ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

百貨店の閉店が次々に決まる、という話を読んで

2014年09月03日 21時01分01秒 | 社会・経済

 本題に入る前に書いておきましょう。一体、消費税率引き上げによる消費の冷え込みなどの影響は一時的なものである、などと主張していた人は誰なのでしょうか。消費者、庶民を「なめて」いるのでしょうか。

 私は、1997年の絶不調期を思い出していました。やはり消費税率が引き上げられ、3月までの駆け込み需要の反動などが大きく、経済は冷え込んだのでした。ところが、今回の引き上げに関連して、1997年度の不調は消費税率引き上げが原因ではないという見解が、有名な経済アナリスト、経済学者、租税法学者、日銀関係者、政治家などといったような面々(精確なことは記しません)から出されたのです。それは、首都圏(もっと狭く、東京23区周辺)だけを見ていれば当てはまる部分もあるでしょうが、全国的に見れば違うでしょう。服部茂幸『アベノミクスの終焉』(岩波新書)が、最近の経済政策などを厳しく批判しており、学ぶべき点が多いのですが、同書の指摘を敷衍するなら、経済政策担当者、アナリスト、経済学者などが、負の影響、苦境は「一時的なものにすぎない」と言いますが、これは「何年間も続く」という意味なのでしょうか。彼らが想定する好況は、来たとしても非常に短いものであり、こちらのほうが「一時的なものにすぎない」のではないでしょうか。

 さて本題です。

 やや時間が経ってしまいましたが、8月31日を最終の営業日として、高島屋和歌山店が閉店しました。9月1日3時付で、朝日新聞社が「和歌山)高島屋和歌山店が閉店 41年の歴史に幕」(http://www.asahi.com/articles/ASG8033TDG80PXLB001.html)として報じています。

 高島屋和歌山店は南海和歌山市駅ビルに入居する形で1973年5月に開店しました。1991年度が売上高のピークで65億円ほどだったそうですが、10年以上も続く赤字に悩まされており、2013年度の売上高はピーク時の3分の1ほどにまで落ち込んでいました。

 私は近畿地方の各府県の中で和歌山県のみ足を踏み入れたことがなく、事情などをよく知らないのですが、和歌山市の中心街空洞化はよく知られており、ぶらくり丁の衰退ぶりを写真で見た時には驚きました。南海本線の終点である和歌山市駅の衰退ぶりも顕著で、1980年度の一日平均乗降客数は40000人を超えていたのに対し、2012年度は17000人台にまで落ち込んでいます。競合するJR和歌山駅のほうが乗降客数で勝っていることもありますが、和歌山県、和歌山市の現状の一端が示されているのかもしれません。

 そして、上記朝日新聞記事には書かれていないのですが、高島屋和歌山店が閉店したことにより、和歌山市内の百貨店は近鉄百貨店和歌山店のみとなります。1998年までは大丸、丸正、高島屋、近鉄の4つがあったといいますから、いかに百貨店という業態が衰えているかがわかります。

 先程、和歌山市では中心街空洞化が進行していると記しました。このことを裏付け、高島屋和歌山店が閉店に至った理由の一つを示唆するような報道が、やはり朝日新聞社からなされています。今日の3時付の「和歌山)特急サザン、和歌山大学前駅に停車へ」(http://digital.asahi.com/articles/ASG9245SRG92PXLB00N.html)です。

 2日、南海電鉄が発表したとのことです。特急サザンは難波から和歌山市または和歌山港までの座席指定特急ですが、自由席もあります。現在の停車駅は難波、新今宮、天下茶屋、堺、岸和田、泉佐野、尾崎、みさき公園、和歌山市、和歌山港ですが、10月18日のダイヤ改正で和歌山大学前駅にも停車することとなりました。

 和歌山大学前駅は、南海本線では和歌山県で最北の駅ですが、開業日が2012年4月1日と非常に新しい駅です。既に急行および区間急行の停車駅にもなっていますからスピード出世のようなものですが、同駅に特急サザンが止まることとなった理由は、駅に直結するイオンモール和歌山の開業で乗降客が増えたことにあります(それ以前から、副駅名ともなっているふじと台の存在もあるのですが)。全国各地で、イオンモールのような郊外型大規模商業施設がオープンし、これに伴って中心街が衰退するという図が、それこそ判で押したように広がっていますが、和歌山市も例外ではなかったということでしょうか。

