崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

廉想渉の長編小説「三代」

2012年12月11日 05時38分57秒 | エッセイ

 植民地時代の文学を研究している白川豊氏から彼の高訳 廉想渉の長編小説「三代」を有難くいただき本当に夢中に読んでいる。私は文学少年時代に乱読し、大学では国文学の勉強中評論家を志望して、心理学、古典文学「処容歌」を卒論、そして民俗学から文化人類学へと遍歴してきている。植民地の映像の分析を当時の生活を知ろうとしている。以前白川氏をゲストスピーカーとして招待講演も聞いたことがある。いま植民地文学に関心が芽生えている自身を悟る。廉想渉文学は教科書でリアリズム作家として文章が載っていたし、私も読んでいた。しかし日本語訳で植民地文学として読む味は新鮮である。

 「三代」という題からは年代記に沿って伝記式に興亡盛衰の話が長々綴るだろう。しかしこの小説は1年ほどの短期間に平面的に三代の人物が登場する。白川氏の注釈と日本文は原文以上にスムースに流れる。評者によっては三代の物語りが少ないとか、恋愛描写が弱いとか、人物の描写が主に喧嘩であろうなど批判があるが、私はそれこそリアリズムとして賞賛したい。その時代にこの小説ほど朝鮮文学が発展してきたことに感謝したい。戦後私はその文学を読んで育ったのである。私はこの作品では3点に注目している。まず文章が面白くつながって流れて吸収力が強いこと、余計な文がほぼ書かれていない。次には儒教的な家父長制の中でクリスチャンとしての偽善的な部分、3つ目には植民地朝鮮の様々な人間の生活、その時代性が描かれていることに注目したい。