崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「興夫伝」

2012年06月15日 04時40分45秒 | エッセイ
 

 燕が巣を作り,卵が孵化し、巣立つ季節である。同僚の山本氏が元気不良な一匹の燕を拾ってきて研究室に相談に来た。後に彼は鳥籠と餌を買ってきて綿棒で水を飲ましていた。翅の傷には軟膏を塗って臨時処置をしていたが、宇部の動物保護所に持っていくという。、大事に保護を受けている姿は幸せな燕であると感じ、早く元気になって広い空を自由に遠く飛ぶようになってほしいと願う。一方小さい命を大事にする彼の純粋な心には感動した。
 韓国では燕は神秘的な親しい鳥である。農村の我が家の軒には毎年巣を作って巣立って行った。燕に触るとマラリアになるといわれ、保護されていた。また、燕を大事にしてあげると恩返しされるという話が伝承されている。古典名作「興夫伝」は病気の燕を治療してあげたら、ヒョウタンの種を持ってきてくれてヒョウタンの中から金銀宝物が出て金持ちになったという恩返しのストリーがある。心やさしい人が豊かになってほしいという願望を物語っている。実社会ではその逆でなかなかそうはいかない。
 

「文化探訪体験、韓国語・文化の市民講座」

2012年06月14日 05時10分43秒 | エッセイ
日韓親善協会連合会が計画している「文化探訪体験、韓国語・文化の市民講座」の準備会が昨日(2012.6.13)11時~12時、下関韓国教育院にて行った。連合会から専務理事の石本弘之氏、同常任専務の伊藤巧氏、教育院長の金起萬氏、講師の奈良美香氏そして私が参加した。長い間日韓関係が悪くぎくしゃくした時代には「親善」の意味が重かったが、今はその時代とは違って、親善を深めることが会議のポイントであった。9月から10回、韓国語をメーインにして衣食住、民俗、芸能まで幅広く講義をし、船上講演、韓国文化探訪などを経て、修了証を与える企画である。成功するかは未知であるが、ただ下関市民の韓国へ関心が高いので「楽しい韓国文化論」ができるという信念で市民のご協力を得て実行したい。
 今では日韓親善はかなり良くそれを深めようとする段階なのに「日朝親善」が欠けていることはとても残念である。日本政府が北朝鮮を敵対することとは違って民間レベルでの親善活動のチャンネルがあっても悪くない。軍事独裁のビルマ(ミャンマ)が最近開放、民主化へ傾いたことはいろいろ国際的なチャンネルによる影響が大きかったと思う。日朝関係改善に今の政治家には期待できないので朝鮮総連系の「在日」の方々と共に日朝親善協会のようなものがあってもいい。(写真:左から金、伊藤、私、奈良、石本)

耳が遠い

2012年06月13日 05時06分47秒 | エッセイ
 歳をとって耳が遠くなっているのは自然と言える。しかし私は60代の初めから左耳が遠くなって補聴器を使っている。補聴器は高音などを聞くだけで音声をキチンと聞くわけではない。それでも危険な音などをキャッチするので重要な機能をしていると思う。私のように片方の耳が遠い人は結構いる。私の左、相手の右の場合は互いに都合がよいが、逆になると互いに不都合になる。
 昨日新老人会長の林三雄先生から電話をいただいて嬉しかった。先日先生は今年91歳であるが演壇で大きい声で励ましのご挨拶を述べた方である。しかし耳が遠いので息子さんが通訳(?)として同行して人に会うことが多い。私は受話器で大きい声で対話をした。「先日にはたくさんの方々が集まり、とても好評でしたし、林先生のご挨拶はすばらしかった」と私が過去型で話すと彼は「これから頑張ろう」と未来型で話される。いろいろ話したが、結局正しい対話に至らずかみあわないで終わった。耳が遠くても積極的な人間関係をしている。私は彼に励まされた。

