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ヒロシマ原爆ドーム

「ヒロシマ原爆ドーム」の元の建物

破壊された内部。中で働いていた方は、全員が亡くなりました。

投下直後の町の様子

1945年8月6日、人類史上初めて、原子爆弾が投下されました。
投下後、約1分でリトルボーイ(原始爆弾)は爆発地点に到達したのだそうです。リトルボーイは日本時間午前8時15分、今日”原爆ドーム”と呼ばれている建物の上空580メートルに達した時爆発しました。爆風と熱(爆発の中心部では6000度・地上に到達した熱は3000度とも言われています)の形で凄まじいエネルギーを発生し、人体に悪影響を与える放射線(ガンマ線と中性子)を大量に発生しました。
熱線が地上に到達したとき、人間を含め全てのものが焼かれ、一瞬にして14万人の命が奪われ、町が地獄と化したのです。
原爆による爆風は半径2km以内の家と建築物のほとんどを破壊した。山によって反射された爆風が再び市の中心部にいた人たちを襲いました。
放射線にさらされた多くの人々(20万人とも言われています)は最初の数カ月あるいは数年で亡くなり、またある人は遺伝子に問題が起こり、障害を持つ赤ん坊が生まれたり、子どもを持てなくなったりしました。原爆による放射線は、62年後の現在も深刻な問題を引き起こしています。
原爆の被害を受けたほとんどの人々は一般市民であり、学生や兵隊、町の工場で働かされていた韓国人なども含まれているそうです。
高校の修学旅行以来、何年ぶりかで訪問しました。
75年間は、草木も生えないといわれていた「町」に、緑豊かな木々が見事に生い茂っていました。
62年の歳月が過ぎていても、あの一日で、亡くなった多くの人たちの「悲しみや苦しみ」「生きたかった」という想いなどが、大地から伝わってくるようでした。
敗戦の色が濃くなっていた8月6日の朝、空襲で焼かれてはいけないという事で、建物を取り壊すために沢山の人が借り出されていて、被爆しました。

「ヒロシマ原爆ドーム」の元の建物

破壊された内部。中で働いていた方は、全員が亡くなりました。

投下直後の町の様子

1945年8月6日、人類史上初めて、原子爆弾が投下されました。
投下後、約1分でリトルボーイ(原始爆弾)は爆発地点に到達したのだそうです。リトルボーイは日本時間午前8時15分、今日”原爆ドーム”と呼ばれている建物の上空580メートルに達した時爆発しました。爆風と熱(爆発の中心部では6000度・地上に到達した熱は3000度とも言われています)の形で凄まじいエネルギーを発生し、人体に悪影響を与える放射線(ガンマ線と中性子)を大量に発生しました。
熱線が地上に到達したとき、人間を含め全てのものが焼かれ、一瞬にして14万人の命が奪われ、町が地獄と化したのです。
原爆による爆風は半径2km以内の家と建築物のほとんどを破壊した。山によって反射された爆風が再び市の中心部にいた人たちを襲いました。
放射線にさらされた多くの人々(20万人とも言われています)は最初の数カ月あるいは数年で亡くなり、またある人は遺伝子に問題が起こり、障害を持つ赤ん坊が生まれたり、子どもを持てなくなったりしました。原爆による放射線は、62年後の現在も深刻な問題を引き起こしています。
原爆の被害を受けたほとんどの人々は一般市民であり、学生や兵隊、町の工場で働かされていた韓国人なども含まれているそうです。
高校の修学旅行以来、何年ぶりかで訪問しました。
75年間は、草木も生えないといわれていた「町」に、緑豊かな木々が見事に生い茂っていました。
62年の歳月が過ぎていても、あの一日で、亡くなった多くの人たちの「悲しみや苦しみ」「生きたかった」という想いなどが、大地から伝わってくるようでした。
敗戦の色が濃くなっていた8月6日の朝、空襲で焼かれてはいけないという事で、建物を取り壊すために沢山の人が借り出されていて、被爆しました。
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6日・7日とヒロシマを訪問してきました。

ドイツ国際平和村への3ヶ月のボランティア滞在で、戦地で傷ついた多くの子どもたちと生活をして、「戦争・紛争」というものをとても身近に感じました。そして、自分がほとんど知識がないことに、いまさらながらに気がついたのです。

