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気球に乗って月旅行 - ポー『ハンス・プファアルの無類の冒険』より

2017-05-14 06:11:38 | その他、雑記
 SFの父と言えばジュール・ベルヌとH.G.ウェルズですが、彼らの前にも現在ならSFと分類できる作品は書かれています。そのひとつがエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)が書いた"The Unparalleled Adventure of One Hans Pfaall"(『ハンス・プファアルの無類の冒険[Ref-1]』『ハンス・プファアルの無比の冒険[Ref-2]』)です。以下、日本語訳は[Ref-1]の方を使っています。

 この作品はロッテルダム市上空に謎の気球が現れ、乗っていた奇妙な風体の謎の小男の紳士が、市長にして国立天文大学学長であるスペルブス・フォン・ウンデルドゥック(Superbus Von Underduk)に手紙を渡して消え去るという事件から始まります。その手紙は五年ほど前に謎の失踪をした鞴(ふいご)直し職人のハンス・プファアル(Hans Pfaall)からのもので、彼は実は自作の気球で月へ行き、今は月世界人と暮らしている、という驚くべきものでした。なお手紙の末尾には、手紙を持ってきた謎の小男の紳士はハンス本人ではなく月世界の住人の一人だと書いてありました。

 この作品は内容のかなり多くが、月旅行用気球船の技術的詳細と、月への途上すなわち人類未踏の超高層大気世界で起きる驚異的な現象の描写に当てられているという、まさにハードSF(Hard science fiction)です。現在の知識から見て噴飯ものに見えるからと言って本質を見誤ってはいけません。これはポーが当時の科学知識(でポーが理解していたもの)を総動員して書いた本格ハードSFなのです。まあ落ちでは、ことの真相は怪人二十面相が起こした『宇宙怪人』の事件みたいなものではないかとの噂の話で閉めてはいます。しかしRef-1に収録のポー自身による『附記』によれば、この作品以前またはほぼ同時に書かれた他の月旅行物語に比べて、自分の作品がいかに科学的に正しい描写をしているかを力説しています。いや正確に言えば、自分の作品については何も述べておらず、ライバル達の作品をこき下ろすことで間接的に自分の作品の科学的正しさを主張しています。すなわち、これらの「まやかしめいた性格」の作品に対して、自分もライバル達も科学的に詳述することによって真実らしさを与えようと試みているのだけれどもライバル達はそれに失敗していて、まともに天文学的知識を理解している人間なら虚構を見破るだろうと述べ、その具体例を詳細に示しているのです。次の引用中の『月世界夢謹』("Great Moon Hoax")というのがライバル達の作品のひとつです。

===========引用開始====下線は私の強調============
 事実を進んで認めようとする者よりも、『月世界夢謹』に実際に一杯喰わされた人間のほうが多いのだから、なぜ欺かれてはならないのかという理由を示すことはこの物語のもつ本当の性格を確証するのに充分なだけの話の細部を指摘することは、ここでいささか興味を与えるかも知れない。実際、この器用な作品にどんなに豊かな想像力が示されているにせよ、事実および一般的類推というものにもっと周到な注意を向ければ得られたかも知れない力を、この作品は欠いているのである。一般読者がたとえほんの一瞬にせよ欺かれたとすれば、それは天文学的な諸疑問に関していかに公衆が無知蒙昧(もうまい)であるかを証拠だてるものにすぎない。
===========引用終り===============================

  つまり自分の作品の細かい記述には、周到な注意を欠くライバルの作品のような簡単に虚構とわかる部分はないと宣言しているわけです。これは20世紀後半のハードSFのリーダーと目されるハル・クレメント(Hal Clement)の読者への挑戦(Challenge to the Reader)と同じ精神です[*1]。ポー自身もまさに本格ハードSFを書いたつもりだったのです。


 さて気球で月へいくなど馬鹿々々しいにもほどがあると思われるかも知れませんが、これがなかなか捨てたものでもないのです。まず問題は気球に詰めるガスですが、これは「ある特殊な金属または準金属」と「あるきわめてありふれた酸」とから作られます。

