大隈庭園

2015年05月31日 | 東京のお散歩
早稲田大学の前身である東京専門学校を開学した大隈重信の別邸は
現在でも大隈庭園として遺されています。



ここは江戸時代には井伊家下屋敷、高松城主松平讃岐守の下屋敷だった場所でした。



近隣には犬養邸(早稲田)や、中山先生こと孫逸仙(孫文)が寓居した高橋邸(鶴巻町)といった
大隈に近しい人物の邸もありました。
明治初期の早稲田界隈は、そういった東京郊外のまだまだ「風光明媚」な
文人墨客や為政者たちが好むような屋敷地だったのです。



大隈庭園は、大隈講堂と大学の本部棟、リーガロイヤルホテルに挟まれる形で
日時限定で一般公開もされています。

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椿山荘のホタル

2015年05月30日 | 東京のお散歩
目白台にそびえる、ホテル椿山荘東京(藤田観光)は
かつて山縣有朋邸とその庭園である「椿山荘」のあった場所です。



山縣がこの地に邸宅を構えたのは、政敵大隈重信が、神田川を挟んだ対岸の
早稲田に邸宅を構えていたからで(早大は大隈の別邸の一部に開学した)
その大隈公の家を「見下ろしてやろう」という下衆な気持ちから
目白台の地(元久留里藩主黒田家下屋敷)を選んだと言われています。



山縣は、生涯に建てた自邸それぞれに凝った庭園を多く作らせていて
椿山荘も目白台の崖と湧水を利用した、池泉庭園を作らせました。



その後、藤田財閥の藤田男爵別邸となり、戦後藤田観光の所有となります。
昭和二十七(1952)年に結婚式場として整備され、その後ホテルが併設されました。



椿山荘の初夏の風物詩でもある、「ほたるの夕べ」は
昭和二十九(1954)年から約60年の歴史を持つもので
近年では湧水の水質改良で、ホタルたちが自生できる環境となっているそうです。



都内が梅雨入りする頃までの、やや曇り気味か雨上がりで湿度の高く無風の20:30頃が
見ごろのようです。
さらに混雑を避けるなら金曜以外の平日、仏滅で新月の日が狙い目かも。


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甘泉園

2015年05月29日 | 東京のお散歩
新宿区の西早稲田、「高田馬場」のあった高台を背に
回遊式池泉庭園があります。



神田川の崖を利用したこの庭園は、もともと尾張徳川家の拝領地でしたが
のちに御三卿清水徳川家の下屋敷となり、庭園が作られました。



ここから湧く水が甘露であったことから、甘泉園の名が付けられています。

明治以降は旧陸奥中村藩主相馬子爵の屋敷となったのちに早稲田大学の所有となり
昭和四十四年に新宿区に寄贈され区立公園となりました。

現在は、崖上に水稲荷神社(昭和三十年代まで早稲田大学9号館付近にあった)や
堀部安兵衛助太刀の碑などもある、都会の喧騒の中に佇む
江戸郊外の風情を残す公園になっています。

(水稲荷神社)
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築地市場

2015年05月28日 | 東京のお散歩
築地市場こと東京都中央卸売市場築地市場は、世界最大規模の卸売市場。
海外からの観光客も多く見学に訪れる、人気のスポットでもあります。



(築地市場)

勝鬨橋のたもとから、新橋汐留近くまでの広大な市場で
水産物だけでなく、青果や卵、加工食品の取引きが行われています。

かつては国鉄汐留駅から貨物線も乗り入れていたことからも
その規模の大きさを窺い知ることができます。

(汐留駅から市場内ー1枚目の写真の場所ーまで伸びていた貨物線跡。)

市場は、「場内」と「場外」に分かれていて、
場内はその名の通り、公営市場敷地内の卸売市場、
場外は敷地外の築地の街に広がる小売の店が並ぶ一角を呼び分けています。

(場内市場)

(場外市場)