学校で習った事は、教科書の中の文字に過ぎず、修学旅行で訪れた「ヒロシマ」はとうの昔に風化してしまっていました。そして、テレビで流れてくるニュースは、やはり表面的なことにしか見えず、
「彼らが何故傷つかなければならなかったのか?」ということが理解できないままでした。

私の生活の中では「戦争・紛争」という出来事はないです。「当たり前」といってしまうには、その答えが自分の中にないのですね。
だからといって、現在、紛争が起きている地域に出かけていく事など、とっても出来ない事です。
そして、ドイツ国際平和村の敷地の中を通っている「Rua Hiroshima」という道路の説明を聞いたときから、私にとって「ヒロシマ」が大きな意味を持ち始めました。
今年、8月6日の「平和記念式典」をテレビの中継で見ながら、訪問する事を決めました。ペイ・フォワード倶楽部のパネルを貸し出した縁で、静岡YWCAの古河からのご縁で広島YWCAの難波さんを紹介して頂、今回の訪問が実現しました。
「平和資料館」や「原爆ドーム」には、修学旅行生や世界から沢山の方が訪れていました。私もその中の1人として訪問する事は簡単でしたが、それでは表面的な知識を得ることは出来ても、心で受けとめてこれからの活動に生かしていくことは出来ないのではと考え、案内を依頼しました。
ペイ・フォワード倶楽部の活動の目的とヒロシマ訪問の目的・想いを伝えたところ、快く受けてください、1泊2日のスケジュールをお任せ状態で組んでいただけました。
難波さんはじめ、今田さん、戸村さん、山岡さん、豊永さん、
本当にお世話になりました。
皆さんの、ヒロシマに対する想いをしっかりと受け取らせて頂き、共に「平和」を願う仲間として、ペイ・フォワード倶楽部の今後の活動に生かして行きたいと思います。
「ヒロシマ」訪問は、これから数回にわたって、アップしていきます。
感謝

ドイツ国際平和村への3ヶ月のボランティア滞在で、戦地で傷ついた多くの子どもたちと生活をして、「戦争・紛争」というものをとても身近に感じました。そして、自分がほとんど知識がないことに、いまさらながらに気がついたのです。

学校で習った事は、教科書の中の文字に過ぎず、修学旅行で訪れた「ヒロシマ」はとうの昔に風化してしまっていました。そして、テレビで流れてくるニュースは、やはり表面的なことにしか見えず、
「彼らが何故傷つかなければならなかったのか?」ということが理解できないままでした。

私の生活の中では「戦争・紛争」という出来事はないです。「当たり前」といってしまうには、その答えが自分の中にないのですね。
だからといって、現在、紛争が起きている地域に出かけていく事など、とっても出来ない事です。
そして、ドイツ国際平和村の敷地の中を通っている「Rua Hiroshima」という道路の説明を聞いたときから、私にとって「ヒロシマ」が大きな意味を持ち始めました。
今年、8月6日の「平和記念式典」をテレビの中継で見ながら、訪問する事を決めました。ペイ・フォワード倶楽部のパネルを貸し出した縁で、静岡YWCAの古河からのご縁で広島YWCAの難波さんを紹介して頂、今回の訪問が実現しました。
「平和資料館」や「原爆ドーム」には、修学旅行生や世界から沢山の方が訪れていました。私もその中の1人として訪問する事は簡単でしたが、それでは表面的な知識を得ることは出来ても、心で受けとめてこれからの活動に生かしていくことは出来ないのではと考え、案内を依頼しました。
ペイ・フォワード倶楽部の活動の目的とヒロシマ訪問の目的・想いを伝えたところ、快く受けてください、1泊2日のスケジュールをお任せ状態で組んでいただけました。
難波さんはじめ、今田さん、戸村さん、山岡さん、豊永さん、
本当にお世話になりました。
皆さんの、ヒロシマに対する想いをしっかりと受け取らせて頂き、共に「平和」を願う仲間として、ペイ・フォワード倶楽部の今後の活動に生かして行きたいと思います。
「ヒロシマ」訪問は、これから数回にわたって、アップしていきます。
感謝
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ペイ・フォワード倶楽部には様々な方が、サポーターとして登録してくださっています。
その1人に、中学校の先生が居られます。その先生が勤務されている学校に招かれ、ドイツ国際平和村のことについて講演をしてきました。最近は総合学習といって、通常の勉強以外のことを取り上げるために、先生以外の一般の人が講師として話す機会もあるとのことです。
対象は、中学三年生約180人。時間は45分。

