く考えてもいないと言いますか(^^;)

 でもこの夢ということについては、神さまや天使に関するもの、あるいは悪霊に属するものの両方を見たことがあって(そんなに頻繁でもなく、回数も多くないのですが)、そうした夢を見たあとには自身の信仰について、色々と深く考えさせられるところがあります。。。

 それではまた~!!





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