昨年末には築地市場の移転問題について、
平成28年11月に豊洲新市場を開場することが決定しました。

築地の街は、これからどう変わってゆくのでしょうか。
あと1年ちょっと、この街の賑わいを存分に味わっておきたいと思います。

(市場内に鎮座する波除神社)
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鍋島松濤公園

2015年05月27日 | 東京のお散歩
渋谷区松濤、閑静な高級住宅地の真ん中に、湧水池を中心とした
5千平米ほどの公園があります。

鍋島松濤公園と名付けられたこの公園は、元々紀州德川家の下屋敷のあった場所で
明治以降、佐賀の鍋島家の屋敷となり、昭和に入り東京市に寄贈されたのち
渋谷区に移管されました。

池は天然の湧水で、現在は流出口から暗渠となっているものの
宇田川の支流として渋谷の地下を流れ、渋谷駅付近で渋谷川と合流したのち
開渠となって東京湾へ流れています。



ファッション誌などの撮影でもよく使われる公園ですが
普段は近所の人たちが井戸端会議をし、子どもたちが遊ぶ
街中のいたって普通の飾らない公園です。
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水戸徳川家と江戸屋敷の庭園

2015年05月26日 | 東京のお散歩
徳川御三家のひとつ、水戸徳川家。
水戸家は江戸定府とされていました。
江戸定府とは参勤交代を免ぜられ、常に城主が江戸に詰めており、
宗家つまり将軍家の一大事に備える役割を担っていました。
ただし、水戸家から将軍になることはなく、慶喜も、水戸家の生まれながら
一橋徳川家へ養子へ出されたのちに、将軍となっています。

江戸定府とされた水戸家は、江戸に三つの屋敷地を構えました。

上屋敷は現在の後楽園で、江戸城の位置で言うと小石川門の目前に
広大な屋敷を構えていました。
後楽園という名こそ、光圀が名付けた屋敷の庭園の名です。

(後楽園)

元々上屋敷は江戸城吹上(現在は陛下の御所が建てられている)にありましたが
明暦の大火ののちに、中屋敷だった小石川の屋敷を上屋敷としました。

光圀は、古代中国の意匠を採り入れた庭園を築き「岳陽樓記」(宋・范仲淹)の
<士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽>からつけられました。

(後楽園)

中屋敷は、現在の東京大学農学部の場所にありました。
このため、庭園の遺構は遺されていません。

下屋敷は隅田川沿いにあって、現在は墨田区側の隅田公園となっています。

(隅田公園)

明治時代には水戸德川家の本邸となり小梅邸と呼ばれていたこの屋敷地には
築山や隅田川の水を引いた汐入池も遺されています。

(隅田公園とスカイツリー)

明治天皇が東京での初めてのお花見に御行幸された場所としても知られています。

(明治天皇行幸記念碑)


光圀の弟である松平頼元が、水戸の御連枝として内分分知され
屋敷と占春園という庭園を構えた場所は現在筑波大附属小の敷地に
「教育の森公園」の一部として遺されています。

(占春園)

(園内には嘉納治五郎先生の像が立つ)

(占春園には昭和天皇の行幸記念碑)


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消防殉職者慰霊祭

2015年05月25日 | 徒然
今日は、浅草寺にて江戸消防記念会主催(東京消防庁全面協力)の
消防殉職者慰霊祭が行われました。

この慰霊祭は、毎年5月25日に浅草寺で行われる恒例行事で
江戸町火消しの伝統を引き継ぐ、一般社団法人江戸消防記念会の火消しの
各組の纏が一堂に会する出初式と並ぶ一大行事です。

慰霊祭の後は梯子乗りの披露も行われ、偶々居合わせた外国人観光客も
木遣りや梯子乗りといった江戸の伝統に触れ、大喜びでした。


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清水坂公園

2015年05月24日 | 東京のお散歩
JR埼京線の十条・赤羽間の線路際に、大きな公園が広がっています。
赤羽の台地の端っこに開かれたこの公園は、清水坂公園と言って
以前は国鉄官舎の建っていた場所が、北区に譲渡され整備された公園です。



このあたりは、武蔵野台地のうち上野台地へと連なる舌状台地の付け根で
清水坂公園は、その台地に谷を作る稲付川が、縄文海進による沖積平野に出る
小さな扇状地の斜面となっていて、古来から湧水の豊富な場所でもありました。