事前に、ドイツ国際平和村のビデオ(テレビで放映された部分からCMとスタジオの分を除いたもの)を見せて、アンケートを書いてもらっておきました。
ビデオは、千里山で活動されている「千里山ブログ村」の方に編集していただき、大変助かりました。
6時限目ということもあり、体育館の床に座って聞くということで、沢山の生徒が寝るのでは・・・と考えたりもしましたが、それは私の杞憂だったようです。
1、 自己紹介
2、 「子どもエコワールドツアー」のDVD上映
3、 平和村の子どもたちとの出会い〜現地でのボランティア体験
4、 自分に出来ることから「ペイ・フォワード倶楽部の活動」
の順番に組み立てて、話していきました。
多感な年代、自我の形成、進路、友達や親子の関係、はるか(?)昔に過ぎてしまったけれど、確かに自分にもあんなに悶々とした時期があったよね・・・
と、ドイツ国際平和村の子どもたちのことを話しながら、目の前の子どもたちを、たまらなく愛おしく感じました。
事前に見たビデオは、紛争で傷ついた子どもたちの姿を生々しく映し出し場面もあり、アンケートの中には、
「怖かった」
「無残で残酷で見ていられなかった」
「大人は愚かだ」
というのも沢山ありました。
そして、
「戦争は、絶対にしてはいけないと思った」
「傷つける大人もいるけれど、助ける大人がいるのはすごい」
「自分に出来る事をしていきたい」
「自分が傷ついても、笑顔で生きているのはすごい」
「命を大切にしないといけないと思った」
短い文章でも、一生懸命に書いているのが伝わってきて、読んでいて感動しました。
そして、「いろんな事があって、死にたいと思ったこともあり、今でも生きている意味を見つけられないけれど、平和村の子どもたちをみて、頑張って生きようと思う」と書いている生徒がいました。
ペイ・フォワード倶楽部の活動の中には、ドイツ国際平和村の子どもの事を伝える事で、「平和」について考える機会を提供したい・・という目的があります。
それと共に、日本で生まれ育つ、未来を担う子どもたちが、心も身体も健全に育っていくことにも寄与したい・・という思いも、強く感じました。
昨年、平和村でボランティアをしたときに、アフガニスタンから来たばかりの女の子が、「痒くて眠れない・・」と夜事務所にやってきて、クリームを塗ったときの話をしたのですが、彼女の火傷は全身に広がっており、余りのひどさに
「この子に何の罪があるのだろうか・・?」
「一体、この子が何をしたのだろうか・・?」
「この子が、親から離れて、何故ここに来なければならないのだろうか・・?」
私は不覚にも涙が溢れそうになっていました。
でも、本当に泣きたいのは私ではなく、この子なんだ・・・、そう気がついて
涙を飲み込む事が出来たのです。
そして、彼女はクリームを塗り終わると、「ありがとう」といってベットに戻っていきました。
どれだけの事を伝えられたのだろうか・・と思います。
最後に、
「私が生まれ育った時代と、皆さんが生まれてきた時代とは、ずいぶん違います。しかし、今、この同じ時代に生きている仲間として、共に考えできることが決っとあると思います。」
と締めくくりました。
吹田市立山田東中学校の3年生の皆さん、ありがとうございました。
そして、話をするチャンスを下さった、山田東中学校の先生方に感謝しています。 ありがとうございました。
その1人に、中学校の先生が居られます。その先生が勤務されている学校に招かれ、ドイツ国際平和村のことについて講演をしてきました。最近は総合学習といって、通常の勉強以外のことを取り上げるために、先生以外の一般の人が講師として話す機会もあるとのことです。
対象は、中学三年生約180人。時間は45分。