===========引用開始====下線は私の強調============
いま後の方で挙げた物質からつくられるガスは、私以外の何ぴとによっても製造されたためしはない筈です--あるいは少くとも、同じような目的のために用いられたことはない筈です。そのガスは、還元することは不可能と永いあいだ考えられていたアゾートの一成分であり、その密度は水素の密度の約三十七・四分の一以下であるということだけをここに言っておきましょう。無味ですが無臭ではなく、純粋なものなら緑の焔をあげて燃え、一瞬にして生物の命取りになります。このガスの秘密の一切を公開するのはたやすいわざなのですが、その秘密は(すでに述べたように)当然フランスのナントに住む一市民に属するものであって、私はこの男から条件つきでこの秘密を伝受されただけのことです。この男は私の意図など露知らずに、ガスの洩れることはとんどない或る動物の薄膜を使って気球をつくる方法を私に教えてくれました。けれども、こいつは金がかかりすぎることが判りましたし、全体から見て、弾性ゴムを張った麻モスリンでも間に合うのではないかしらんと思いました。なぜ右のような事情を述べるのかと申しますと、将この人物が、いま私が話した新しいガスと材料とを用いて気球の飛翔をこころみることもあろうかと思われますので、私は、きわめて特異な発明を行なったという栄誉を彼から奪いたくないからです。
===========引用終り===============================

 でました、SFガジェット"水素の1/37.4以下の原子量の新元素"です。これはミューオニウムの予言に間違いありません(^_^)[*2]。質量と寿命は何桁か違いますが、この程度の誤差は20世紀以降の理論物理学者による新粒子予言でもざらにありますから、問題ありません(゚_゚)キッパリ。スカイラークを動かすX金属(element "X")よりよほどハードでしょ(^_^)。

 しかし"azote"の訳を"アゾート"はないよねえ。せめて"窒素"にしなくてはほとんどの読者は意味が分からないでしょう。窒素と訳してアゾートとルビを振るという手法もありますが、"アゾート(窒素の旧称)"が一番親切な訳だと思います。まさか訳者は自然科学系の用語の調査を怠ったのでしょうか? だからハードSFの翻訳はそれに慣れた訳者に頼むべきなんですよ(x_x)。なおRef-2ではきちんと"ふりがな付きの「窒素(ちっそ)」"と訳していました。また本作品の他の箇所(後述の引用文参照)では大気の成分が窒素と酸素(nitrogen and oxygen)であることが書かれているのですが、 "nitrogen""azote" の使い分けの意図は謎です。

 なお"還元することは不可能(irreducible)"という言葉ですが、この文脈だと現在の化学用語の"還元する(reduce)"の意味ではなく、より小さなものに分解する、という意味合いが強そうです。本作品の半世紀以上も前にラボアジェ[1743-1794](Antoine Lavoisier)がフロジストン説を打ち砕き、酸素と結合することおよび酸素を放出することという意味での酸化と還元という概念を確立していますが[*3]、プファアル氏は気球制作で初めて専門書を読み始めたらしいので、還元の化学的意味をしっかとりは知らなかったものと思われます。wikipedia英語版によれは、還元という言葉はもともとは金属酸化物が加熱等で質量が減少する現象を指したらしいので、当時としてはそう的外れの使い方でもなかったのでしょう。

 しかし水素の1/37.4とはいえ、いくら軽いガスでも上空に行ってどんどん大気が薄くなればどこかで上昇できなくなるはずなのですが、プファアル氏は驚くべき解決を用意していました。

===========引用開始====下線は私の強調============
 が、事実においては、一定の高さまで上昇すると、それからさらに上昇する場合に通過する、重みのある空気の量は、いま新たに上昇した高さと比例するものでは決してなく(これは前に述べたところからも、はっきり判るはずです)、その比率は絶えず減少してゆくのです。ですから、どんなに高い所まで上昇していっても、そこからさきは文字通り空気が全然無いというような限界には到達できないことは明らかです。空気は存在するに違いないと私は思いました--もっとも、無限に稀薄な状態で存在するのかも知れませんが
===========引用終り===============================

 うん、確かに現代の眼から見ても間違いではありません。たとえ宇宙で最も大気の希薄な場所といえども全然無いというような限界には到達していないことは明らかです。あー、組成は地上とはちょっと変化していますが。組成変化についてはプファアル氏は、次のように楽観的な予想をしています。なお、ここに前述の窒素と酸素(nitrogen and oxygen)という記述が出てきます[*4]。

===========引用開始====下線は私の強調============
そこで私は、飛行の途中に見出される媒体が想像通りのものであれば、そして、この媒体が大気と呼ばれるものと本質的には異ならないものであることが判れば、その媒体が極度に稀薄な状態であっても大した違いはないはずだ(というのは、気球の上昇力に関してですが)、と私は考えました。なぜなら、気球中のガスそのものも同じように稀薄になる(そんなことが起った場合には、気球の爆発をふせぐのに必要なだけの量のガスを放出することができます)ばかりでなく、そのままでも、ただの窒素と酸素の化合物よりも、依然として、ずっと軽いからです。こうして、どんなに上昇して行っても、私の大きな気球と、想像も及ぼないほど稀薄な気球内のガスと、吊藍とそのなかに載せている物との全重量が、排除されたまわりの大気の量の重さに等しくなるような点に到達することはあるまい、十中八九あるまいと思われました。
(中略)一方、重力は距離の自乗に比例して減じてゆきますから、すさまじいほどの加速度で上昇してゆく気球は、ついには、はるか上空の、地球の引力が月の引力に取ってかわられる点に到達するでしょう。
===========引用終り===============================