園内には湧水を滅菌処理した水を、渓流のように流した遊び場もあって
夏に子供たちを遊ばせるにはもってこいの公園となっています。

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西郷山

2015年05月23日 | 東京のお散歩

代官山に隣接して、西郷山と名付けられた高台の公園と
崖下の隣接地に菅刈公園という二つの公園があります。

代官山駅から、代官屋敷とエジプト大使館の前を通って
かつては三田用水の掛樋が通っていた西郷橋と名付けられた橋を渡ると、
西郷山公園です。

(西郷橋)

この二つの公園は、元々は西郷従道の屋敷があった場所で
明治天皇も御行幸されたことのある、緑豊かな公園です。

西郷山側の崖上からは、冬の晴れた日には富士を望むことができ
また、その崖には人工の滝が造られています。

(冬の晴れた日なら、富士山が見える)

残念ながら常時通水ではありませんが、枯れた状態でも滝組として素晴らしく
枯れ滝と瀑布との二つの味わいが楽しめます。

(滝)

崖下の菅刈公園には茶室と池があり、落ち着いた趣きの公園となっています。

(菅刈公園)
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「萌え」は宗教であり、宗教は「萌え」である

2015年05月22日 | 
今や萌えキャラは一般的になりましたが、先駆的なお寺が
東京都西部八王子市にあります。



日蓮宗の松榮山了法寺は延徳元(1489)年に、啓運日澄上人の隠居地として
開山されたと伝えられているそうです。



現在地へは天正十八(1590)年に移転しました。

時は流れ平成二十一(2009)年、宗教界どころか、一般人も驚く看板が
寺の入り口に設置されました。

萌え看板です。



これは、遍く寺を知ってもらうために、萌えキャラを使ってみては…
という提案によるもので、住職は抵抗を感じて誰かに止めてもらおうと
宗派や家族などに相談してみたものの、誰も反対せず
神託でも大吉と出てしまったため、設置に至ったという経緯があります。

その後はマスコミでも話題にもなり、スマホアプリもできるなど
寺だけでなく仏教を広く知ってもらう事に、成功した
萌えキャラ化成功例の一つとなっています。
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木根川橋 木下川薬師

2015年05月21日 | 東京のお散歩
さだまさしの名曲「木根川橋」の歌の始めの台詞に出てくる木造校舎の学校は、
まっさんの出身中学である中川中学校の旧校舎のことです。
その“なかちゅう”の隣に、こちらも歌詩に出てくる木下川(歌詩では木根川)薬師があります。

(木下川薬師)

木下川薬師は、天台宗の青龍山薬王院浄光寺という寺院で
伝教大師(最澄)自ら刻した薬師如来像をご本尊としています。
植木市は毎年4月8日(今年は4月9日、まっさんのバースデーイブでした)に開かれます。
浄光寺の元々の寺領は、現在の荒川流路上の位置にありましたが、
放水路として現在の荒川が開削される際に、現在地に移転してきました。
なお、現在地は荒川放水路に接続させるために流路が変更された
中川の以前の流路にあたります。

(浄光寺)

「もうひとつの木根川橋」(まっさんのトークより)で
“シャチョウ”が身を投げた事で(まっさんファンには)お馴染みの木根川橋は
中川放水路と荒川放水路に架かる橋で、昭和四十四(1969)年に架橋されました。

(左が木根川橋。右が京成線鉄橋。この間に旧四ツ木橋があった)

まっさん(1952年生。高校時代は市川に下宿)が中学生だった頃にはまだ橋は無く
100mほど上流に木造の旧四ツ木橋が架かっていました。
(現在の四ツ木橋は、永久橋として昭和二十七年に開通したもので、
さらに昭和四十八年に、その数十m下流側に渋滞解消の為の新道が開通し
四ツ木橋・新四ツ木橋となりました)
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木根川橋 白髭神社

2015年05月20日 | 東京のお散歩
さだまさしの曲「木根川橋」は、まっさん自身の思い出を綴った歌として有名です。
ヴァイオリン修行のため、中学入学と同時に長崎から単身上京したまっさんが
最初に住んだ町が葛飾区でした。

(木根川橋とスカイツリー)