事前に、ドイツ国際平和村のビデオ(テレビで放映された部分からCMとスタジオの分を除いたもの)を見せて、アンケートを書いてもらっておきました。
ビデオは、千里山で活動されている「千里山ブログ村」の方に編集していただき、大変助かりました。
6時限目ということもあり、体育館の床に座って聞くということで、沢山の生徒が寝るのでは・・・と考えたりもしましたが、それは私の杞憂だったようです。
1、 自己紹介
2、 「子どもエコワールドツアー」のDVD上映
3、 平和村の子どもたちとの出会い〜現地でのボランティア体験
4、 自分に出来ることから「ペイ・フォワード倶楽部の活動」
の順番に組み立てて、話していきました。
多感な年代、自我の形成、進路、友達や親子の関係、はるか(?)昔に過ぎてしまったけれど、確かに自分にもあんなに悶々とした時期があったよね・・・
と、ドイツ国際平和村の子どもたちのことを話しながら、目の前の子どもたちを、たまらなく愛おしく感じました。
事前に見たビデオは、紛争で傷ついた子どもたちの姿を生々しく映し出し場面もあり、アンケートの中には、
「怖かった」
「無残で残酷で見ていられなかった」
「大人は愚かだ」
というのも沢山ありました。
そして、
「戦争は、絶対にしてはいけないと思った」
「傷つける大人もいるけれど、助ける大人がいるのはすごい」
「自分に出来る事をしていきたい」
「自分が傷ついても、笑顔で生きているのはすごい」
「命を大切にしないといけないと思った」
短い文章でも、一生懸命に書いているのが伝わってきて、読んでいて感動しました。
そして、「いろんな事があって、死にたいと思ったこともあり、今でも生きている意味を見つけられないけれど、平和村の子どもたちをみて、頑張って生きようと思う」と書いている生徒がいました。
ペイ・フォワード倶楽部の活動の中には、ドイツ国際平和村の子どもの事を伝える事で、「平和」について考える機会を提供したい・・という目的があります。
それと共に、日本で生まれ育つ、未来を担う子どもたちが、心も身体も健全に育っていくことにも寄与したい・・という思いも、強く感じました。
昨年、平和村でボランティアをしたときに、アフガニスタンから来たばかりの女の子が、「痒くて眠れない・・」と夜事務所にやってきて、クリームを塗ったときの話をしたのですが、彼女の火傷は全身に広がっており、余りのひどさに
「この子に何の罪があるのだろうか・・?」
「一体、この子が何をしたのだろうか・・?」
「この子が、親から離れて、何故ここに来なければならないのだろうか・・?」
私は不覚にも涙が溢れそうになっていました。
でも、本当に泣きたいのは私ではなく、この子なんだ・・・、そう気がついて
涙を飲み込む事が出来たのです。
そして、彼女はクリームを塗り終わると、「ありがとう」といってベットに戻っていきました。
どれだけの事を伝えられたのだろうか・・と思います。
最後に、
「私が生まれ育った時代と、皆さんが生まれてきた時代とは、ずいぶん違います。しかし、今、この同じ時代に生きている仲間として、共に考えできることが決っとあると思います。」
と締めくくりました。
吹田市立山田東中学校の3年生の皆さん、ありがとうございました。
そして、話をするチャンスを下さった、山田東中学校の先生方に感謝しています。 ありがとうございました。
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10月28日、兼ねてより準備を進めてきたイベント、
「Rua Feliz ー千里山平和カーニバル」が、無事終了しました。
秋晴れの一日、沢山の方が来場され、4つの会場でのそれぞれの催しを楽しんでいただけたように思います。
今年のテーマは、「世代間交流」・・・簡単に言えば、沢山の人と交じり合って気軽に交流を持つ事が出来ればいいな〜という事です。
結婚以来、約30年間すんできた町「千里山」。私にとっては第二のふるさとですが、この町で生まれ育った我が子にとっては、「ふるさと」そのものになるわけです。そして、毎日のニュースで、痛ましい事件が報告されているこの頃、「未来を担う子どもたちが、安心して住める町であってほしい。」との願いもあり、町がよくなっていくことや元気になっていく事に何か少しでも役に立てればと、ボランティア団体ペイ・フォワード倶楽部が、2005年に第1回のイベントを開催しました。