家内の初出勤

2012年06月12日 00時03分53秒 | エッセイ
 家内が転倒して肋骨2本骨折、手指の骨折、顔などが怪我して1カ月間療養して初出勤した。回復したことは嬉しく、また仕事が心配であった。ちょっと辛かったようであるが無事退勤して安心した。私は自分の持病にも気を遣うようになった。肺が弱く、深呼吸のために笛などを吹くことがある。先日フルート演奏を聞いて帰ってから笛を吹いてみた。鉄製のフルートより竹製品の笛の音がよいと、改めて笛の音の軟さを感じた。
 私は60代まも早足だと言われ、階段を2段ずつ登ったが、今は歩くだけで精一杯である。電車などでは老弱席、エスカレーターやエレベーターなどを利用するようになった。約束した原稿もなかなか進まない。このように後期高齢者に向かっていくのである。そこで先日日野原先生が100歳なのに1時間たって講演し、さらに、3人の子供を次々と抱いてあげたことを思い出す。

「日本はまだ先進国である」(東洋経済日報へ連載エッセー)

2012年06月11日 05時37分35秒 | エッセイ
先日、朝から大邱市内を歩き、時間ぎりぎりで私の人生の最も活動期である40代に13年間勤めた大学、今は大学天国のような3万人の学生が学んでいる啓明大学校を訪問し、申一熙総長を表敬訪問した。申総長とは難しい1980年代を一緒に苦労し、克服した歴史を共有した経緯があり感慨深かった。教員たちの招待午餐、そこから直接、演壇に立った。大きい講堂で150余人の学生,諸先生方の前で緊張しながら語った。食事のすぐ後で聞く学生たちも大変だったと思うが良く聞いてくれた。日本の大学では一般的な私語をする学生は一人もいなかった。
日韓を往来しながら事業する人から聞いた話、韓国のサンスンのスマートフォンなどの成功によって韓国が電子商品など技術的に日本を追い越して、「日本はすでに先進国の座を譲った」という話を基にして語った。主婦たちは過去人気の高かった日本製の電気炊飯器はもう要らない、韓国製圧力炊飯器は最高だと強い調子で言っていた。家庭生活の改革の3神器ともいえるテレビ、冷蔵庫、洗濯機に日本製の技術は勿論、サービスまで韓国のほうが優位だと思っている。韓国は経済成長や活気の溢れる青年時期といえる。このような一般的な言説を例にして話を進めた。
青年期の韓国に比べて日本は老年期であり、日本が韓国に負けているのは当然といえば当然であろう。青年と老人は比較することができない。なぜなら青年は必ず老人になるからである。つまり韓国も日本のようになるということである。老人差別は差別とは言えないほど自分に戻ってくるものである。私はいつも若いと言われ、自分自身も若いと思ってきたがすでに老人になっている。青年期に老後を考えなければならない。青年たちの敬老思想は旧態の因習だと非難しても、老人になって敬老思想が弱いなどと嘆いても意味がなく、老人が敬老思想を訴えても遅すぎである。韓国もすでに高齢化ガ進んでおり、若い韓国がすぐ老国になることへの警告でもある。
私は講演で「日本はすでに先進国ではない」の逆説に「日本はまだ先進国である」と論じた。私は二つの例を挙げた。一つはバスを例にした。ノンステップ、座席毎に降りることを知らせるボタンがあり、「止まります。危険ですので止まってからお立ちください」とアナウンスがあり、運転手が客の状況をみながら運転すること、もう一つは道路などの段差をなくす工事など高齢者社会への対応などでは日本は先進国であると主張した。これは少子化と高齢化が早く進む韓国にとって良い老人天国モデルを提供しているのではないかということと、高齢化社会の福祉などで老人天国型先進国であると述べたのである。
 3万人のいる啓明大学校の経営関係者と教授らと歓談をした時に日本の大学が少子化に伴って苦労することを例にして、韓国は大型大学から小規模へ、質を高めることを提案した。日本の大学は小規模な教育、寺塾精神に戻り、人性教育などを含め、教育の質を高める良いチャンスとして充実すべきである。
(私の隣が申総長)

