この目黒の雅叙園を経営していた会社がニューグランド ロッジの経営を引き継いだのでござ〜♪〜ますか?
その可能性がもっとも高いのですよう。でもねぇ、上の説明の中には、どこにも書いてないのですよう。ネットで調べたのだけれど、ニューグランド ロッジと雅叙園の関係を書いた記事は一つも見当たらなかった。
デンマンさんは、どう思うのでござ〜♪〜ますか?
昭和34年の地図には「ニューグランド ロッジ」ではなく、「雅叙園」と書かれていたのだから、創業者の細川さんが経営を引き継いだのだと僕は考えているのですよう。今でも軽井沢の雲場池から、それ程離れていないところに目黒雅叙園が経営している結婚式場・葬儀場の「軽井沢クリークガーデン」があるのですよう。
。。。んで、いつ頃、経営が変わったのでござ〜♪〜ますか?
ニューグランド ロッジは敗戦後、米軍の一般兵士用の宿舎として接収されたのですよう。横浜のニューグランドホテルも1945(昭和20)年の8月30日に連合軍に接収されたのです。
つまり、米軍以外には使われなくなったのですね?
そうですよう。
。。。んで、その接収が解除になったのは、いつなのでござ〜♪〜ますか?
帝国ホテルが接収解除になったのが1952(昭和27)年の3月31日です。おそらく、軽井沢のニューグランド ロッジが接収解除になったのも、その頃だと思うのですよう。
横浜のニューグランドホテルは接収解除になってから続けたのに、軽井沢のニューグランド ロッジは、なぜ経営を止めてしまったのでござ〜♪〜ますか?
終戦後、軽井沢で避暑をする人が、戦前と比べてめっきり少なくなったから経営的に魅力がなくなって手放したのでしょうね。
それで、細川さんが目をつけたと。。。?
多分、そう言う訳で経営が「雅叙園」に移ったと僕は考えているのですよう。
でも、細川さんは、どうして軽井沢のニューグランド ロッジに目をつけたのでござ〜♪〜ますか?経営的には魅力がなくなったのでしょう?
そうです。あまり金儲けにはなりそうになかった。しかし、細川さんがニューグランド ロッジを手に入れたのは、お金儲けのためではなかったと思うのですよう。
お金儲けではなかったとは。。。いったい、どう言う事でござ〜♪〜ますか?
それを突き止めるために、僕は創業者の細川さんについて調べてみたのですよう。
どう言う事が分かったのですか?
この人は今風に言えば、かなりのオタクですよう。
どういう方面でオタクだったのでござ〜♪〜ますか?
ウィキペディアの説明の中にも書いてあるけれど、絢爛たる装飾を施された雅叙園は“昭和の竜宮城”とも呼ばれたのですよう。