 どうもポー、いやプファアル氏の文章はまわりくどいことが多くて説明文としてはわかりにくくなりがちですが、次のようなことを言っています。

 1)大気が薄くなれば気球が膨らむ。
 2)内圧が大気圧と同じである限り気球内のガスの密度と外気の密度との比は変わらない。
 3)ゆえに気球の浮力は変わらず、加速度も変わらない。
 4)重力は地球中心から離れるほど弱くなると推定される(ニュートンの逆2乗則)ので、浮力から重力を引いた全加速度は増加する。

 素晴らしい。最後を除けば理論的にはパーフェクトです!? 但し書きで「ガスを放出」云々と言ってるのが何か誤解の気配もしますが、まあ気のせいでしょう(゚_゚)。4)の勘違いについては、どうもプファアル氏は浮力というものの本質をあまり考えなかったらしいですね。わかりやすくするために数式に考えさせてみましょう。

 P: 大気圧 V: 気球体積 g: 重力加速度
 F: 上昇力(気球船にかかる浮力と重力との差)
 a: 大気密度 b: 気球ガス密度
 M: 気球ガスの質量を除いた気球船の質量

  F = gV(a-b)-gM

 各量の地上での値を添え字0を付けて表せば、温度を一定とすると

  P*V = P0*V0  ボイルの法則(1662)
  ∴V = (P0/P)V0
  a = (P/P0)*a0  
  b = (P/P0)*b0


 よって
  F = g(P0/P)V0*(P/P0)*(a0-b0)-gM
   = gV0*(a0-b0)-gM


 つまり上昇力Fは地上での気球の体積、地上での気球ガス密度、地上での大気密度、気球ガスの質量を除いた気球船の質量、および重力加速度だけに依存します。前3者は定数ですから結局上昇力Fは重力加速度gだけの関数になります。プファアル氏は最後の点を知らずに、重力が弱くなっても上昇力は不変だと勘違いしていたようです。しかし上昇力Fすなわち加速度がゼロにならないことは確かですから、大気の抵抗を考えなければ速度の上昇は続きます[*5]。

 とはいうものの、理論は完璧であっても実現のためには多大な技術的困難が予想されます。しかし技術的困難などというものは知恵と情熱と根性と資金さえあればなんとかなるものです。まず予想される技術的困難は気球の素材でしょう。はっきり言って「弾性ゴムを張った麻モスリン」では無理です。この素材に要求されるのは、無限に稀薄な状態で存在するのかも知れない大気に見合うほどに膨張したとしても中のガスを逃がさずに耐えられるという性能だからです。残念ながら2017年現在の技術でも、このような素材を作ることはできません。今更プファアル式宇宙飛行船が作れたとしても他の方式との競争に勝つことは難しそうですから、このような素材を開発するという動機が少ないのです(^_^)。おっとその前に"水素の1/37.4以下の原子量の新元素"が必要でした(^_^)。

 えっ、ガスじゃなくて真空を詰めればいいって。いい目の付け所ですが、それではだめなのです。確かに理論的にはその方がわかりやすいのです。上記のFの式を変形すると、

  F = gV0*a0-g(V0*b0+M)

 この式の右辺は、第1項が真空による浮力、第2項がガスも含めた気球の全質量です。つまり本質的に浮力は大気の密度と気球の体積との積だけで決まり、気球の全質量(ガス+風船の膜+ゴンドラ+他)をそれで支えるのだということがわかるのです。しかし気球内が軽いガスではなくて真空であったとしたら気球は膨らむことができません。つまり体積はゼロとなり浮力が得られません。中に水素よりも軽いガスを詰めることにより、体積が大気圧に合わせて自動調節されるということがプファアル式気球の技術的ポイントなのです。


 いずれにせ当時は人間が乗れる実用的な飛行装置と言えば気球だけでした。飛行機もヘリコプターもまだ存在せず、ロケットは存在したものの人が乗れる代物ではありませんでした。気球で月へ行くというのは当時としては一番もっともらしい方法だったと言えるのではないでしょうか。ジュール・ベルヌの砲弾に乗って月へ行く方法よりは荒唐無稽さは少なかったのではないでしょうか。だってニュートン力学に従いきちんと定量的に計算すれば、後者の方法では確実に乗員は死ぬとわかりますから。この難点を多段式というアイディアで克服するまでは、強い衝撃力で人間を打ち上げるという方法は実用的ではなかったのです。