堀まどか著『「二重国籍」詩人野口米次郎』(名古屋大学出版会)を読んで

2012年06月09日 21時56分55秒 | エッセイ
 久しぶりの精読の本、堀まどか著『「二重国籍」詩人野口米次郎』(名古屋大学出版会)。韓国巨文島生まれの堀麗子氏の孫のまどかが書いた564ページの分厚い本を彼女の父であり、麗子の息子である画家の堀研氏が送ってくださった。堀家とは私が植民地研究をはじめてからの縁があり、長い付き合いであるが、まどか氏とはまだ面識がない。彼女の母から詳細に研究状況は聞いて分かっていたはずであるが大著を前にして、お礼を書くつもりで読み始めた。しかし没頭してしまった。
 「二重国籍」の詩人、英語と日本語のバイリンガー、両側から評価が低いという点に重点をおいて読んだ。西洋と日本のどちらにも属していないという詩人の野口米次郎への著者まどか氏の再評価とは何か。つまり日本の国文学史から消された「世界的詩人」の生涯・思想・作品を照らし明らかにしたということはナショナリズムの強い閉鎖的な日本の国文学から低く評価され、否、除外されたような文学者に対して「境界人」をキーワードにして国際的視野から照明したものはなにか。
 大変恐縮なことであるが私は偉大な詩人を自分に照らし合わせざるを得なかった。私は日本と韓国の間で「二重文化」のバイリンガーであり、いまだに日本語には自信がない。彼が「僕は日本語にも英語にも自信が無い」と言ったように私は日本語が下手だと言われたことがある。でも最近は堂々と話し、書く。韓国では「親日」と侮辱され、日本では「反日的」にいわれることもある。一方彼は「その国の人々に許されない自由が許される」という言葉のように私も自由である。たとえば時に失敗しても多めに許されることがある。しかし小さいことを知らないということで変に思われることもある。この本には意外に彼の植民地に関する論評や言及が紹介されている。日露戦争が満州や朝鮮を守るための戦争と言ったり、日本の韓国併合に異論を発表したりした。大東亜共栄圏や八紘一宇を国際的に肯定し、結局「戦争詩」を書く国粋主義者とされ、戦後戦争責任を問われ、文学史から消えていったのである。
 この著書は作家論でありながら近代史的伝記のように見られるが、日本の国文学への批判、批評として重要な意味があろうと思う。それはまず文学は文学としてつまり彼の「詩」のトータルな評価はどうであったか、もう一つは国際的な視野、時代性を反映する文学として評価されるべきであろうが、その点はどうであろうか、本書を通して日本文学「国文学」に反省を求めるようなメッセージを受け取ることができた。その点、著者に直接会って詳しく聞いてみたい気持ちに満ちている。

リスクを避けず、挑戦

2012年06月09日 05時18分36秒 | エッセイ
 野田佳彦首相が昨夜記者会見で大飯原発の再稼働の必要性を国民に訴えた。「原発全面廃止」が社会正義のように平和運動(?)をし、世論も全くそのように傾いているのをテレビでみて私は内心苦笑していた。多くの世論や社会運動を見て、考えているので私は世論をあまり信用しない。戦前のナチスや日本の軍国主義に反抗した人は数少ない。その当時、運動や世論はどうであったか。加藤周一氏はその時反対せず黙っていた知識人について「ごまかし」と批判した。植民地についても同様である。その植民地時代を忠実に(?)生きて来た人間が戦後になると反植民地主義者のように批判する。それはリスクがない批判や社会運動である。戦後の平和時代に大通りで反対運動をする人を見ても私は賛同しない。「平和時代に平和を叫ぶ」ことが偽善ではなく、本当に意味深いことになって欲しい。原発廃止運動や世論について私が苦笑したのは、森林を伐採して家を建てた人が他人が新しく家を建てようとすると「自然破壊」と反対する人をみている気持である。
 原発は「絶対安全」に対してリスクが大きいことは私も不安と思う。しかしリスクを避けるのではなく、リスクに挑戦しなければならない。人類はリスクと戦って発展してきたのである。今夏になり節電に脅威されて原発再稼働へと世論が変わり始めた。蝋燭や灯火のロマンに戻りたくはないのだろう。もちろんそれだけではないだろう。口を揃えて原発反対といったコメンテーターたちが論調を変え始めた。知識や判断力のバランスが取れていない評論家たちによって社会がいつも混乱させられていると痛感しているところである。
 