つまり、絢爛たる装飾にオタク趣味を発揮したのですよう。細川さんは1889年(明治22年)に石川県に生まれました。県内では立身出世をした一人として知られているようです。明治30年頃、東京に出て、同じ石川県出身者で神田で風呂屋を経営していた人の元で奉公したのですよう。その後、独立して銭湯経営などで財をなして、芝浦に料亭を開いたのです。
。。。んで、その頃から“絢爛たる装飾”にハマッテいたのでござ〜♪〜ますか?
そうですよう。芝浦に料亭を造った時、日本画家の松林桂月や堅山南風に室内画の製作を依頼するなど、現在の目黒雅叙園のオタク趣味が見え始めていたのですよう。それで、目黒雅叙園を立ち上げたときには、数多くの画家、象嵌師や塗師、庭師、建具職人を登用して、きらびやかな“竜宮城”を造ったのですよう。
それ程、すごかったのでござ〜♪〜ますか?
すごかったのですよう。絢爛豪華な仕上がりを誇るように、「我等が誇る三大名所 富士ヤマ・日光・雅叙園」と宣伝したほどですよう。
それって、誇大宣伝ではござ〜♪〜ませんか?
でもねぇ、目黒の雅叙園を訪れた人は、誰が言うともなく「昭和の竜宮殿」と呼ぶようになったのですよう。上の写真を見ても、ちょっと異常な“オタク趣味”を感じるでしょう?
そうでしょうか?
あのねぇ、今日でも、目黒雅叙園には名物があるのですよう。それは、なんと国の登録有形文化財なのですよう。
何でござ〜♪〜ますか?
「百段階段」ですよう。この百段階段は、1935年に増築された旧目黒雅叙園の3号館にあったものです。階段廊下として、福島県産のケヤキを敷き詰めて造った。中国では100という数字が縁起がよく、そこから考えられたものだそうです。でも、実際には遠慮して1段少なくし、99段になっているとか。
99段の階段なんて。。。確かに珍しいですわね?デンマンさんはご覧になったことがあるのでござ〜♪〜ますか?
あのねぇ〜、この百段階段は、普段は一般公開されてないのですよう。
どうしたら見れるのでござ〜♪〜ますか?
食事付きの見学プランがあるのですよう。
つまり、食事付きの百段階段見学ツァ〜でござ〜♪〜ますわね?
そうですよう。
やっぱり、商売根性がすさまじのですわねぇ〜。。。うふふふふ。。。んで、このオタク趣味とニューグランド ロッジがどのように関係しているのでござ〜♪〜ますか?
だから、そのオタク趣味を細川さんは自分自身に適用して自分を絢爛豪華に飾ったのですよう。
自分を絢爛豪華に飾るって。。。一体、どういうことでござ〜♪〜ますか?
あのねぇ、上のウィキペディアの説明の中にも書いてあるけれど、目黒雅叙園(旧木造館)は太宰治の小説『佳日』に登場するのですよう。
それで。。。?
僕は興味があったので更に調べたら、『佳日』は後で映画になったのですよう。太宰治の作品では初めての映画化だった。その題名は「四つの結婚」。
デンマンさんは、ご覧になったのでござ〜♪〜ますか?
残念ながら、まだ見てないのですよう。でも、調べたら、主演は入江たか子、その他に山根寿子、高峰秀子のような女優が出ている。知る人ぞ知る有名な女優さんたちですよう。
。。。んで、その女優さんたちが創業者の細川さんと関係があったのでござ〜♪〜ますか?
あったのですよう。。。大有りなのですよう。うしししし。。。
つまり、その女優さんたちと創業者の細川さんが四角関係になっていたとか。。。?
やだなあああァ〜〜。。。卑弥子さんはすぐに、そのような過激な妄想に走ってしまうのですよねぇ〜。
んも〜〜。。。もったいぶらないでオセ〜テくださいましなァ〜。
あのねぇ〜、細川さんが3人の女優さんたちと関係を持って自分を絢爛豪華に飾った訳ではないのですよう。
だから、どのように細川さんは、ご自分を飾ったのでござ〜♪〜ますか?
実は、3人の女優さんの内で入江たか子さんに注目して欲しいのですよう。
入江たか子