毎年、少しずつ成長し、今年は町のいろんな団体が協力して
「Rua Feliz 2007 実行委員会」を立ち上げました。
過去2回のノウハウを提供するという事で、ペイ・フォワード倶楽部が幹事団体となり、私も実行委員長として参加しましたが、本当に沢山の方々の協力があって、大成功したとしみじみと感じています。
朝早くから集まってくださったボランティアの方がた、フリマ・飲食・ワークショップ・パネル展示と約50ブースの出店者の方々、舞台で素晴らしいパーフォーマンスを披露してくださった皆さん、一日中絶える事なく来場くださった皆さん、
ありがとうございました!
そして、忙しい仕事の合間をぬって、協力し合えた実行委員の皆さん、
本当に、お疲れ様でした。
人と人が触れ合う事が、「平和」の原点だと思います。
顔を見て、声を掛け合えば、親近感もわいてくるでしょう。
「平和」は、ごく身近なところから、とっても簡単な事から始まると思うのです。
まだ、3年目を終えたばかりの、「Rua Feliz ー千里山カーニバル」が町のイベントとして、沢山の方の協力で成長していく事を、心から願っています。
「Rua Feliz ー千里山平和カーニバル」が、無事終了しました。
秋晴れの一日、沢山の方が来場され、4つの会場でのそれぞれの催しを楽しんでいただけたように思います。
今年のテーマは、「世代間交流」・・・簡単に言えば、沢山の人と交じり合って気軽に交流を持つ事が出来ればいいな〜という事です。
結婚以来、約30年間すんできた町「千里山」。私にとっては第二のふるさとですが、この町で生まれ育った我が子にとっては、「ふるさと」そのものになるわけです。そして、毎日のニュースで、痛ましい事件が報告されているこの頃、「未来を担う子どもたちが、安心して住める町であってほしい。」との願いもあり、町がよくなっていくことや元気になっていく事に何か少しでも役に立てればと、ボランティア団体ペイ・フォワード倶楽部が、2005年に第1回のイベントを開催しました。
毎年、少しずつ成長し、今年は町のいろんな団体が協力して
「Rua Feliz 2007 実行委員会」を立ち上げました。
過去2回のノウハウを提供するという事で、ペイ・フォワード倶楽部が幹事団体となり、私も実行委員長として参加しましたが、本当に沢山の方々の協力があって、大成功したとしみじみと感じています。
朝早くから集まってくださったボランティアの方がた、フリマ・飲食・ワークショップ・パネル展示と約50ブースの出店者の方々、舞台で素晴らしいパーフォーマンスを披露してくださった皆さん、一日中絶える事なく来場くださった皆さん、
ありがとうございました!
そして、忙しい仕事の合間をぬって、協力し合えた実行委員の皆さん、
本当に、お疲れ様でした。
人と人が触れ合う事が、「平和」の原点だと思います。
顔を見て、声を掛け合えば、親近感もわいてくるでしょう。
「平和」は、ごく身近なところから、とっても簡単な事から始まると思うのです。
まだ、3年目を終えたばかりの、「Rua Feliz ー千里山カーニバル」が町のイベントとして、沢山の方の協力で成長していく事を、心から願っています。
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「脳」についてのミーティングに参加してきました。
「脳」は、ハードの部分とソフトの部分に分かれていて、ハードが悪いので、ソフトが働かないという事です。頭の良し悪しとは、違うのです。
「脳」の形成は、4歳―80%、8歳―90%、16歳―完成といわれ、それ以後は細胞が死滅していくばかり・・・というのが通説でした。しかし、最近わかった事として、「脳は形成と破壊を繰り返す」という事です。
そして、努力して結果を出すのには、「脳」の機能が良い事が大事で、機能は上げることが出来るのですが、それは年齢とは関係がないのです。「脳」は使えば使うほど、ミトコンドリアが増加してエネルギーを供給するそうです。