労働の質

2012年06月08日 05時55分03秒 | エッセイ
 我がマンションの隣の建物を壊している。数日前から建物の周りの竹林を切ったり足場を組んだりしていたが2台のフォークレーンが来て作業する現場を見守った。足場を組み、防音カーテンで建物の周りを囲って騒音や粉塵を最小限とする。フォークレーンが入る時アスファルトに傷がつかないように鎖車が通る前にゴム製のタイやを敷いて移動する。フォークレーンの蟹のハサミのようなものが首を伸ばしてセメント構造の建物を壊していく。二つのホースから水をかけながら工事が進む。見るだけで面白い。
 中国などを旅行した時、大勢の人がそのような現場を見ているのを暇な人が多いと皮肉に思ったことがあったのに私も暇人になったようである。高校生の時韓国の農村文学の李無影先生がイギリスで道路工事の現場を観察して先進国の仕事ぶりを講演の時話していたのを思い出す。人件費の安いロシア人が玄関前の氷を一日かけて除去する仕事ぶりを観察したことがある。ただの時間つぶしの仕草に過ぎない。アメリカの黒人の芝刈りの様子は質高い労働ぶりであった。日本での工事は大げさと思うほど慎重で真面目である。発展途上国であった韓国などでは無理に道路を遮断したり迷惑をかけたりしていた。橋や百貨店などが崩壊されて人命を失ったことが多かった。
 私は工場の仕事をしたことはないが、仕事ぶりや労働の質が先進国を図るバロメーターかも知れないと思う。小さい仕事が工場の製品の価値を決める。現場を見ながら自分の仕事ぶりはどうかと思いめぐらす。

長寿の秘訣

2012年06月07日 04時25分08秒 | エッセイ
 昨日日野原重明先生の「100歳記念講演会」が新老人の会山口支部(林三雄)主催で下関市の市民会館で開かれた。日野原先生は山口市生まれ、山口県とは縁が深い。今回の講演は、山口支部設立4周年の記念フォーラムとして開催、テーマは「長寿の秘訣-100歳をどう生きてきたか」。入場料千円で早くから1400人席満員。100歳になってからファッションを変えようとして髪を伸ばしているといわれた。肺結核で1年入院療養生活中に作詞、作曲などを勉強されたそうである。運命的な試練を自分で克服し、生き抜いてきた事を語り、これから110までのスケジュールも詰まってきており、これらのスケジュールは単なる予約ではなく、神様との契約であり、簡単に変更できるものではないと語っておられた。彼はキリスト教的言葉は出さずキリスト教精神、人生観を語った。2部ではミニコンサート山形由美さんのフルート、ギタリストの荘村清志さの演奏による「浜辺の歌」などの演奏、続いて下関少年少女合唱隊の清く愛らしい合唱、最後に日野原先生の指揮で聴衆も全員参加で故郷「ふるさと」を大合唱して盛り上がった。
 日本には100歳以上が4万8千人、山口県だけでも300人近い。彼は立ったまま1時間講演、小学校中学校、大学校の同級生は全部死んで一人自分だけが残っているという。日野原先生のお話は生きる意欲を感じさせ、自分史などが往来している話であるが聴衆は熱烈に拍手と笑い声を送る。彼は死を超越した仙人のように感じられた。彼は現役で医療に従事しておられ、死から復活したような存在のように感じたのはなぜであろうか。普通100歳以上の高齢者からは感じられないものを感じさせ、生命力を発信する。その長寿の秘訣は医師としての知識はもちろんのこと、信仰の力も大きく作用しているのではないだろうか。

