神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

良い地に蒔かれた種。

2015年04月04日 | キリスト教
【種まく人】ジャン=フランソワ・ミレー


「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。

 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」

 そしてイエスは言われた。

「聞く耳のある者は聞きなさい」

(マルコの福音書、第4章3~9節)


 このあと、イエスさまは十二弟子にこのたとえの意味を解き明かして聞かせます。すなわち、


「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。

 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。

 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」

(マルコの福音書第4章14~20節)


 わたし、最初に初めて聖書を読んだ時、こう思っていたような気がします(^^;)

 わたしはもうすっかり神さまのことを信じてイエスさまのことを受け容れたのだから、その1の「すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです」ということはないな、うん。で、その2もたぶんきっともってない。「ただしばらく続くだけ」でなく、わたしの信仰心はいまやどんなことがあっても永遠に続いていくだろう……でも困難や迫害はやだな~。あと、その3もあんまりないんじゃないかな。「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐ」かあ。確かにお金も名声も何もないかもしれないけど、でもそのことのために神さまのことを信じるのをやめるとか、そういうことは絶対ないなあ――なんていうことを。

 でもむしろ、信仰生活が長くなるにつれて、このイエスさまの御言葉の深さがわかってくるような気がします。

 まずその1についてですけど、この<みことばの種>というのはようするに<福音>のことですよね。だから、イエスさまのことをすでに受け容れた信者のわたしには関係ないや……ということはなく、やっぱり神さま以外の他のことに興味や関心が強く向かっていると、牧師さんのメッセージが心に入ってこないであるとか、神さまの語りかけが心に入ってこないということがあると思います。

 ようするに、実際にサタンさん(笑)が御言葉を持ち去っているということ以上に、人間的な動機が神さまの御言葉や計画などをブロックしてしまうことがあると言いますか(^^;)

 前回も少し触れた気がするのですが、わたしと同じように「この世でもそこそこ成功して、そのあと天国へ行きたいにゃ~」というクリスチャンの方は、もしかしたら多いかもしれません。
 
 もちろんわたし自身も、<困難>、<迫害>、<殉教>、<携挙>……といったことについて、一応頭の隅のほうで考えてはいるのですが、「いや~、黙示録のような困難な時代が来るのはわたしが死んでからにしてよ☆」とちらっと思っていたり、「でも死なないで携挙されるのはいいな~。イエスさまと雲の上で会えるなんて最高」と思ってもいたり。。。

 なんにしても、その3の「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐ」というのは、クリスチャンになったばかりの頃は実をいうとあんまりピンと来ていませんでした

 でもわたしのように、「この世的にもそこそこ成功できたらいいにゃ~」なんて思っていると、実はこれ、意外に引っかかりやすいのです(^^;)

 簡単にいうとすれば、神さまに関すること以上に(それが仮に一時的なものであれ)お金もうけのことに関心が向かったりですとか、自分に世間的名声をもたらしてくれそうなものに夢中になるあまり、それが第一になってしまい、神さまに関することが二番目以降にランク落ちするっていうんでしょうか

 ようするに、クリスチャンでもノンクリスチャンの方と大して変わらないような日常を送ることによって、少しずつ神さまから心が離れていった結果、何が起きるかというと……ようするに最初の記事のほうに書いた場面に逆戻りしてしまう、ということが起きてくるというか。


「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」

(マルコの福音書、第1章3節)


 そうなんです。せっかくイエスさまのことを知って福音を受け容れ、「よし、これでわたしも曲がった行いから救われたぞ」、「これからは神さまのことを信じて真っ直ぐな人生の道を歩んでいくんだ」なんて最初は思っていたはずなのに――気がつくとまた元の道に逆戻りしているのです。

 そして何かの罪に足を取られりすることでハッと我に返り、「神さまの本来の道からわたしはどんなに離れてしまったことか」と思い、また悔い改めて「今度こそはきちんと神さまの道を……」なんていうことになるんですよね(^^;)

 いや、ちなみにわたし、こんなことはもう何度も経験してる気がします

 でもそのたびに神さまは何度も許してくださいましたし、懲りずにまたわたしが同じ道に嵌まりこんでしまったとしても、やはり同じように何度でも救いだし、許してくださるというか。

 前回の記事との関連でいうと、そんなふうに良くしてくださる神さま、聖霊さまを裏切るなんていうことは絶対に出来ない……という、クリスチャン、キリスト教徒というのはそういうものだと思います。

 それではまた~!!




コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 聖霊の働き。 | トップ | 神の国の奥義。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事