 私自身、大分市に住んでいた時には、中心街というと大分市中央町にある大分フォーラスへよく行き(ジュンク堂とタワーレコードがあるため)、あとは郊外のスーパーを回るような生活を送っていました。たまたま、歩いて行ける所にジャスコ光吉店とホームワイド宮崎店があり、何度となく行ったものですが、土曜日と休日にはパークプレイス大分にも行きました。単に買い物に便利だからということを超えるものが、ショッピングモールの中にあったのでしょう。以前読んだ本で、地方の若者はショッピングモールが好きだと主張するものがありましたが、何となくわかります。中心街再活性化の鍵は、郊外型大規模商業施設の魅力や利点からいかに学ぶか、もっと言えばそれらを「盗むか」にあると思うことが、時々あります(単なる真似ではありません)。

 さて、百貨店の閉店というと、和歌山市から目を転ずると、我が川崎市のさいかや川崎店閉店がありますが、これについては既に4月11日付で「川崎駅東口のさいか屋が来年5月に閉店する、と聞いて」として記しています。また、京都市では近鉄百貨店桃山店が今月末で営業を終えます。さらに西へ進むと、高松市では高松天満屋が今年の3月に閉店していますし、長崎市では長崎玉屋が今年2月を最後として閉店し、同市の百貨店は浜屋だけになりました。

 また、閉店ではなく、むしろ華やかなオープンの話に関連するのですが、今年の2月、あべのハルカスで営業を開始した近鉄百貨店本店のソラハが、開業当初こそ大盛況だったそうですが、4月以降は不振が続いていると報じられています。

 そして熊本県です。熊本市の中心街には鶴屋百貨店と県民百貨店があるのですが、このうちの県民百貨店が、8月12日に、2015年2月28日の閉店を発表していました。見落としていましたが、8月13日3時更新の西日本新聞経済電子版の記事「『再開発のためこうなった』 県民百貨店社長、苦渋」(http://qbiz.jp/article/43803/1/)で報じられていますし、県民百貨店自らが「県民百貨店閉店のお知らせ」という文書を公表しています。

 県民百貨店の所在地である桜町地区の再開発は、九州産業交通HDが2012年10月に発表しています。県民百貨店もその対象となるため、上記文書を引用させていただくならば「移転して新店舗での 百貨店として営業継続に向け移転先をあたっておりましたが、 お客様のご期待にお応えできる形での移転先を見出す事が出来ず、 やむなく閉店を決断した次第であります」とのことです。移転が商売を悪くすることもあるというのはよく聞く話ですので、やむをえないところもあるとは思うのですが、政令指定都市でもある熊本市内に百貨店を開業するのに好都合な立地は桜町地区の他にないのでしょうか。それとも、百貨店という業態の限界があるのでしょうか。資金の問題があることは想像に難くないでしょう。

 県民百貨店の上記文書には「弊社といたしましては平成 15 年 2月、14 万人もの署名を頂き、 くまもと阪神として開店を迎えることができましたことを思えば、 苦渋の決断となりました。」という一節もあります。2003年、私が大分大学教育福祉科学部助教授としての最後の一年間を過ごした年に、一度だけくまもと阪神に入ったことがあります。その時の買い物客の多さには驚かされました。しかし、その後の経営状況がどうなっていたのかが疑問でして、上記文書には一切触れられていないのです。

 県民百貨店自身も述べていますが、ここは何度も経営主体や店舗名(屋号)が変わっています。上記西日本新聞経済電子版の記事には「県民百貨店の歩み」として略図が掲載されていますので、それを参照してみます。

 1973年10月 桜町地区に現在の県民百貨店がオープンしました。この時の屋号は「岩田屋伊勢丹」で、福岡市の百貨店である岩田屋、東京・新宿の百貨店である伊勢丹、地元の熊本交通センターが出資していました。

 1993年3月 屋号が「熊本岩田屋」に変わります。出資構成も大きく変わり、岩田屋の100%子会社となりました。伊勢丹は撤退しています。略図からだけではわかりませんが、業績がよくなかったものと思われます(よければ撤退しないでしょう)。

