神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

そのことに気づくのに、何故40年もかかったのか。

2017年07月14日 | キリスト教
【金の子牛の礼拝】ニコラ・プッサン。


 モーセが紅海を割り、イスラエル民族を奴隷とされていたエジプトから脱出させたお話は、あまりに有名だと思います。

 わたしも、聖書を読んだこともない小さな頃から物語としては知っていたのですが、その後クリスチャンになった時に聖書をきちんと読むようになり……出エジプト記を読んだ時にはとても驚きました

 何故驚いたのかというと、>>「モーセはエジプトで奴隷とされていたイスラエル民族を連れ、紅海を割って脱出しました。めでたし、めでたし☆」というのではなく、このお話には続きがあったことに驚いたのです。

 このイスラエル民族は奴隷とされていたエジプトから脱出後、荒野で主につぶやきます。神さまの御力によって、モーセを通し海が割れ、その底を通るという奇跡を経験していながらも――逃れた荒野には水がなかったため、まずはその水のことでつぶやきました。

 その後、天からマナという食糧が降る奇跡を経験していながらも、このことでもイスラエル民族はつぶやきました。エジプトで困窮状態でびとい目に会わされていたにも関わらず、あの頃はきゅうりが食べられたとか、肉が食べたいとか、マナはもう食べ飽きた……とか、そういったことによってです。

 そして、こうしたつぶやきが重なっただけでなく、とうとう神さまの約束されたカナンの地に入る前にも、アナク人という大きく強い民がそこにいるということで、>>「わたしたちはそこを占領することは出来ない」と嘆き、神さまに聞き従うということをしませんでした。


 >>そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」

 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。

「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから」

 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。

「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。

 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう」

(民数記、第13章30~33節)


 この結果、エジプトの奴隷状態から奇跡的に救出されるという神の御業を経験していながら、神さまが与えると言われた約束の地を目前にして――この世代の人々は全員滅びるということになりました。


 >>主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。

「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たち与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。

 ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ」

 主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。

「あなたも、そこにはいれない。

 あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。

 あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼な子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。

 あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て」 

(申命記、第1章34~40節)


 つまり、紅海が割れてその底を通るという奇跡的脱出劇を経験した世代の者ではなく、その次の世代の者が約束の地を受け継ぐということになったのです。

 この最初の世代の者で神さまの<約束の地>に入ることが出来たのは、「わたしたちはその地を占領できる」と神さまにあって信仰の立場にしっかりと立ったカレブとヨシュアのふたりだけであり、モーセ当人ですらもあれほど願った<約束の地>へは入れずして死ぬということになりました。

 脱出したエジプトの地から、神さまが<約束の地>としてくださった場所までは、距離的にそんなに遠くありません。
 
 それなのにイスラエルの民は、神さまにつぶやきにつぶやき、文句や不満を並べ立てたことで――荒野を四十年もさまよったのち、約束の地にも入れずして死ぬということになったのです。

 旧約聖書全体を一言でまとめるとすれば、神さまに選ばれた民イスラエルがいかにうなじをこわくして神に言い逆らい聞き従わなかったという背信の歴史書といっていいと思います。

 そして、このことを思うたびにわたし、とても胸が痛むのです

 神さまの奇跡に次ぐ奇跡を経験していながら、水がないとかある特定のものを食べたいとか、神さまが良くしてくださった色々なことをすぐに忘れ、感謝するでもなく文句ばかり言い連ねる――これは現代のわたしたち人間もまったく同じとは言えないでしょうか。

 これはわたしの想像ですが、イスラエルの最初の世代(エジプト脱出を経験した最初の世代)の人々が本当に心から悔い改めたのは、自分たちが本当に約束の地から締め出されてしまった……ということがはっきりわかってからではないかと思います。

 けれど、もうすでに神さまが「この世代の者は約束の地には入れない」とお決めになったのちに、いくら悔い改めても――そこにはもう一度のチャンスはありませんでした。こう書くと、「神さま、ちょっと意地悪なんとちゃう?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれど、神さまはこの民に何度もチャンスを与えたのちに、こう結論されたわけですから……これはこの書を読む後代の者たちに対する戒めとしても読むことが出来るわけです。

 さて、長くなりましたが、今回のタイトルは「何故、そのことに気づくのに四十年もかかったのか」です。

 いえ、このイスラエル民族の運命は、現代のわたしたちが神さまに聞き従えなかったり、そもそも神さまのことを信じられなくて不信仰の罪を何度となく重ねたりといったことにも十分通じる、戒めの物語とも言えると思うんですよね。

 まず、生まれた時からある民族の奴隷だったとしたら、「何故俺たちは奴隷なんだ?」と思うでしょうし(=何故俺たちは生まれてきたんだ?こんな苦役や苦難しかない人生なのに)、その後、モーセという偉大な指導者が現れて、その奴隷状態から解放されるものの、今度は奴隷としての労力を費やさなくてもいいかわり、自分で水や食糧を見つけたりしなくてはなりませんでした(=自由の代償)。

 ところが、この水や食糧ですらも神さまが与えてくださっていたのに、「いつも同じ食べ物かよ~」、「もっと他のものが食いてえ~」となり、神さまに不満を洩らしたところ、たくさんの肉を与えられると同時に、この欲望によってたくさんの人が神の神罰のより死ぬことになりました。

 さらに、荒野を旅して約束の地を目前としながら、「アナク人のようなおっかねえ民族のいるところ、オラたち入っていきたくねえだ」と怖気づき……イスラエルのエジプト脱出を経験した最初の世代の人々はカレブとヨシュア以外、その全員が滅ぶということになったのです。

 いえ、わたしたちの人生も実際のところ、そんなものではないでしょうか。あとから自分の人生を振り返ってみれば、「あの時ああしてれば良かった」とか「こうしておけば良かった」と後悔し、最終的に人生で自分がもっとも望んでいたものを得られずしてその惨めな人生を終えるのです。

 ただ、現代のわたしたちクリスチャンには救いがあります。何故といって、これは旧約時代のお話であって、新約時代にはすでに旧約聖書で約束されていたメシア(救い主)であるイエスさまがやって来られて、御自身を信じる者には救いと聖霊さまを無情件に与えてくださるのですから。

 けれど、わたしたちもまた旧約時代の人々と同じように聖霊を与えられていなかったら、神への不従順の果てに滅ぶしかない存在でしかないでしょうし、とにかくそのことを日々神さまに感謝して、今のわたしたちにとっての約束の地(天国)を目指し、従順に聞き従いをまっとう出来るようにと願っています。

 それではまた~!!




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