「待つこと」

2012年06月06日 04時55分18秒 | エッセイ
 昨日離陸後40分で着陸、帰国した。旅行する時「待つこと」が多い。長蛇線の後ろに立っていると待つことが大変退屈に感ずる。特に海外旅行ではかなりトランジットに長い時間になることもある。それだけではない。日常的にエレベーターを待つことはただ数十秒でも退屈に感ずる。その退屈さとは無駄な時間、時間の消失という嫌な気分が奥に横たわっていると言える。時間がお金、タイムイズマネーtime is money という経済的な表現もあるが、「退屈」を追放しようとする人間の幸せを求める基本があるのではないだろうか。
 時間を大事にするその現代人が旅行などでは時間を浪費することが平気である。観光旅行は幸せな感動を受ける文化体験であるから盛んであるが、その関係者や業者たちはお客さんに退屈させないように努力してほしい。列の中に立っている時にも楽しめる環境を工夫すべきである。ディズニー氏がディーズニランドを創る時にはその退屈を無くすという創立精神で創り上げたという。個人にとっても退屈な時間は無くすべきであろう。

日本は「老人天国型先進国」

2012年06月05日 04時54分32秒 | エッセイ
 朝から大邱市内を歩き、ぎりぎり啓明大学校の総長を表敬訪問した。ここが、私が人生のもっとも活気のある40代に13年間勤めた大学、今は大学天国のような3万人の学生が動いている。申一熙総長とは難しい1980年代一緒に苦労し、克服した歴史を共有して感慨が深かった。12時から日本学科の教員たちと昼食を取ってそのまま演壇に立った時は声が出にくくすでに疲れていた。大きい講堂で150余人の学生,諸先生方がいた。レジメを部分的にを拾いながらの講義になってしまった。パーワ―ポイントも使った方が良かったと思った。食事のすぐ後で聞く学生たちも大変だとは思うが良く聞いてくれた。私語は一人もいなかった。私は韓国でサンスンなどの成功によって韓国が日本を追い越して、「日本はすでに先進国ではない」という一般的な言説を例にして日本はまだ先進国であると言いきった。それは高齢化社会の福祉などで老人天国型先進国であるということである。韓国もすでに高齢化ガ進んでいること、若い人がすぐ老人になることへの警告でもあった。
 日本人教員の二人を含め日本学科の先生方との歓談、水城大学校の教授たち、郭病院の理事長夫妻の招待晩餐などでは楽しかった。しかし、ハードなスケジュールで完全に疲れた。今日は日本に帰国して大学で講義、忙しく、楽しい、短い旅は終わる。
 
 
 

八公山

2012年06月04日 06時11分53秒 | エッセイ
30分飛行、釜山に着陸、崔鐘声氏が迎えに来てくれ大邱に到着し啓明大学校の教え子たちが集まって、堅く断っても八公山へ行こうとする。訳があった。卒業生の一人の白君の家に行くというので行ってきた。銀行のセンタ長、大学講師、会社の社長など6人の歓迎を受けた。白君の家は山の中に600坪の敷地に2軒の建物の家、暗い庭に朝鮮赤松数本が照明されている。私のブログを読んでくれる人がいて我が夫婦の近況は大体知っている。私は彼らの変化を聞きたくしばらく聞き手になっていた。
 先生とはなにか、師弟関係とはなにか。なぜ私が彼らの前に偉そうに歓迎されるのか。日本ではない古い慣習が韓国にはまだ残っていると苦笑する人が多いだろう。そこには宝石のような愛が入っている。日本は近代化によって大事なもの多く失っている。そう思っている中山からホテルへの帰りに車内で韓国での学級崩壊、いじめの話を聞きながら韓国も日本が通った道を辿っていると異様な感がした。今日の講演にはそのことにも触れてみようかと思っている。

