崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「開城」李成桂一に暗殺された鄭夢周

2013年05月30日 03時31分58秒 | エッセイ
 昨日の読書会で倉光誠氏が1920年代初め頃のエッセイ「古都めぐり」で開城を紹介した。軍事クーデターにより高麗王朝を滅ぼして1392年李朝を建てた李成桂によって、漢陽(京城)、今日のソウルに遷都するまでの間、開城は高麗の都であった。李氏朝鮮の始祖である李成桂は政権を握って500余年の首都を今のソウルである漢陽へ移転し、開城は政治力を失い経済に専念して経済都市になった。開城人といえば小便も舌で味わって売買するというような「計算高い人」と言われるほどになった。
 そこが朝鮮半島の南北関係の融和の象徴的な開城工業団地になったのは歴史を引き継ぐものなのか、それとも単に分断境界線という地点の利点であろうか。今、そこから韓国人が全部撤収し、南北関係が再び緊張状態になっている。その近くには板門店があって私は2002年板門店を見物し、平壌への帰路に、開城で昼食をとって松嶽山を眺め、高麗博物館を見学したことを思い出す。その高麗の古都の開城市の歴史遺跡が世界遺産として登録されることが確実となった。2004年高句麗壁画古墳が世界遺産に登録されたのに続くものである。
 世界遺産登録の文化遺産は開城の城、満月台と南大門(写真下)、高麗の初代王の王建陵、成均館、高麗朝を擁護した儒学者である鄭夢周が李成桂一派によって暗殺された善竹橋(写真上)と表忠碑、鄭夢周が住居しながら教育した陽書院など10余項目である。昨日のエッセイでも李成桂派によって暗殺された鄭夢周をめぐる遺跡の話が多かった。私は以前もう一人の犠牲者の崔瑩将軍の恨みが民間信仰化されたことについて「大韓民国学術院論文集」に寄稿したことがある。今下関で源氏に負けた恨みの平家物語りを日常的に聞きながら暮らしている。負け、犠牲と恨みはどこにもある。