 2002年3月 岩田屋が「熊本岩田屋」から撤退することを発表します。この頃、岩田屋は苦境に追い込まれていました。日田岩田屋が閉店したのが2002年の8月ですし、西新岩田屋も2003年2月に閉店しています。この後、様々な動きがあるのですが、省略します。ただ、岩田屋が伊勢丹の傘下に入ったのが2002年5月であることのみを記しておきましょう。

 2002年7月 百貨店事業の存続に向けた署名活動が行われます。13万6500人分も集まりました。ちょうどこの頃には他の百貨店経営会社に支援などの打診が行われていました。

 2002年10月 地元企業を中心として「県民百貨店」という運営会社が設立されます。そして、大阪の阪神百貨店と業務提携を行うことなども決まりました。

 2003年2月 熊本岩田屋は閉店しましたが、それから2週間も経たないうちに、同じ場所で「くまもと阪神」が開店します。私がただ一度入ったのがこの年で、オープンしたばかりの頃ではなかったかと記憶しています。また、2003年に阪神タイガースがセ・リーグ優勝を果たしました(日本シリーズではダイエーホークスに敗れています)。

 なお、略図には書かれていませんが、2011年2月23日に屋号が「県民百貨店」に変更されます。現在の阪急阪神百貨店は株主の一員であり続けています(県民百貨店のサイトによります)。

 2012年12月 九州産業交通HDが桜町地区の再開発事業の概要を発表します。

 2014年8月12日 県民百貨店が2015年2月末の閉店を発表します。閉店後の運営会社はどうなるのかについては、私が報道などを見た限りでは不明です。

 ここまで県民百貨店の話を続けてきましたが、今後も百貨店の閉店は続く可能性があります。少子高齢化の影響が大きいことは否定できませんし、郊外型大規模商業施設の影響も大きいことでしょう。物事には理由があり、その理由は一つだけでない場合が多いでしょう。J-CAST NEWSに、9月2日12時33分付で「地方都市の百貨店『ふたつはいらない』 和歌山市は近鉄、熊本市は鶴屋だけと相次ぎ閉店」(http://www.j-cast.com/2014/09/02214747.html?igred=on)という記事が掲載されており、参考になります(今回、私もこの記事を参照しています)。


コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金沢駅東口の現代アート | トップ | 引っ越しました(ブログのこ... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お久しぶりです。三重は妙な夏で、スッキリしない... (白蛾)
2014-09-06 01:32:21
お久しぶりです。三重は妙な夏で、スッキリしない天気が続いています。和歌山も三重と同様でしょう。大阪や名古屋の商圏に呑み込まれました。三重では三交百貨店が松阪、伊勢、松坂屋四日市が閉店となりました。津松菱は県都の面目上閉めるわけにはいかないでしょうが、若い人たちには支持されていません。和歌山といえば、老舗駿河屋が暖簾を下ろしました。市駅周辺の活気を取り戻すには、発想を変えなければ難しいと思います。阿倍野ハルカスも同じで、このままでは戦艦大和のようになりそうで心配です。心理的な消費感覚か、劇的に変わってしまったのではないでしょうか?
 コメントをいただき、ありがとうございます。三... (川崎高津公法研究室長)
2014-09-06 09:23:17
 三交百貨店の名は聞いたことがあります。松阪店、伊勢店のいずれも閉店し、既に会社の清算も終了したようですね。津松菱は健闘しているようですが、ここが浜松市にあった松菱百貨店と深い関係があったことも、既に歴史の記憶となっているのでしょうか。
 本文に記していなかったことをここで追加します。大分市唯一の百貨店、トキハ(「ときわ」と読みます)は、大分駅前の中心街の一つ、府内町に本店を構えていますが、2000年に郊外の稙田地区に「わさだタウン」というショッピングモールをオープンさせました。最初から自家用車利用を前提としている構造です。私の知る限り、地場の百貨店が郊外にこのような形で出店するのは珍しいことです。百貨店としての生き残りをかけた訳ですが、当時、わさだダウンについては賛否両論があったことを記憶しています。中心街を捨てたのか否か、という話としてです。
 また、最近、大分駅が全面高架化し、いわゆる駅ナカあるいは駅ビルが完成して、買い物客の流れが変わるかもしれないと聞きました。問題は、駅の中で終わってしまい、中心街まで足を伸ばしたりしないのではないか、ということです。

コメントを投稿

社会・経済」カテゴリの最新記事