以前受けた「キップ・ジョンソン博士」の脳のセミナーでは、生活習慣の違う沢山の人の脳の写真を見せてもらいましたが、脳年齢と実年齢とは一致しないという事が良くわかりました。
アルコールの血液への残留は、数時間で消えるようですが、脳には3週間も残留するとのこと。そして、飲酒の習慣のある人の脳細胞は、萎縮しており血流が滞っているのが鮮明でした。
もしろん、喫煙の人の脳は、飲酒の人の脳よりも更にひどい萎縮状態でした。
ニコチンの前頭葉へのマイナスの影響力は、破壊的です。
「前頭葉の下面には人間を人間たらしめるのに必要な「高次の精神機能」を司る領域があり、この部に傷害をうけると、当初は人間としての深みが失われ、性格が変わる程度ですが、障害がすすめば、感情に起伏がなくなり、人格は荒廃し、周辺への無関心・無欲状が目立ってくる」とのこと。この症状の変化は、周りの人が最初に気づくのですが、本人は病気である意識がないそうで、とても怖いですね。
脳の血流が悪くなると、普段はなんともない人が、瞬間的なストレスの為に攻撃的・暴力的になるそうで、これは他人にばかりでなく自分に対してもいえるそうです。
「私は、大丈夫!」と思っていたのが、「危ないかも・・・・」とドキッとしました。
脳を健全に機能させるためにも、良い空気を吸い、良い水を飲み、良い栄養をしっかりと摂取する事ですね。
「脳」は、ハードの部分とソフトの部分に分かれていて、ハードが悪いので、ソフトが働かないという事です。頭の良し悪しとは、違うのです。
「脳」の形成は、4歳―80%、8歳―90%、16歳―完成といわれ、それ以後は細胞が死滅していくばかり・・・というのが通説でした。しかし、最近わかった事として、「脳は形成と破壊を繰り返す」という事です。
そして、努力して結果を出すのには、「脳」の機能が良い事が大事で、機能は上げることが出来るのですが、それは年齢とは関係がないのです。「脳」は使えば使うほど、ミトコンドリアが増加してエネルギーを供給するそうです。
以前受けた「キップ・ジョンソン博士」の脳のセミナーでは、生活習慣の違う沢山の人の脳の写真を見せてもらいましたが、脳年齢と実年齢とは一致しないという事が良くわかりました。
アルコールの血液への残留は、数時間で消えるようですが、脳には3週間も残留するとのこと。そして、飲酒の習慣のある人の脳細胞は、萎縮しており血流が滞っているのが鮮明でした。
もしろん、喫煙の人の脳は、飲酒の人の脳よりも更にひどい萎縮状態でした。
ニコチンの前頭葉へのマイナスの影響力は、破壊的です。
「前頭葉の下面には人間を人間たらしめるのに必要な「高次の精神機能」を司る領域があり、この部に傷害をうけると、当初は人間としての深みが失われ、性格が変わる程度ですが、障害がすすめば、感情に起伏がなくなり、人格は荒廃し、周辺への無関心・無欲状が目立ってくる」とのこと。この症状の変化は、周りの人が最初に気づくのですが、本人は病気である意識がないそうで、とても怖いですね。
脳の血流が悪くなると、普段はなんともない人が、瞬間的なストレスの為に攻撃的・暴力的になるそうで、これは他人にばかりでなく自分に対してもいえるそうです。
「私は、大丈夫!」と思っていたのが、「危ないかも・・・・」とドキッとしました。
脳を健全に機能させるためにも、良い空気を吸い、良い水を飲み、良い栄養をしっかりと摂取する事ですね。
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今日、夕方のニュースで、べトちゃんが亡くなったことを知りました。
ベトちゃんドクちゃんは、ベトナムで下半身がつながった結合双生児として1981年2月25日に産まれた双子の兄弟で、お兄さんがグエン・ベト弟がグエン・ドクという名前で、26歳です。
二人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯葉剤の被害者で知られ、そのショッキングな姿は特に日本でベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられました。ベトちゃんが急性脳症となったことを契機として二人は分離手術が実施され成功し、ドクちゃんは病院事務員となり結婚をした事も、報道されました。しかし、ベトちゃんは分離手以後は、病院で寝たきりの状態でした。
