2011年11月19日(土)東洋大学白山キャンパスで開かれた白山人類学研究会第5回研究フォーラム「跨境コミュニティにおけるアイデンティティの持続と再編――東アジアと東南アジアからの展望」(代表:松本誠一
写真)において講演し,討論したものが昨日届きました。抜き刷りを誰に送るか選別は難しい。ここに抜粋文を載せる。
「植民地朝鮮における日本人の無住地への移住」
私は戦前に生まれ戦後に育った。中高時代には文学少年,評論を目指して小説を多く熱読した。特に李光洙や沈薫などの郷土愛の小説作家の作品を多く読んだが,ずっと後になって彼らが親日作家と非難されたことを知ってショックであった。中学校の音楽担当の安丙元先生は有名な童謡作曲家として,国民的歌謡である「統一の歌」の作曲者であったが,先生のお父さんは植民地時代のプロパガンダ映画監督の安夕影氏であり,国民的に愛称される「わが故郷(나의 살던 고향)」の作曲家の洪蘭波氏とともに親日派と非難された。私はそれより非難する人々に失望したものである。植民地遺産とは何だろうか。それは肯定的であれ否定的であれ継続して受け継がれている。私が尊敬した評論家の白鉄先生も親日派と非難されることがあった。私も「新親日派」といわれたことがある。しかしいつの間にか韓国では親日的な人が多くなっている。
戦後韓国は反日,反共を建国理念としてきた。日帝植民地の負の遺産から始まった戦後の歴史である。終戦記念日などには,日本時代のものにそっくりの花電車にハングルで「祖国の解放と独立,万歳」などと書かれ、飾られていた。花電車で祝う行事も日帝時代のもの,そのままであった。政府は日帝残滓清算などの政策を取りながら日本の植民地遺産を温存させ,新しく日本文化を取り入れた。また新しく「愛国主義者」と叫ぶ人が輩出し,彼らは固有伝統文化を優先するナショナリズムを強化した。植民地の遺産の継続と断絶が混在して,日本を名目にして「反日」と「親日」などが存在し,日本という実態とは関係なく,韓国国内における分派と非難や攻撃をしあうようになった。そこで私は日本植民地の遺産とは何かを研究し始めた。否,韓国では植民地研究がなかったわけではない。ただそれは独立運動史的な類であった。日帝に反抗してきた独立運動や抗日運動などが強調され,独立運動史的、抗日運動史的な研究はあっても、日本文化などを客観的に研究することは親日的事柄の煩わしさで避けてきた。その研究がいくら実証的で精緻なものであっても,国家のイデオロギーに沿ったもう一つのプロパガンダ的な研究に見えて,私には近代学問として理解することができなかった。
私は,韓国固有伝統文化を尊重する国家政策に乗っ取って,全国民俗調査に参加した。その初年度1968年の調査は,伝統文化が豊富に残っているという全羅南道から始まったのである。全南大学校湖南研究所の推薦で伝統文化が豊富に残っている離島の麗川郡巨文島に行った。巨文島は三つの島からなっているが,そのメインの島の巨文里は戦前には典型的な日本人村であったが,戦後は韓国各地から移住してきた人々が大部分を占める島である。当地に到着して,離島ではあるが,古い伝統が残っているという民俗調査地としては適当ではないことが,調査者たちにわかった。調査団は,日帝時代の遊郭であった旅館に滞在しながら調査を行った。なぜこの島が日本人村になり,遊郭が多かったか疑問があった。しかし短い期間であり,しかも伝統的な民俗文化調査とは異なることで,それについては調査することはなかった。
私は,伝統文化の代表的な巫俗研究を理論的に研究するために日本に留学し,そして韓国に帰国してからは日本文化の研究へ転換しなければならなかった。日本学科の教員として,植民地の負の遺産は大きい重荷であった。それを正面から研究すべく,反日,運動史的なものではなく,客観的な研究を意図したのである。1968年夏,韓国民俗総合調査の時,泊まったことのある全羅南道の巨文島を思い出した。当時辺鄙な離島には古い伝統文化が多く残っていると思った主催側を失望させたその島は,日本時代に栄えた日本人村であった。調査団には当時泊まった旅館が日本時代の遊郭であったということは皮肉であった。