ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

三箇日に溝口を歩く(6)

2015年01月27日 09時47分04秒 | まち歩き

 1月3日(土曜日)、我々は自宅から溝口神社まで歩き、初詣を済ませ、甘酒を堪能しました。その後、栄橋交差点、西口商店街を経由して田園都市線の溝の口駅に出て、ノクティで買い物をしました。生まれて初めて福袋なる物を買いましたが、最近ではどこでも中身がわかるようになっていますので、或る意味ではわかりやすく、或る意味ではつまらなくなっているような気もします。ちなみに、福袋として買ったのは緑茶とコーヒーです。

 ノクティは再開発事業の中心として誕生したビルで、南武線に近い南側がノクティプラザ1、マルイが入居する北側がノクティプラザ2です。2のほうの11階と12階には高津市民館があります。

 時々指摘されることですが、高津区は公共施設が分散しており、その点では不便です。区役所は溝の口駅南口に近い場所(下作延二丁目)にありますが、高津警察署は高津駅の近く(溝口四丁目)、高津図書館は高津駅から少し離れた旧大山街道沿い(溝口四丁目)、高津郵便局(配送局)は梶が谷駅に近い場所(末長一丁目)、高津消防署は高津駅に近い場所(二子五丁目)、となっています。高津市民館も、ノクティに入る前には現在の川崎市男女共同参画センタースクラム21の場所にありました。駅から歩けば15分以上はかかるでしょう。

 駅前は大きく変わりました。こうなってしまうと、再開発前の街並みを覚えているとしても正確な位置関係まではわからなくなります。定点撮影をされた方の比較写真を参照したいものです。

 何となく、漠然と当てはめていくならば、商店街は今のペデストリアンデッキ辺りまで伸びていました。狭苦しかったバスターミナルは上の写真で言えば交番の辺りだったでしょうか。その奥にはヤストモというショッピングセンター(とは言っても、細長い2階建ての1階にいくつかの商店が集まった程度のもの)があり、武蔵溝ノ口駅のほうに文教堂書店、スギザキ時計店、中程に珍来軒、えんよし、みづほ、溝の口駅側に石原文具店(玩具などのコーナー)、八百長という八百屋がありました。その隣にツバメというパチンコ屋もありました。見事に跡形もなくなっています。文教堂書店、スギザキ時計店、石原文具店などは、移転の上で現在も盛業中ですが、珍来軒などはなくなりました。大学院生時代、珍来軒でよく弁当を買っては昼に大学で食べたものです。安価で美味しい弁当の見本のような存在でした。

 ノクティの前から高津駅方面、二子五丁目まで伸びる溝口中央商店会の通りです。再開発によって、多少道幅が広がり、歩きやすくなり、車でも走りやすくなりましたが、失われた物は多いと感じます。

 上の写真からは信じられないかもしれませんが、1990年代前半までのこの通りは、川崎市内で二番目に人通りが多いと評価してよい商店街でした。狭くてごちゃごちゃとした通りでしたが、日中は買い物客などが道を埋め尽くしており、賑わっていました。

 しかし、再開発により、人通りが激減しています。ノクティに集中するようになったのでしょう。かつての勢いはどこへ行ったのか、現在は閑散としています(あくまでも再開発前との比較ですが)。

 川崎駅前などに天野屋という呉服店があります。その支店が溝口にもありました。上の写真では柵で囲まれている場所です。2012年2月23日付の「夜の溝口」を記した時点においては営業していたのですが、その年か翌年に閉店しています。

 溝口中央商店会とポレポレ通り(溝口駅前商店街)との交差点です。左奥に高層建築物が見えますが、そこが映画館のあった場所です。

 上の写真にはサンマルクカフェが写っています。以前にも記したように、1970年代後半、文教堂書店の本店がここにありました。また、1階と2階に不二家があり(1階がケーキなどを売っていたところ、2階がレストラン)、かなり長い間営業していたはずですが、今はなくなっています。その上、4階ににカワイ音楽教室があります。私は小学校4年生か5年生の頃から6年生まで、ここに通っていました。今から35年以上も前のことです。

 溝口中央商店街をとらえてみましょう。奥に進むとイトーヨーカドー溝ノ口店、坂戸一丁目、さらに武蔵新城駅北口のほうに出られます。手前のほうに進むとムサシボウル、みずほ銀行溝ノ口支店などを経由して溝の口駅に出ます。

 左側にQiz溝ノ口があります。現在は飲食店や洋品店が入居していますが、かつてはマルエツB館でした。川崎市内にはマルエツが多いのですが、これは川崎市内で創業したサンコーというスーパーマーケットが展開していたためです。そのためか、現在でもサンコーと言う人も市内にはいるようです。サンコーは1970年頃にダイエーの系列に入り、1981年、マルエツに吸収合併されます。

 溝ノ口店でA館、B館と分かれていたのは、食料品売り場と衣料品売り場が分かれていたためで、衣料品売り場はB館にありました。いつの頃であったか覚えていませんが、業務を縮小するようになり、A館だけが残りました。

 左側に歩道ができているのを見て、大きく変わったと改めて感じました。買い物客や通勤者の自転車が並んでいたからです。勿論、駐輪場などではありません。放置自転車です。場所取りの争奪戦も行われたことでしょう。あまりに多かったので、撤去にも費用と手間が馬鹿にならないほどであったはずです。

★★★★★★★★★★

 今回も記しておかなければなりませんが、同じ街、同じ読み方であるのに「溝口」、「溝ノ口」、「溝の口」と表記が分かれ、混在しています。公式の町名は「溝口」ですが、古くから「溝ノ口」とも記しました。「溝の口」という表記は田園都市線の駅が1966年に「溝ノ口」から改められて以来のことで、比較的新しい表現ですが、最近はかなり浸透しています。


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