木根川橋から水道路を抜けた白髭神社は、渋江白髭神社と呼ばれる白髭神社で
江戸時代には「葛西の客人(まろうど)大権現」と呼ばれ、
遊郭や茶屋、商人、芝居小屋などからの信仰を集め
参詣客でたいへん賑わったそうです。

(白髭神社)

(白髭神社拝殿)

水道路は、金町浄水場から青戸、立石、本田を直線で結んだ道路で
その名の通り、水道敷設のために作られた道路です。
現在でも水道局の施設が堤防に突き当たる手前に設置されています。
かつては水道管が、荒川放水路を水道橋で渡り、墨田区側へ伸びていました。

(水道路から荒川堤防方向を見る。左のフェンスが水道局施設)
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世田谷豪徳寺

2015年05月19日 | 東京のお散歩
世田谷の大谿山豪徳寺は、招き猫発祥の地(の一つ)として知られています。

(豪徳寺書院)

もともとは、室町時代に吉良氏の世田谷城だった場所で
文明十二(1480)年に吉良政忠が、伯母である弘徳院のために
臨済宗の庵を結んだのが最初とされています。

(三門)

天正十二(1584)年に曹洞宗へ改宗しますが、その六年後に
吉良氏は秀吉の小田原征伐によって滅ぼされ、世田谷城は廃城になります。

(世田谷城址)

江戸時代に入り、彦根城主井伊直孝が一匹の猫によって
寺の門内に招き入れられ、その直後に雷雨があり、直前までいた大木に落雷し
その難を逃れることができたと謂れています。

(奉納された招き猫)

またこの時に和尚の説教を聞くことができたことを喜び、
井伊家代々の菩提所としたとされています。

(豪徳寺松並木)

豪徳寺の寺号は、井伊直孝の戒名「久昌院殿豪徳天英居士」によるものです。

井伊直孝を招いた猫は、豪徳寺では招福猫児と呼ばれ、
招猫観音が祀られています。
純粋に福を呼ぶ招き猫として、小判など俗物を持たずに右手を上げる姿の猫は
実は井伊家の領地である彦根のあいつ…そう、ひこにゃんのモデルでもあるのです。


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十二社

2015年05月18日 | 東京のお散歩
新宿西口、高層ビル街の裏手にはその昔、舟遊びができる池がありました。

(池のあった辺りは窪地のまま)

(池の底に当たる場所には、それらしい名のバス停)

十二社(じゅうにそう)池と呼ばれたこの池は、
慶長十一(1606)年に伊丹播磨守康勝によって造られ
昭和四十三(1968)年に、副都心計画によって淀橋浄水場の廃止とともに
埋め立てられ消滅しました。

(浄水場跡に建つ都庁などの高層ビル)

十二社の名は、池に隣接した地に鎮座する熊野神社に由来します。
室町時代に、紀州出身の商人で中野長者と呼ばれた鈴木九郎が
故郷、熊野三山の若一王子神社を祀ったのち、商売に成功し
熊野より十二所権現全てを祀るようになったのが
十二社の由来とされています。

(熊野神社)

現在も新宿中央公園に隣接して、浄水場跡地の高層ビル街や、十二社の鎮守として
信仰を集めています。

(新宿中央公園)
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護国寺と豊島丘陵

2015年05月17日 | 東京のお散歩
真言宗豊山派の神齢山悉地院大聖護國寺、通称護国寺は
天和元(1681)年に将軍綱吉の生母、桂昌院の請願によって造られた
江戸幕府の祈願寺です。





江戸時代には、庶民にも人気のある寺院として参詣客を集め
門前から神田川に架かる江戸川橋に至るまで、
1キロにわたって直線に伸びる参道は、参拝客で賑わいました。



明治維新の後、幕府祈願寺だった護国寺は、檀家を持っていなかったため
厳しい状況に置かれましたが、明治天皇の第一皇子の薨去に際し
境内の半分を皇室の陵として召し上げられ、豊島丘御陵となり
明治新政府の立役者である三条、山縣、大隈らの墓が護国寺境内に造られ
体面を保つことができました。

(豊島丘御陵の門)

大正以降は、当時の茶人で実業家の高橋義雄は、檀家総代として境内を整備し
茶会を開くなどして護国寺の再興に寄与しました。
茶会は現在に至るまで、続いています。

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