周知のように1980年代は反日感情が激しく,初めて訪問した1968年からちょうど20年後の1988年に,わたしは学者と学生をメンバーとして巨文島調査団をつくり,調査を行った。社会的には反日ムードが高い中,植民地経験者たちへのインタビュー調査では,日本に対して非常に肯定的なイメージを持っていることがわかってびっくりさせられた。当時の反日的な雰囲気の中で植民地主義的研究とは「現代社会への影響を批判的に考察し,旧宗主国の責任追及」をするような研究になるのではないか思ったが,事実は植民地支配を正当化するような結果になるのではないかという思いもあった。
トヨタ財団の助成金によって現地調査を行った。さらに朝鮮総督府調査資料の翻訳などを行った。巨文島で調査中,ある住民から日本から届いた日本語の手紙を読んでくれと言われた。内容は終戦の時に韓国人に預けた家の代金をいくらか支払ってくれないかという内容だった。村では日本人の引き揚げの時,「日本まで人と荷物を船で送ってあげた」という話が聞けた。日帝時代にも兄弟のように一緒に仲良く過ごしたという話は日韓両側から聞けた。
植民地直接体験者は少数であり,記憶も薄れていく一方,その歴史は再生産される。国や社会レベルにおいては憎しみが正当化され,反日感情と民族主義は日本を憎むほど自国を愛するという雰囲気の中で日本を憎むようになった。私が知っている韓国の民族主義者、いわば愛国者は,非常に個人的な見方ではあるが,彼らは人間として愛情深き人とはとても思えない,あるいは人類愛を感じさせる人ではないと強く感ずる。つまりどちらかというと人を憎むタイプの人が多い。
一方,日本の引き揚げ者との連絡をとってみたりして,日本の山口県の引き揚げ者を訪ねることができ,研究を進めた。その報告書を日韓で出した。日本人が朝鮮半島南部へ移住して移住漁村を作り朝鮮人と協力して漁業をし,戦後の日本への引き揚げた過程を調査し,それと関連して『朝鮮の風水』[村山智順 1931; 최길성 1990]を韓国語に翻訳した。また『親日と反日の文化人類学』[崔 2002]や『危険な日韓関係:親日と反日』[최길성 2004](韓国・多楽園,2004年)などにまとめ,日韓両国において客観的な植民地研究の必要性を訴えてきており,『日本植民地と文化変容』[崔編 1994]などを出版した。
その後に韓国,サハリン,旧満州,台湾および南洋に関する資料収集と現地調査を行って,『映像が語る植民地朝鮮』[崔 (韓国語)2010]と『映像の植民地朝鮮』(風響社,近刊)などの成果を出してきた。日本学術振興会の補助金によって1999年からサハリンの朝鮮人の研究,旧樺太・現サハリンにおける朝鮮人の研究において警察文書の分析をし,現地調査による研究『樺太朝鮮人の悲劇』[崔 2007]を出版し,台湾との比較研究などを進め,『植民地の朝鮮と台湾』[崔・原田編 2007]を出版した。学術振興会補助金により西日本から朝鮮半島へ植民・移住し,「日本村」(広島村,岡山村など)を作り,戦後引き揚げてきた人々の記憶や記録などの研究をしており,シンガポール,インドネシアなど東南アジア,アイルランド,南アフリカなどの西洋植民地の状況を把握して,日本植民地との比較研究も進めている )。
そのたびに私は親日的だと非難された。それが,私が親日派になった道のりである。植民地への関心は脱価値論的に始まったが,結局は韓国の反日思想との戦いになった。その「反日」は日本への反対ではなく,韓国の国内で人を憎む手段にする人が多いことを感じた。本当は親日的な人がいて,反日的な人がそれぞれ存在するはずであるが,実は反日的な人が親日的な人を非難,攻撃するのが普通である。韓国では植民地遺産は「不浄」であり,浄化するということで「日帝残滓清算」といわれ,そこで育ったチルドレンのナショナリズムが日韓関係に障害になっている。当時,日韓両国において植民地研究には躊躇するところが多かったが,これらの研究は,特に日本植民地資料の出版へのタブーを完全に破った画期的なものになったことは自他ともに認めている。