神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまにある希望と人間的な希望。

2017年05月12日 | キリスト教



 人間は、<希望>がないと生きられない生き物だそうです。

 つまり、ある程度未来に対して「見通し」がないと絶望してしまうという点で、他の動物とは大きく異なる……ということなのかもしれません。これは人間の脳の構造がそのようにして成り立っているということだと思うのですが、人間以外の動物というのは「自分にはもう未来がない」というので自殺するとか、そういうことはないそうです(^^;)

 今の時代でいうとしたら、大体今月、あるいは来月くらいまで家賃や光熱費など、ある程度必要な経済を支払えて、なおかつ仕事以外でも自分のために何か楽しみもある――というのか、そこまでではなくても、家庭の資産がギリギリ来月くらいまではなんとかなり、その先もこのようにしてお金を稼げば暮らしのほうはどうにかやっていけるであろう……というか、何かそうした「見通し」について常に人間は考え行動するということですよね。

 ところが、人間以外の動物のほうでは、明日もきっと獲物が取れるとか、なんの脅威にもさらされずにいつもの草地にいけば食べ放題だろうとか、未来のほうはそんなに確かではありません。けれど、<生きている>以上は自分の生命を生かし続けるという本能に従って行動し、人間のほうではこの本脳よりも理性のほうで色々くよくよ考えて悩むということなのかもしれません。

「もし明日、食べるものがなかったら……」、「今ある職をクビになったら……」、「今月の家賃を支払えなかったら……」、「もし病気になったとしたら」……こうした未来に関することで不安になるあまり、病気になる人もいます。不安神経症という病気まであるくらいです。けれど、それはきっと人間がそれだけ進化・発達した脳を持ったことの代償のようなことなのかもしれません。

 また、人間の脳の構造というのは<神>という存在を必要とするように不思議と出来ているようにも思います。

 人間が神さまのことを考えたり祈ったりする時に特に強く反応する場所が脳にはあるそうで、ここは人間が何がしかの神秘的な体験をする時にも関係している……といった文章を以前何かで読んだ記憶があります。

 つまり、わたしたち人間というのは「もし」という仮定を絶えず必要としている生き物ということなのかもしれません。

「もし、神がいたら」や「もし、神がいなかったら」ということもそうですし、極端な話、「今日の晩ごはんをもしカレーにしたら」とか、「もし明日○△さんに会うとしたら」という、とにかくわたしたちの思考はこの「もし」で溢れている気がします。

 そして「もし~~したら」、「もし~~しなかったら」、ああなるとかこうなるといったシミュレーションをほとんど無意識の内にも組み立てて生活している気がするのですが、「神がいるかいないか」というのは、その人間の大元の根幹に関わることなので、人間の脳は神という存在をいるかいないかに関わらず必要とするのではないでしょうか。

 もちろんわたしはクリスチャンですから、イエスさまのことを神さまとして信じているのですけれども、他の宗教を信じている方でも無宗教の方であったとしても、いざとなったら「神さま、お願いします!助けてください」と、危地に追い込まれた場合はそう叫ぶと思います。神さまという存在が仮に「間違いなく絶対にいる」と科学的に証明できないにも関わらずそうです。このわたしたちの脳に深く組み込まれている<神>という目に見えない概念――「いるかいないか」というよりも、そのような存在がいる・いるかもしれないという「仮定」がわたしたちの脳にまずは一旦存在しないと、人間の脳というのは自分の存在の足許が崩れ去っていくようなおぼつかなさを感じることになる気がします。

 専門家の方は異を唱えられるかもしれませんが、つまり、人間の脳が健全に働くためには、結局のところ最後に「神などいない」とその人が結論づけるにせよ、まずは「そのような存在がいるかもしれない」という仮定がないと脳全体が健全に働いていかないのではないでしょうか。

 これが、取りも直さず(?)わたしが神さまがいると確信することでもあるのですが、神さまは実際よくしたものだなあ……と、その創造の御業については驚くばかりです。人間に<神>という概念だけは等しく平等に与えておき、あとは信じるのも信じないのもその人次第というか、そうした「自由意志」を与えた上で、


 >>この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれ決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

(使徒の働き、第17章24~27節)


 このような御言葉をも使徒により聖書に書き記されるようにされたということ……これがキリスト教の神であり聖書の神でもある、イエス・キリストなのです。

 そしてこのイエスさまはわたしたちに、


 >>だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書、第6章25~34節)


 とも、その御言葉を通して教えてくださっています。

 この方に信頼し、またこの方のことを感謝し賛美しつつ、自分の心配ごとを主に心配していただきましょう。そして主の一方的な恵みにより頼むのです。「もし~~だったら」という不安をすべて神さまに預け、またそうするためにも祈ることが大切です。

 神さまに問題の解決を期待していきましょう。前の記事にも書きましたとおり、イエスさまは「あなたが○△したら、わたしも△○してあげよう」といった心の狭い神ではなく、わたしたちの元に何もない時に空の手で出ていく時にこそ、人間の力により頼まず、神さまの力にこそ信仰によってより頼む時にすべてを満たし、さらにすべて満たして余るほどに祝福してくださる方です。

 それではまた~!!


 >>あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

(ペテロの手紙第一、第5章7節)


 >>主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。
 幸いなことよ。彼に身を避ける者は。

 主を恐れよ。その聖徒たちよ。
 彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。 

 若い獅子も乏しくなって飢える。
 しかし、主を尋ね求める者は、
 良いものに何一つ欠けることはない。

(詩篇、第34編、8~10節)





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