6月にベトナムを訪問し、めざましい経済復興を始めている状況を目の当たりにし、長い侵略の戦争から立ち上がっていくベトナムの人たちのすごいエネルギーに感動しました。
しかし、その反面、豊かな緑が開発でなくなっていくのでは・・・という危惧を感じたり、町に買い物に出た時に出会う「障害を持った人」の多い事に驚かされたりもしました。
戦争博物館で展示してあった写真(戦争被害のごく一部です)には、ベトちゃんドクちゃんのような戦争被害を受けた沢山の子供たちが映っていました。
本来なら、その「命の誕生」を無条件に祝福できるはずだったのに、両親や本人から無残にも奪い取った「戦争」というもの、人間が作り出した「化学兵器」というものに対して、同じ人間として恥ずかしく、悲しく、大きな憤りを感じました。
枯葉剤の被害を受けた土地は、今は緑は戻ってきていますが、大地に散布された枯葉剤は、化学薬品であるがゆえに、まだまだ自然に帰ることがなく、そこで収穫される作物などは、枯葉剤の影響が今も尚あるとのことですし、所得の低い市民は安い野菜を買っているとのことです。
「戦争」は本当にいろんなものを破壊してしまいます。
この地球の歴史が始まってから、絶えた事にない「戦争」
今、このときも、傷ついている子どもたちが、この地球上にいる事
ベトちゃんが生まれてきた意味を、「ベトナム戦争被害のシンボル」として位置づけてしまうのでは、「戦争」を是認してしまう事につながるように思えます。彼が26年間、私たちに送り続けたメッセージは、まさに「平和の渇望」に尽きるのではないでしょうか。
ご冥福を、お祈りします。
ベトちゃんドクちゃんは、ベトナムで下半身がつながった結合双生児として1981年2月25日に産まれた双子の兄弟で、お兄さんがグエン・ベト弟がグエン・ドクという名前で、26歳です。
二人はベトナム戦争時にアメリカ軍が大量に散布した枯葉剤の被害者で知られ、そのショッキングな姿は特に日本でベトナム戦争被害のシンボルとなり、様々な支援の手が寄せられました。ベトちゃんが急性脳症となったことを契機として二人は分離手術が実施され成功し、ドクちゃんは病院事務員となり結婚をした事も、報道されました。しかし、ベトちゃんは分離手以後は、病院で寝たきりの状態でした。
6月にベトナムを訪問し、めざましい経済復興を始めている状況を目の当たりにし、長い侵略の戦争から立ち上がっていくベトナムの人たちのすごいエネルギーに感動しました。
しかし、その反面、豊かな緑が開発でなくなっていくのでは・・・という危惧を感じたり、町に買い物に出た時に出会う「障害を持った人」の多い事に驚かされたりもしました。
戦争博物館で展示してあった写真(戦争被害のごく一部です)には、ベトちゃんドクちゃんのような戦争被害を受けた沢山の子供たちが映っていました。
本来なら、その「命の誕生」を無条件に祝福できるはずだったのに、両親や本人から無残にも奪い取った「戦争」というもの、人間が作り出した「化学兵器」というものに対して、同じ人間として恥ずかしく、悲しく、大きな憤りを感じました。
枯葉剤の被害を受けた土地は、今は緑は戻ってきていますが、大地に散布された枯葉剤は、化学薬品であるがゆえに、まだまだ自然に帰ることがなく、そこで収穫される作物などは、枯葉剤の影響が今も尚あるとのことですし、所得の低い市民は安い野菜を買っているとのことです。
「戦争」は本当にいろんなものを破壊してしまいます。
この地球の歴史が始まってから、絶えた事にない「戦争」
今、このときも、傷ついている子どもたちが、この地球上にいる事
ベトちゃんが生まれてきた意味を、「ベトナム戦争被害のシンボル」として位置づけてしまうのでは、「戦争」を是認してしまう事につながるように思えます。彼が26年間、私たちに送り続けたメッセージは、まさに「平和の渇望」に尽きるのではないでしょうか。
ご冥福を、お祈りします。
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習い始めて9ヶ月。展覧会に出品するとのことで、良くわからないままに、自分の好きな字を選んで、先生に自体のデザインをしてもらい、何とかまねをして書いたのが、「秋桜」。

