神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

信仰のガソリン。

2017年06月06日 | キリスト教
【御声に聞き従う】パウロ秋元牧師著。
◇立ち読みはコチラから。。。


 医食同源と言われて久しい昨今ですが、わたしたちが体の中に入れる食べ物や飲み物は車にたとえるとすればガソリンのようなものですよね

 口の中から入れたものが体の活力、エネルギー源になるという意味において……たとえば、毎日ファーストフードやポテトチップス、インスタント食品ばかりを食べていると、確かにそれもまた体のエネルギーを生みだす力とはなるわけですが、そのような生活をずっと送っているとその<車>は何十年ものちに、当然故障しやすくなります。

 その点、なるべく良質の<ガソリン>を常に体に入れるようにしていると、血管も丈夫でサビにくいボディ(笑)となるでしょうし、こうした健康背景を受けて、昨今はサプリメントがとても流行しています。

 毎日テレビでそうしたCMばかり見ているため、自分も何かサプリメントを摂取していないと病気になるんじゃないかと錯覚しそうになるほどですよね(^^;)

 ところで、<信仰>もまた、ガソリンがなければ働きません(※ここのブログはキリスト教についてのブログなので、そうした意味での信仰と思ってくださいm(_ _)m)。




 >>祈りが聞かれない信仰のない人にお勧めします。

 祈りが聞かれる人の祈りの本を読むことです。祈りが聞かれない人の祈りの本はダメです。

 信仰は聞くことから始まりますから、読むことによって祈りが聞かれる情報が入り、それが、車のガソリンのように信仰のエネルギー源となるのです。

 信仰の証しの人のメッセージを聞く事も意味があります。

 その強められた信仰を使う時、私たちは、神の祈りの具体的な結果を見始めます。

(『雲の間にある虹』2017年1月号よりm(_ _)m)


 これは、本当にその通りだと思います。

 仮にわたしたちがどんなに立派な信仰心を持っていて、たとえて言うならフェラーリやポルシェのような高級車に乗っていたとしても、ガソリンを入れないなら、その車は当然走りません。

 イエスさまのことを主であると告白し、聖霊さまの内住を経験した段階で、もし仮にそれまで乗っていたボロ車からアウディのような新車が与えられ乗り換えたとしても、信仰を働かせないなら、その車は動かないということです。

 つまり、「信仰を持つこと」と「信仰を働かせる」ということは別のことだということなんですよね。

 わたしたちクリスチャンがイエスさまの十字架の血の贖いが自分のためになされたことを信じ受け容れ、告白した段階で、永遠のいのちが与えられて天国へ行けることや、すべての罪を赦していただけるという恵みに与ることが出来るわけですが、言うなればこれが「信仰を持った」段階であり、その後、より深い神さまの愛や恵み、奇跡を体験するには具体的に「信仰を働かせる」必要が出てくると思います。

 それは、第一に祈り感謝し、問題や困難があっても神さまを賛美し、第二に神さまの御声に聞き従うことだと思います。

 他に、十分の一献金をすることも神さまの恵みの業を見る大きなポイントと思うのですが、このことも大枠としては「聞き従い」に含めていいのかなと思います(個人的な経験としては、仮に常に十分の一でなかったとしても、「今の自分としてはこのくらい☆」といった形でも、感謝とともに献金するなら、その後経済的苦境から脱したり、経済的祝福に与るということが出来ました。でもやっぱり理想としては十分の一、あるいは十分の一以上の献金が最善と思います^^;)

 これも自分の経験なのですが、わたしと同じようにマーリン・キャロザースさんのご本やメッセージに感銘を受け、神さまに祈り感謝することはほとんど日常的に実践している方は多いかもしれません。でも、「神さまに聞き従う」というのが、本当に難しいのです

 神さまの声を聴く……というと、きっとノンクリスチャンの方にとっては「え?幻聴?っていうか、精神病かなんかじゃないの??」と思われるかもしれませんが、聖書を通して、祈りを通して、また聖霊さまを通して、クリスチャンの方は神さまの声を聴くことが出来ます。

 たとえば、マザー・テレサが貧しい人々を通して、そうした方の渇きを癒すよう神さまに語られ、その後常に祈りイエスさまに忠実に聞き従っていったというのも、実は同じことなんですよね。

「それはマザー・テレサのように偉大な人物にだけ起きることだ」というのではなく、折に触れて助けが欲しい時、熱心に聖書を読み、丁寧に祈り、「この問題についてどうしたらいいですか?」と聞いていくなら、ほとんど必ず何かの形で答えは与えられます。

 ただ、人間には「そんな面倒くさいことしたくない☆」とか、「神さまのくださる答えが左ではなく右でありますように」といったように自分にとって都合のいいほうに流される傾向がありますから、そのあたりで語られたことを捉え違えるですとか、聖霊さまが語っていることにあえて耳を閉じ、聞こえなかった振りをする……ということが起きてくるのだと思います

 また、はっきりした示しが与えられる前に見切り発車で発進してしまい、失敗することもありますし、こうした種類の「聞き従いの訓練」には通常、長い時間のかかるのが普通じゃないかな……と自分としては思ったりします(いや、わたしだけかなあ??笑)

 それでも、「神さまはこうおっしゃってるんじゃないかな」と自分の良心に照らして進み、仮にそれが神さまのみこころではなかったり、みこころとは実はあんまり関係なかった……ということでも、神さまはやはりのちにそのことも益としてくださったりしますし、聖霊さまの語りかけを吟味する過程でも実体験として学ぶことは本当にたくさんあると思います。

 あ、それと聖霊さまを通して聴く神さまの御声というのは、たとえば人間の肉声としてはっきり聞こえるといったこととは多くの場合違います。そのくらいハッキリ聞こえるということもあるにしても、日常的にということはまずないと思います。聖書を読んでいてその聖句があまりに強く胸に迫り、ずっと祈っていたことの答えとして与えられるですとか、祈っている間に平安が与えられ、「本当は右の道に行きたくなくてずっと抵抗してたけど、やっぱり左ではなく神さまは右を選べとおっしゃってるな」と感じたり、そうした細かい積み重ねと同時に現実を歩んでいった時に、神さまの真実を体験するということです。

 前々回書きましたとおり、「ちり紙交換の車が通りかかりませんように」ということから、末期がんの癒しについてまで、わたしたち人間の人生上の問題についてイエスさまはどんなことでもなんでも関心をもってその祈りの答えられます。

 けれど、その祈りの答えが自分にとって気に入らないものだと聞き従えないこともあったりと、なかなか難しいのですが、結局のところ人間的な道を選んで失敗し、罪の刈り取りをしたりすることで、「やっぱりあの時の神さまの答えは左じゃなくて右だったんだなあ☆」という失敗をするうちに、「神さまの御声を正しく捉える」ということがわかってきたりもします。

 わたしもまだまるでイエスさまに聞き従えていませんが(汗)、祈り感謝し聞き従うということの実践と神さまの恵みの刈り取りにこれからも与っていきたいと願っています。

 それではまた~!!





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