杜の都からボンジュール

周りが社会に出て行く中で、今だ学問にロマンを求めている若者の毎日。

判断力

2009年12月06日 23時04分12秒 | 院生の日常
最近、「知識」が多い人をみかける。
なんでそんなことまで知っているのかと驚くほど細かい知識を持っている。しかし、そのような人間に共通する特徴がある。
それは、知識で終わってしまうことである。その知識の後に、何か話が続くのかといえばそうではない。自分がどう考えるのかはわからないことが多い。

この現象を考えるために、福沢諭吉の考えがとても参考になる。
福沢諭吉は、文明論之概略で智と徳についてそれぞれを公と私に分け、4つに分類した。つまり、私智と公智、私徳と公徳である。徳に関しては今回の話では関係がないので言及はしないが、大事なのは智のほうである。
福沢は、私智をいわゆる一般的な知識と捉えている。何か物事を「知っている」ことを指すとしている。一方、公智は、物事の軽重大小を分別し、重大を先に、軽小を後にし、その時節と場所とを察する働きを公智とした。つまり、何が大切なのかを持ち選択する判断力のことを述べている。
そして福沢は、公智を聡明の大智と称し、その重要性を説いていた。

この福沢の議論を先ほどの出来事にあてはめてみると、物事はしっているが、何が大切なのかはわからないという状態だろう。日常生活は、選択の連続である。自分の力で判断し、行動していかなければならない。しかし、今この判断する力がない人間が、多いのではないだろうか。判断力がないがゆえに、結局世の中の大勢に流れていってしまうと考える。(つまり、自分の価値は大勢に逆らわないことになる)

自分はどのような価値に身を置くのか。
まだまだわからないことだらけだが、毎日考え判断力を磨いていきたい。