神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしたちの<善>と利得を求める心。

2017年03月22日 | キリスト教
(いらすとやさんの素材集よりm(_ _)m)


 これはあくまでも個人的な主観として思うことなのですが、聖書全体を読んでみると、「神さまってもしかして、意外と悪人に寛容?」と思ったりします(^^;)

 そしてこれもあくまでも個人的な意見として思うことなんですけど、わたしたちが普段考えている<善>と<悪>に対する概念と神さまご自身のそれには、かなりのところ違いがあるような気がするんですよね。


 >>愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。
 彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。
 善を行なう者はいない。

 主は天から人の子らを見おろして、
 神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。

 彼らはみな、離れて行き、
 だれもかれも腐り果てている。
 善を行なう者はいない。ひとりもいない。

(詩篇、第14編1~3節)


 これは詩篇の第14編の御言葉ですが、まず、神さまにとっては「神などいない」として、神のことなどまるで考えていない人というのが割と悪人に近い……のかもしれません。

 たとえば、アメリカのドラマなどを見ていると、人を殺していたり麻薬を売っていたりといった理由で刑務所に入り、その後刑務所内でイエスさまのことを知って心を変えられる――といった描写を時々見かけることがあります。そしてイエスさまというのは、それがどんな罪でも悔い改めた罪については赦してくださる……それも、その罪をまったくないものとして扱ってくださる方なんですよね。

 なので、このことを真実、聖霊さまの注ぎかけによって理解した人というのは、その後の行動が本当に変わってしまうのです(^^;)

 むしろ、それだけ自分が「罪深い」、「恐ろしい罪を犯してしまった」とわかっていればこそ、神さまの衣の裾にすがる思いで「どうか赦してください」といった砕かれた物思いを持つ者を、イエスさまは慈悲深く扱ってくださるというか。

 けれど、何か法に触れることをしたわけでないといった種類の罪の場合、このあたりの感覚が結構曖昧だったりしますよね。

 そして、その限りにおいては自分のことを「比較的」善人だと思って生きている場合が多いかもしれません。

 これはわたし個人に関してっていうことですけど……わたし、自分のことはあんまり善人と思ってなかったりします

 何故かというと、自分の利得を侵害されない限りは善人面していられる――まあ、わたし個人が神さまに主張できる<善>なぞというものは、およそその程度のものだということです(^^;)

 これはわたしの話ではなくて、昔友人から聞いた話なんですけど……この方の旦那さんが交通事故を起こしたんですね。といっても、自分が悪いわけではなく、ぶつかってきた若い女性のほうが悪い、といったような種類の事故だったそうです

 手順としては、まずは警察に電話して、次に保険会社に電話するといったところですよね。

 でもこの女性があんまり狼狽して真っ青な顔してるので、友人の旦那さんはジュースを買ってきたりして、とにかく落ち着かせてあげたそうです。そしてこの時点では彼女も自分の非を認め、100%に近いくらい自分が悪いみたいなことも口にされてたそうです。

 と、ところが……。

 間に保険会社が挟まってから、話の雲行きがおかしくなったとか。たぶん、相手方の保険会社の方がかなりの手練れだったのかどうかわかりませんけれども、「こちらが悪いことには悪いが、それは6:4くらいの悪さであって、そちらにも落ち度はある」的なことを主張され、友人の旦那さんは激怒したそうです

 かなり前に聞いた話なので、どんな事故だったのか忘れてしまいましたけれども、この種の話は割合よく聞きますよね。

 事故に遭った時、ケース的に「こりゃ絶対向こうが悪い☆」というかなりはっきりした場合でも、保険会社の人がやり手だったりすると、本当は9:1くらいの割合で向こうが悪いことでも、7:3くらいであなたも悪いみたいにされたりとか、あるそうです。

 まあ、わたしが他に友人などから聞いた話だと「完全に向こうが悪い場合でも、動いてる車同士がぶつかった場合、10:0で片一方が悪いというケースは極めて少ない」、あと交差点で事故った場合は、明らかに相手が悪かったとしても、五分五分にされることが多いとか……実際のところはどうなのかわかりませんが、そういう話を誰かが職場などでするたびに思うのは、その人が大抵ものすごく怒ってるか、ものすごいフラストレーションを抱えているかのどっちかということです(^^;)

 もちろんわたしにもわかります。「そりゃそうだろー!?」っていうことは。

 でも、マーリン・キャロザースさんはやっぱり凄いですよ。「そういう時こそ神さまに感謝し、讃美しよう」って人に言えるんですから(笑)

 わたしの場合は、相手の話をかなり共感的に聞きはするけれども、そこまでは出来ない……というのが、わたし個人の信仰の弱さといっていいと思います

 ただわたし……思うんですよね。交通事故じゃなくても、こういう種類のケースで、「自分はこんなに正しい。それなのになんで……」と思う気持ちはもちろんわかりますし、その方がもしクリスチャンなら、聖書の御言葉と照らし合わせて、「自分はこんなに善人で、悪いのはあいつなのです。どうか神さまが悪いあいつと善人のわたしとの間を正しく裁いてくださいますように」――みたいに祈る可能性もあるかもしれません。

 でも、わかりますよね。神さまはそういう種類の<善>とか<悪>といったものの考え方をされないらしい……というのは。

「何故ある罪についてはすぐに裁かれ、いつまでも裁かれない隠された罪が存在するのか」、「神は見ていないのか」といったことは、大体聖書に書いてあります。でも、最初に気づかなければいけないのは、わたしたちが神さまの前に主張している<善>などというものは、およそ神さまの前に出すには恥かしい程度のものだということです(^^;)

 そして、そのことがわかったとすれば――怒りが通りすぎたあとくらいには、冷静になって神さまに祈れると思います。

「わたしは車をぶつけられた被害者なのに、むしろ相手を気遣ってやり、ジュースまで奢ってあげたのに……と、つい先ほどまで思っておりました。けれども、彼女にも彼女の生活があるのでしょうし、保険会社の態度が非常に横柄だったこともあなたに感謝します。けれども、わたしのほうでもお金は払いたくありませんから、どうか何卒一円も何もかからないようにお願いします」

 まあわたし、事故にあったりするたびにこうした心がけでいるべきだ……みたいには、とりあえず人には勧めたり出来ないかもしれません(^^;)

 あくまで自分自身に関することや、あるいはマーリンさんの「感謝と讃美」の教えを実践してる方などには、この対応が最良と思いますけれども、とりあえずは相手の言いたいことを全部「うんうん」言って聞いたあとで、まあそうですよね。「何か美味しいものでも食べて嫌なこと忘れよう」っていうのが、一般的この世的対応というものだと思います。

 もちろん、この美味しいものでも食べているあたりでマーリンさんの「感謝と讃美」のことでも話せるのが理想と思いつつも、実際はなかなか難しいんですよねえ(^^;)

 自分でも、そこまで話すことの出来るのが理想とは、常々思っているんですけど

 なんにしても、こうした件についても、これからわたしなりにがんばってゆきたいと思います♪(なるべく伝道できるように

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 悪意。 | トップ | 春を喜べなくても。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事