小説の主人公

2012年06月03日 05時03分54秒 | エッセイ
現地調査などで撮った映像が多く貯まっている。自分で編集もしたが最近何編かプロの方に頼んだ。長い映像が短く、コンパクトになって観やすくなった。マスメディアの映像がこのように洗練された手によって編集されたものであると改めて痛感する。しかしそこには落とし穴がある。つまり、つまらないことや失敗した部分がカットされているものである。カットしたり編集されたものが必ずしも完成品とは言えないからである。
 人生や過去を編集するとどうなるだろうか。誰でも編集によって簡単に英雄になりそうである。平凡に生きた人が突然英雄のように評価されることもある。特に社会的に英雄化することは危険なことでもある。「将軍様」「天皇陛下」「大統領閣下」などもこのような編集された人物かもしれない。それを少年少女に推薦図書として読ませる英雄伝もその類である。小説の主人公を「英雄hero, heroine」というのもその伝統からである。近代文学の主人公は英雄ではない人が多く登場する。そこには編集されていない人生が描かれている。明暗が交差する現実のものである。
 今日韓国・大邱へ向かう。13年間勤めた啓明大学校で明日日本学科の学生たちに講演をする。ただ過去の話をするつもりではない。その重要なメッセージを伝えたい。(写真、啓明大総長と)

「結核文学」

2012年06月02日 05時32分28秒 | エッセイ
 ある出版社の社長から私にインタビューして本を出したいと言われ、聞き流したが昨日再度言われ本気で聞きいれた。しかし何を話題にするか戸惑っていた。私は若い時の結核の病巣により持病を持っていることをそれとなく話した。その話を聞いた彼がその話に乗ってくれた。彼は二十歳の大学生の時、結核にかかって10か月も入院して、「人生が変わりました」と私の話を代弁するようにどんどん話を進めた。彼はサナトリウムで結核文学に引かれたような話に延々と語った。私に比べて彼は贅沢な療養生活をしたと思った。当時の私は、私の人生の最大の屈辱時代であり、捨てられた青年であった。私はインタビューの始まりは「これである」と告げ、彼も賛同した。早速実行することにした。
 病気は人の命を襲い、危機に追い込み、死なせたり廃人にしたりするが、人生を変えて勇気を与えることもある。私は大学時代の皮千得先生(写真)を思い出した。先生は小柄の方で、病弱で教壇には上がらず立って講義した。私は英文学を受講した。その先生はエッセイストとして、病弱な体とは異なって、特に文章が綺麗で私の憧れの先生であった。多くの作品を残して2007年亡くなられた。6月6日は101歳の日野原重明先生が下関で講演をされる。彼も結核の病歴を持っている。私は自分自身、長寿は期待しない。ただ生き方を学び、考えたい。

私の「特別講演」(東洋大学・「白山人類学」15)

2012年06月01日 03時41分07秒 | エッセイ
 2011年11月19日(土)東洋大学白山キャンパスで開かれた白山人類学研究会第5回研究フォーラム「跨境コミュニティにおけるアイデンティティの持続と再編――東アジアと東南アジアからの展望」(代表:松本誠一写真)において講演し,討論したものが昨日届きました。抜き刷りを誰に送るか選別は難しい。ここに抜粋文を載せる。