本名: 東坊城 英子(ひがしぼうじょう ひでこ)
1911(明治44)年2月7日に生まれる。
1995(平成7)年1月12日、肺炎のため死去。享年83。
昭和期の日本の映画女優。
華族出身のノーブルな美貌と近代的なプロポーションによって大スターとなり、「銀幕の女王」「ミス・ニッポン」などと称えられた。
第二次大戦前・戦中の男性俳優にとって、彼女と共演することは役者冥利に尽きる最高の栄誉だったという。
家族の不幸や自身の病気により戦後は人気が下降し、怪談映画の「化け猫女優」として名をはせた。
山田五十鈴・原節子とともに日本映画史上の三大美人だという(高峰秀子著『私の渡世日記』による)。
【略歴】
東京市四谷区(現・新宿区)に生まれる。
子爵東坊城家の出身で父の徳長は子爵、貴族院議員。
1922年、その父が亡くなり生活に困窮するも文化学院中学部に入学。
油絵を習っていたが、関東大震災で家は半壊し、手放さなければならなくなった。
1927年、文化学院を卒業後、日活京都撮影所の俳優で兄の東坊城恭長(後に監督・脚本家)を頼って京都に移る。
同年、兄の友人で「エラン・ヴィタール小劇場」の主宰者野淵昶に請われて女優として新劇の舞台に立つ。
それを観た内田吐夢の目に留まり、その勧めに従い同年、日活に入社。
内田監督の『けちんぼ長者』で映画デビュー。
その後、村田実の『激流』、内田の『生ける人形』、溝口健二の『東京行進曲』などに主演し、たちまち、日活現代劇人気ナンバー1女優の地位につく。
また、1931年には、伊丹万作脚本、稲垣浩監督の『元禄十三年』で片岡千恵蔵と共演し、時代劇初出演も果たした。
このとき、千恵蔵に恋心を抱いていたことを後年告白している。
1932年、新興キネマと提携して映画制作会社入江プロダクションを創立した。
当時、阪東妻三郎などスター男優が次々と独立プロを作っていたが、女優の独立プロも現代劇の独立プロも「入江プロ」が初めてだった。
この時代、入江たか子は日本映画界最高の位置にあった。
その第1作は溝口健二監督、中野英治共演による『満蒙建国の黎明』だった。
この作品は満州建国を背景に川島芳子からヒントを得た超大作で海外ロケを行い、半年の製作日数をかけた大々的なものだった。
この後、日活の俳優、田村道美と結婚し、のちにたか子のマネージャー・プロデューサーとなる。
田村が自らの人気を考えて結婚を公表せず、籍も入れず別居結婚であったため、兄の恭長は田村を嫌い、映画界を辞める。
結婚10年後に子供が生まれ、これを機に法的にも結婚する。
1933年、泉鏡花の名作『滝の白糸』をまた溝口監督で撮り、大好評となる。
ところが、溝口は一女優の入江プロダクション作品の監督ということに屈辱を感じていたため、強引に実体のない名前だけの「溝口プロダクション」という名前をその横に列記させてもらい体面を保っていた。
続いて、高原療養所の美貌の看護婦を演じた、久米正雄原作の『月よりの使者』が空前の大ヒットとなる。
1935年(昭和10年)頃は人気の絶頂にあり、この年のマルベル堂ブロマイドの売り上げでは、1位が入江たか子、2位が田中絹代であった。
しかし、1937年に吉屋信子の人気小説を映画化した『良人の貞操』のヒットを限りに「入江プロダクション」は解散する。
以後、東宝と契約を結び、長谷川一夫の東宝入社記念映画『藤十郎の恋』などに出演し、人気を保つ。
しかし、戦時下に相次ぐ兄3人の死に直面し、仕事に対する情熱も冷めかけた。
更に、戦後は病気がちになり、それに輪をかけるように主役の仕事も減っていった。
1950年にはバセドー氏病の宣告を受け、無理に仕事をしながら入院費を工面し、ようやくのことで1951年末になり大手術を受け、命を取り留める。
退院後は仕事をとることもままならなかったが、大映と年間4本の契約を結ぶ。
その大映に戦前鈴木澄子主演であてた「化け猫映画」のリメイクの企画が持ち上がり、その主役の話が持ち込まれた。
大スターの面子もありためらったが、生活のためと割り切り引き受ける。
1953年『怪談佐賀屋敷』に主演する。
入江迫真の演技が受け映画は大当たり、次々と化け猫役が舞い込んだが、一方で「化け猫女優」のレッテルを貼られる。
更に1955年、溝口監督の『楊貴妃』に出演。
先述のように、かつて入江プロダクションという一女優のプロダクションに雇われの身であったことを恥じていたことから入江に反感を持っていた溝口は、入江の演技に執拗な駄目出しをした上、「そんな演技だから化け猫映画にしか出られないんだよ」とスタッフ一同の面前で口汚く罵倒するという嫌がらせを行った。
執拗ないじめに耐えきれなかった入江は降板、その後は女優として満足な役が与えられなくなった。
1959年、芸能界に見切りをつけ、銀座に「バー・いりえ」を開き、実業界に転進する。
その後は娘の女優、入江若葉の夫の店である有楽町のトンカツ店を手伝いながら余生を過ごした。
その間、黒澤明の『椿三十郎』、市川崑の『病院坂の首縊りの家』、大林宣彦の『時をかける少女』、同じく大林の『廃市』に請われて出演し、話題となった。
娘の若葉によると、かつて化け猫を演じた姿を「女優の生き様として知って欲しい」と、若葉に往年の化け猫映画を進んで見せたという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
入江たか子さんは、ずいぶんと苦労なさったのでござ〜♪〜ますわね?
うん、うん、うん。。。確かに、いろいろな苦労があったのですよう。でもねぇ、注目して欲しいのは、苦労ではなくて入江さんが華族の出身であると言うことですよう。
上の説明には細川さんは見えませんけれど、入江さんと細川さんが、何か関係あるのでござ〜♪〜ますか?
あるのですよう。実は入江さんのお姉さんが細川さんの夫人なのですよう。しかも、そのお姉さんは宮中で大正天皇に仕えていたのですよう。
つまり、入江姉妹が東坊城子爵の令嬢だったと言うことをデンマンさんは言いたかったのでござ〜♪〜ますわね。
そうですよう。人間、お金ができると、次に目指すものは名誉だとか、自分に箔(はく)が付くモノを求めたくなる。
つまり、細川さんはオタク趣味で建物を豪華絢爛に飾った。。。んで、今度はご自身の奥様に迎える人を“豪華絢爛な人”、つまり“華族”から選んだわけなのでござ〜♪〜ますか?
そうですよう。そうであるならば、ステータスシンボルとして軽井沢の土地にあるニューグランド ロッジも、経営的には魅力がないけれど、細川さんにとって自分を飾るために魅力があったに違いない。
要するに、入江たか子さんのお姉さまを妻にしたのもステータスシンボルを得るためだったのでござ〜♪〜ますか?
イヤ。。。それだけではなかったでしょうね。
それだけではなかったとおっしゃると。。。?他にどのような理由で。。。?
細川さんにとって、大正天皇のそばに仕えていた女官を妻に迎える事はロマンだったでしょうね。風呂屋の小僧として働いていた細川さんが、東坊城子爵の令嬢と恋をして結ばれる事など、当時、考えただけでも夢のまた夢ですよう。
そうでござ〜♪〜ましょうか?
だって、そうでしょう!源氏物語の研究者である卑弥子さんならば分かるでしょう!源氏物語の中で台所の釜の下で芝を燃やしていた下男が、藤原氏の貴族の令嬢と結ばれたケースが一度でもありましたか?
いえ、そのような事は、一度でもござ〜♪〜ませんわ。
そうでしょう!小説の中でも、そのような滑稽な事は考えられなかったのですよう。天皇に仕えていた女官を妻に迎えた細川さんが次に取った行動は、豊臣秀吉が“金の茶室”を造ったような気分で、軽井沢のニューグランド ロッジを手に入れたのですよう。事実そうだとしても、決して無駄な事ではなかったでしょう。それも、細川さんにとっては、男のロマンだったのですよう。
【卑弥子の独り言】