書けば書くほどにわからなくなって、適当に書いてしまったり・・・
それではいけないと、気を取り直して真剣に書いたり・・・
多分、20枚以上は書いたでしょうが、その中から先生が選んで展覧会に出品したのが写真の書です。
そして、生まれて初めて、書道で「賞」をいただきました。

総 本 山 金 剛 峯 寺
弘法大師賛仰 高野山書道協会
というところに、お世話になっているという事を、書状をいただいて初めて知りました。
しかし、長く習っている方に言わせると、作品を提出すると、賞状はいただけるとのこと・・・
何はともあれ、人生初めてというのは、記念すべきものなので、大事にとっておきまする。

書けば書くほどにわからなくなって、適当に書いてしまったり・・・
それではいけないと、気を取り直して真剣に書いたり・・・
多分、20枚以上は書いたでしょうが、その中から先生が選んで展覧会に出品したのが写真の書です。
そして、生まれて初めて、書道で「賞」をいただきました。

総 本 山 金 剛 峯 寺
弘法大師賛仰 高野山書道協会
というところに、お世話になっているという事を、書状をいただいて初めて知りました。
しかし、長く習っている方に言わせると、作品を提出すると、賞状はいただけるとのこと・・・
何はともあれ、人生初めてというのは、記念すべきものなので、大事にとっておきまする。
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贈呈式(孫からのプレゼント)

娘の発案で、還暦を迎えた夫の誕生日のお祝いをしました。
長女の働いている、ホテルモントレー大阪の一室を借りて、日本料理(長女からのプレゼント)に舌鼓を打ちながら、久しぶりに家族で過ごしました。
お料理は、娘が「お任せ」で注文してくれたのですが、味はもちろん美味しい!のですが、彩りや盛り付け方などでも大変楽しませてもらいながら・・・
すぐに、お腹が一杯になるのが、やはり悲しくって・・・
付きだしの次に出てきたのが、大きな「鯛の塩焼き」
これは、10人で食べても多分食べきれないだろうという立派なもので、「もったいない」という、主婦の感覚がむくむくと湧き上がり、美味しい事もあり、何回もお代わりをして、これで結構お腹が一杯になったしまったような・・・悲しい!
それから、次々といろんなお料理が出されましたが、でも、今日は最後まで見事に完食できました。
途中で出てきたのが、

もちろん、鯛やあわびやイカ、うにのお刺身は美味しかったのですが、お皿にビックリ!
ナント、これは、氷でできているのです。 すごい!ですね。
そして、長男と二女のプレゼントが、アイポットの充電機で、それにあわせて、私はアイポットの4Gをプレゼントしました。
日ごろは、淡々としている夫も、みんなにお祝いをしてもらって、うれしそうにしていて、それを見ている私も、幸せを十分感じたひと時でした。
しかし、結婚したときは、28歳だったのに、いつの間にか60歳に・・・・
子どもたちが大きくなるはずですね・・・。

娘の発案で、還暦を迎えた夫の誕生日のお祝いをしました。
長女の働いている、ホテルモントレー大阪の一室を借りて、日本料理(長女からのプレゼント)に舌鼓を打ちながら、久しぶりに家族で過ごしました。
お料理は、娘が「お任せ」で注文してくれたのですが、味はもちろん美味しい!のですが、彩りや盛り付け方などでも大変楽しませてもらいながら・・・
すぐに、お腹が一杯になるのが、やはり悲しくって・・・
付きだしの次に出てきたのが、大きな「鯛の塩焼き」
これは、10人で食べても多分食べきれないだろうという立派なもので、「もったいない」という、主婦の感覚がむくむくと湧き上がり、美味しい事もあり、何回もお代わりをして、これで結構お腹が一杯になったしまったような・・・悲しい!
それから、次々といろんなお料理が出されましたが、でも、今日は最後まで見事に完食できました。
途中で出てきたのが、

もちろん、鯛やあわびやイカ、うにのお刺身は美味しかったのですが、お皿にビックリ!
ナント、これは、氷でできているのです。 すごい!ですね。
そして、長男と二女のプレゼントが、アイポットの充電機で、それにあわせて、私はアイポットの4Gをプレゼントしました。
日ごろは、淡々としている夫も、みんなにお祝いをしてもらって、うれしそうにしていて、それを見ている私も、幸せを十分感じたひと時でした。
しかし、結婚したときは、28歳だったのに、いつの間にか60歳に・・・・
子どもたちが大きくなるはずですね・・・。
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