「植民地朝鮮における日本人の無住地への移住」

 私は戦前に生まれ戦後に育った。中高時代には文学少年,評論を目指して小説を多く熱読した。特に李光洙や沈薫などの郷土愛の小説作家の作品を多く読んだが,ずっと後になって彼らが親日作家と非難されたことを知ってショックであった。中学校の音楽担当の安丙元先生は有名な童謡作曲家として,国民的歌謡である「統一の歌」の作曲者であったが,先生のお父さんは植民地時代のプロパガンダ映画監督の安夕影氏であり,国民的に愛称される「わが故郷(나의 살던 고향)」の作曲家の洪蘭波氏とともに親日派と非難された。私はそれより非難する人々に失望したものである。植民地遺産とは何だろうか。それは肯定的であれ否定的であれ継続して受け継がれている。私が尊敬した評論家の白鉄先生も親日派と非難されることがあった。私も「新親日派」といわれたことがある。しかしいつの間にか韓国では親日的な人が多くなっている。
 戦後韓国は反日,反共を建国理念としてきた。日帝植民地の負の遺産から始まった戦後の歴史である。終戦記念日などには,日本時代のものにそっくりの花電車にハングルで「祖国の解放と独立,万歳」などと書かれ、飾られていた。花電車で祝う行事も日帝時代のもの,そのままであった。政府は日帝残滓清算などの政策を取りながら日本の植民地遺産を温存させ,新しく日本文化を取り入れた。また新しく「愛国主義者」と叫ぶ人が輩出し,彼らは固有伝統文化を優先するナショナリズムを強化した。植民地の遺産の継続と断絶が混在して,日本を名目にして「反日」と「親日」などが存在し,日本という実態とは関係なく,韓国国内における分派と非難や攻撃をしあうようになった。そこで私は日本植民地の遺産とは何かを研究し始めた。否,韓国では植民地研究がなかったわけではない。ただそれは独立運動史的な類であった。日帝に反抗してきた独立運動や抗日運動などが強調され,独立運動史的、抗日運動史的な研究はあっても、日本文化などを客観的に研究することは親日的事柄の煩わしさで避けてきた。その研究がいくら実証的で精緻なものであっても,国家のイデオロギーに沿ったもう一つのプロパガンダ的な研究に見えて,私には近代学問として理解することができなかった。
 私は,韓国固有伝統文化を尊重する国家政策に乗っ取って,全国民俗調査に参加した。その初年度1968年の調査は,伝統文化が豊富に残っているという全羅南道から始まったのである。全南大学校湖南研究所の推薦で伝統文化が豊富に残っている離島の麗川郡巨文島に行った。巨文島は三つの島からなっているが,そのメインの島の巨文里は戦前には典型的な日本人村であったが,戦後は韓国各地から移住してきた人々が大部分を占める島である。当地に到着して,離島ではあるが,古い伝統が残っているという民俗調査地としては適当ではないことが,調査者たちにわかった。調査団は,日帝時代の遊郭であった旅館に滞在しながら調査を行った。なぜこの島が日本人村になり,遊郭が多かったか疑問があった。しかし短い期間であり,しかも伝統的な民俗文化調査とは異なることで,それについては調査することはなかった。
 私は,伝統文化の代表的な巫俗研究を理論的に研究するために日本に留学し,そして韓国に帰国してからは日本文化の研究へ転換しなければならなかった。日本学科の教員として,植民地の負の遺産は大きい重荷であった。それを正面から研究すべく,反日,運動史的なものではなく,客観的な研究を意図したのである。1968年夏,韓国民俗総合調査の時,泊まったことのある全羅南道の巨文島を思い出した。当時辺鄙な離島には古い伝統文化が多く残っていると思った主催側を失望させたその島は,日本時代に栄えた日本人村であった。調査団には当時泊まった旅館が日本時代の遊郭であったということは皮肉であった。周知のように1980年代は反日感情が激しく,初めて訪問した1968年からちょうど20年後の1988年に,わたしは学者と学生をメンバーとして巨文島調査団をつくり,調査を行った。社会的には反日ムードが高い中,植民地経験者たちへのインタビュー調査では,日本に対して非常に肯定的なイメージを持っていることがわかってびっくりさせられた。当時の反日的な雰囲気の中で植民地主義的研究とは「現代社会への影響を批判的に考察し,旧宗主国の責任追及」をするような研究になるのではないか思ったが,事実は植民地支配を正当化するような結果になるのではないかという思いもあった。