ですってぇ〜。。。
細川さんは、本当にそのように考えてニューグランド ロッジを手に入れたのでござ〜♪〜ましょうか?
デンマンさんの理屈に従うと、確かに、ごもっともと思えるのでござ〜♪〜ますわ。
しかし、どうなのでしょうか?
あなたは、どう思いますか?
とにかく、興味深い話題が続きますゥ。
どうか、あなたもまたあさって、読みに戻って来てくださいね。
じゃあ、またねぇ。。。


ィ〜ハァ〜♪〜!
メチャ面白い、
ためになる関連記事

■ 『きれいになったと感じさせる
下着・ランジェリーを見つけませんか?』
■ 『ちょっと変わった 新しい古代日本史』
■ 『面白くて楽しいレンゲ物語』

■ 『カナダのバーナビーと軽井沢に
別荘を持つことを夢見る小百合さんの物語』
■ 『今すぐに役立つホットな情報』
■ 『 ○ 笑う者には福が来る ○ 』

こんにちは。ジューンです。
“旅の恥はかきすて”
日本では、よくこのような諺を耳にしますよね。
あなただって聞いた事があるでしょう?
もちろん外国でも
似たような諺がたくさんありますわ。
ところで、英語では何と言うのでしょうか?
考えてみた事がありますか?
A man away from home
need feel no shame.
文字通りに訳せば、
「家を遠く離れた者は恥を知る必要がない」
と言う意味です。
You can throw away all inhibitions
while on a trip.
「旅に出たら普段恥ずかしくって
できない事をやっていいのよ」
と言う意味です。
You can cut loose while traveling.
砕けて言えば上のように言うこともできます。
また、次のような言い方もあります。
Leave your sense of shame at home.
「(旅に出る時には)恥ずかしいなんて思う気持ちは
家においてくればいいの」
しかし、あまり人に迷惑をかけない方がよいですよね。
ところで、英語の面白いお話を集めました。
時間があったら覗いてみてくださいね。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょうね。
じゃあね。