 なおwikipediaの記事によれば、ジュール・ベルヌは「彼のお気に入りの作家であったエドガー・アラン・ポーが、小説に科学的事実を取り入れることによって、物語に真実味を持たせるという技法を示し、これに興味を持つようになっていった。」そうです。この記載には出典はありませんが、本当だとすればポーはまさに史実としてSFの祖父ということになります。ベルヌがポーにファンレターを出したというマンガを紹介している人もいますが、むろんこれは史実ではありえません。

 いずれにせよ本作品が近代科学勃興期のSFと言えることには疑問の余地はありません。創元社の『ポオ小説全集』全4巻から作品概要と感想を紹介しているネタ・ヴァレーというサイトの「【ネタバレ】「ハンス・プファアルの無類の冒険」エドガー・アラン・ポオ (2015/06/28)」では「空想科学小説誕生の産声が聞こえてくるような短編です。」と書かれていますが、まさにその通りですね。

 なお最初のSF小説としてはアイザック・アシモフ(Isaac Asimov)とカール・セーガン( Carl Sagan)は、かの近代天文学誕生史のヒーローであるケプラー作の『夢』("Somnium")[Ref-3]を「SF小説の走り」("the first work of science fiction")としています。なにしろ小説部分の数倍のページ数を割いた天文学上の解説付きというのですから、この作品も意気込みはハードSF作家のものですね。


続く


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Ref-1) 『ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)』(1974/06/28)に収録
Ref-2) 『ポオ小説全集〈3〉冒険小説』春秋社(1998/09)に収録
Ref-3) ヨハネス・ケプラー;渡辺正雄(訳);榎本恵美子(訳)『ケプラーの夢 (講談社学術文庫 (687))』講談社(1985/05)

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*1a) 『重力の使命(ハヤカワ文庫 SF602)(原題"Mission of Gravity")』早川書房(1985/03)の巻末の「メスクリン創世記(邦題)」より引用。
========引用開始====================
 この解説を書くたのしみも、その材料も、すべてをゲームとして扱うことから出発する。わたしが子供の頃からやってきたゲームだから、ルールはごく簡単なはずだ。事実、そのとおり。なぜなら、SFの読者の側からすると、そのルールは、作者が叙述または暗示したもののなかに、現代科学の理解による事実と矛盾している点を、できるだけたくさん見つけることなのだ。そして、作者の側のルールは、できるだけミスをすくなくすることなのだ。
  ---中略---
『重力の使命』では、このゲームをできるだけフェアにやってみたつもりである。
  ---中略---
いま、有利な立場は、あなたの側に移った。わたしはもうこのゲームでどんな手も打てない。あなたのほうは、好きなだけの時間を使って、わたしの想像力のおかしたまちがいを探しまわることができるのだ。
 それでは、幸運を祈る--そして、どちらが勝つにしても、たのしい時間を過ごしてください。
========引用終り=====================
 「メスクリン創世記(邦題)」の原作は、アスタウンディング誌1953/06号掲載の"Whirligig World"。
*1b) wikipediaの記事Pennsylvania Center for the Book記事より引用(赤字は私の強調)。
They are; for the reader of a science-fiction story, they consist of finding as many as possible of the author’s statements or implications which conflict with the facts as science currently understands them. For the author, the rule is to make as few such slips as he possibly can ... Certain exceptions are made [e.g., to allow travel faster than the speed of light], but fair play demands that all such matters be mentioned as early as possible in the story...

*2) ミューオニウムについてはKEKの記事(2004/02/05)「ミューオンの科学」松田恭幸(2009/07/08)が詳しい。また有機化学美術館に有機ミューオニウム化合物の記事(2008/11/27)がある。
*3) 現在の酸化と還元の意味はもっと広い。
*4) 翻訳と原文は「ただの窒素と酸素の化合物よりも、依然として、ずっと軽い」(continue specitically lighter than any compound whatever of mere nitrogen and oxygen)である。"compound"(化合物)は"mixture"(混合物)としないと現在の化学の試験なら減点されるところだが、用語がはっきりとは確立していなかったのか、ポーが素人だったからなのか。
*5) 大気による抵抗が単純に大気密度と気球の断面積の積に比例するのならば、抵抗力が浮力を上回ることはない。が、そう単純かどうかはわからない。

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