絹の道を歩いてみた

2017年7月27日
僕の寄り道――絹の道を歩いてみた

はじめて八王子に出かけたので、以前から気になっていた「絹の道」を歩いてみた。

市指定史跡 絹の道
指定区間 御殿橋から大塚山公園(道了堂跡)まで
安政6年(1859)の横浜開港から明治はじめの鉄道の開通まで、 八王子近郷はもとより長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、 この街道(浜街道)を横浜へと運ばれました。 八王子の市にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、 財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれました。 なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代の末に名づけたものである。
 (八王子市教育委員会)

このあたりは激しく宅地開発が進められているようで、地図や航空写真を見て、その変貌ぶりをうかがい知ることができる。絹の道と名付けられた古道も、かつて十里というから約40キロもあったのが、のこり1.5キロほどになって保全の対象となったという。道了堂跡がある大塚山公園から鑓水(やりみず)村の名主であった八木下要右衛門屋敷跡に建つ「絹の道資料館」までが「絹の道」として残されているわけだ。

大塚山から別れる「絹の道」ではない道。迷ってこちらも歩いた。

絹の道途中でひぐらしが鳴く木陰があったのでレコーダをすえて音を採集し盛大に蚊にくわれた。

平日ということで誰もいない資料館に入って小一時間ほどかけてじっくり見学した。八王子から横浜まで絹を運んだ道をマクロ的に見るために、明治のフランス式測量地図へとプロットした資料が展示されていた。

そしてマクロ的地図の中で、この資料館のある鑓水の地域をミクロ的に見るために立体地図化した資料があってとてもおもしろい。谷戸のある入会地にどんな暮らしが営まれていたかがわかる。

この鑓水の商人たちが栄華をきわめたのは、たかだか五十年ほどだというけれど、たいしたひと時代だったのだろうと思う。戦後五十年の間に日本が復興と高度成長とバブル経済崩壊までいたった年月に等しい。

「ありがとうございました」と管理者に会釈して外に出たら、門前には緑の田んぼがあり、草むしりに精を出されているお百姓がいた。この景色はずっと変わらないで往時のままなのだろう。


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (浮雲)
2017-07-30 21:50:57
お疲れ様でした!
 
 
 
Unknown ()
2017-07-31 12:49:22
はじめての八王子行き。機会を作っていただいたことに感謝します。
 
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