小うつな人・ケアマネな人、を応援する日記

小うつな方・ケアマネな方、どっちでもある方のために捧げる、ネタのたわごとです。めざそう癒し人!?

弱さ研究(14)

2009-12-25 20:58:43 | 弱さへの思考
「自立」について(その2)。
前回、自立の定義を「自立とは、単に家族や施設の世話にならないで暮らすということを意味するのではなく、生活形態を自分から積極的に選ぶことの根底にある物事の考え方、ないしは、社会的な運動を指す」とした。
施設においては、その建物の中で社会統制が行われている。依存性を生み出すシステムがあることを考えた。

では家庭ではどうか。
実は、在宅では「規範化された愛情」が一方的な依存関係を作り出している。
例えば、家庭における障がい者とその家族(親、特に母親)との関係をみると、たいていは障がい者は「弱者」であり「保護すべき」であるという思想が家族愛の理念と融合し、母子関係に至っては子どもをいたわる必要性が過度に意識される傾向にある。その結果、親、特に母親は子どもを囲い込み、自分の監視下に置き、全ての責任を自分が負おうとし、一方的な依存関係が発生する。それは「あるべき愛情の姿」として時には涙を誘い、同情などを受ける。それらにより社会的に要請され、承認されたものとして、よりいっそう、強化される。

社会学上、価値の大きさは、与える側ではなく、受ける側が決める、という考えがある。友情もそんな気がする。恋愛もそうかもしれない。夫婦も家族関係もそうかもしれない。もしかすると、会社内人間関係もそうかもしれない。パートナーアニマルとの関係もそうかもしれない。さらに、公共交通機関等における席を譲る・道を譲るなどという行為もそうかもしれない。
よって、このやりとりの後、双方にアンバランスが残る。与えた側は「せっかく与えたのに」という感情が時には生まれることもあるが、受けた側が「全然ダメ」と判断することがあるかもしれない。もちろん、その反対もある。むしろその方が、多いかもしれない。
この不均衡によって、交換関係が継続するのである。

デジョンは「障がい者が、他の人間の手助けを他の人より余計に必要するからといって、その人が他の人以上に依存的であるとは限らない。人の助けを借りて15分かかって衣服を着て仕事に出かけられる障がい者は、自分で服を着るのに2時間かかるため、家にいるほかはない人よりも自立している」と言った。

つまり、こういうことだ。
全てを自分でできるということが自立ではなく、自分の生活に関して可能な範囲で自己決定をすることが「自立」という単語の意味するところ、考え方である。
自己決定とは、これまでも言ってきたように、自分で自分の生活の仕方を選ぶこと。ということは、その結果が「失敗」と呼ばれるものになることも含め、あらゆる可能性を全て受け入れることを意味する。

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