 トヨタ財団の助成金によって現地調査を行った。さらに朝鮮総督府調査資料の翻訳などを行った。巨文島で調査中,ある住民から日本から届いた日本語の手紙を読んでくれと言われた。内容は終戦の時に韓国人に預けた家の代金をいくらか支払ってくれないかという内容だった。村では日本人の引き揚げの時,「日本まで人と荷物を船で送ってあげた」という話が聞けた。日帝時代にも兄弟のように一緒に仲良く過ごしたという話は日韓両側から聞けた。
植民地直接体験者は少数であり,記憶も薄れていく一方,その歴史は再生産される。国や社会レベルにおいては憎しみが正当化され,反日感情と民族主義は日本を憎むほど自国を愛するという雰囲気の中で日本を憎むようになった。私が知っている韓国の民族主義者、いわば愛国者は,非常に個人的な見方ではあるが,彼らは人間として愛情深き人とはとても思えない,あるいは人類愛を感じさせる人ではないと強く感ずる。つまりどちらかというと人を憎むタイプの人が多い。
 一方,日本の引き揚げ者との連絡をとってみたりして,日本の山口県の引き揚げ者を訪ねることができ,研究を進めた。その報告書を日韓で出した。日本人が朝鮮半島南部へ移住して移住漁村を作り朝鮮人と協力して漁業をし,戦後の日本への引き揚げた過程を調査し,それと関連して『朝鮮の風水』[村山智順 1931; 최길성 1990]を韓国語に翻訳した。また『親日と反日の文化人類学』[崔 2002]や『危険な日韓関係:親日と反日』[최길성 2004](韓国・多楽園,2004年)などにまとめ,日韓両国において客観的な植民地研究の必要性を訴えてきており,『日本植民地と文化変容』[崔編 1994]などを出版した。
 その後に韓国,サハリン,旧満州,台湾および南洋に関する資料収集と現地調査を行って,『映像が語る植民地朝鮮』[崔 (韓国語)2010]と『映像の植民地朝鮮』(風響社,近刊)などの成果を出してきた。日本学術振興会の補助金によって1999年からサハリンの朝鮮人の研究,旧樺太・現サハリンにおける朝鮮人の研究において警察文書の分析をし,現地調査による研究『樺太朝鮮人の悲劇』[崔 2007]を出版し,台湾との比較研究などを進め,『植民地の朝鮮と台湾』[崔・原田編 2007]を出版した。学術振興会補助金により西日本から朝鮮半島へ植民・移住し,「日本村」(広島村,岡山村など)を作り,戦後引き揚げてきた人々の記憶や記録などの研究をしており,シンガポール,インドネシアなど東南アジア,アイルランド,南アフリカなどの西洋植民地の状況を把握して,日本植民地との比較研究も進めている )。
そのたびに私は親日的だと非難された。それが,私が親日派になった道のりである。植民地への関心は脱価値論的に始まったが,結局は韓国の反日思想との戦いになった。その「反日」は日本への反対ではなく,韓国の国内で人を憎む手段にする人が多いことを感じた。本当は親日的な人がいて,反日的な人がそれぞれ存在するはずであるが,実は反日的な人が親日的な人を非難,攻撃するのが普通である。韓国では植民地遺産は「不浄」であり,浄化するということで「日帝残滓清算」といわれ,そこで育ったチルドレンのナショナリズムが日韓関係に障害になっている。当時,日韓両国において植民地研究には躊躇するところが多かったが,これらの研究は,特に日本植民地資料の出版へのタブーを完全に破った画期的なものになったことは自他ともに認めている。