デモクラティックになろう。

自由な空気の学校をつくろうとしています。

葛藤

2010-06-19 04:10:58 | 日記
「サドベリーは地上の楽園じゃない」



これはサドベリー関係者が口にする言葉です。



それはその通りです。


そこには、子どもと子どものあいだにも、スタッフと子どものあいだにも、そしてスタッフとスタッフとの間にも少なからぬ葛藤があります。



しかし、普通の学校でみられる教師と生徒の衝突は、役割と役割との衝突にすぎません。


本来葛藤が生じるはずがない二人なのに、教師と生徒という役割を身にまとうがゆえに生じる葛藤です。



サドベリーでは、役割を演じることから生じる葛藤は比較的ありません。


お互いが対等であることを理念としているゆえに、互いが自分の思っていることを正直に言い、それゆえに葛藤が生じるのです。


普通の学校では、自分が本当は何を思っていることを知らぬまま、教師も生徒も自分の役割の中で行動するだけです。


サドベリーは、自分の行動についてそのような役割に頼ることができません。


一人ひとりの人間性がそのまま表れるのです。



だから、サドベリーは、人間の高潔な部分と卑しい部分とがそのまま現れ出る場だと言えるでしょう。誰もが自分に対して正直なのです。


そこには問題が生じます。



しかしその問題は、通常の学校では見られない、一歩進んだ問題です。


サドベリーは楽園ではなく、そこに関わる人に何らかの痛みをもたらすとしても、それは未来を先取りした痛みでしょう。


あるのは人間と人間との交わりから生じる葛藤です。




特権

2010-06-17 02:58:47 | 日記
「学校」というものに


わたしたちは憧憬を覚える。



それは、


「子ども」



という特殊な時代にのみもてる特権だから。


それが特権であるかぎりにおいて、


形態がいかなるものであれ、


あらゆる学校は共通性をもっている。


「学校」が特権的な場であり、


「子ども」が特権的な時代であること自体は、


否定されるべきことではないと思う。


「学校」をそういう場にするのも一つの選択だから。


「学校」というものに興味を持てない人は、


そういう「特権」的な空間に興味をもてないのだと思う。


逆に「学校」に興味を持つ人は、


そういう「特権」的な場を作り、子どもにそういう場に居て欲しいのだと思う。


それはいいことでも悪いことでもない。



「子ども」というものが特権的な時代であり、


それに憧憬を覚え、


そうであるがゆえに「子ども」に私はかかわりたいのだと思う。



大人は自分がそのように子どもを理想化していることを、


また子ども自身も自分たちがそのような特権的な場にいることを


いつかは自覚しなければならないのではないか。

手段は冷静に。

2010-06-15 03:49:34 | 日記
学校は手段。


手段のために熱くなり、


人を詰るのはヘン。


手段を用いるときは、


冷静に冷静に。

目的

2010-06-15 03:44:11 | 日記
学校の形態はいろいろだけれど、


親が子どもを信頼し、


子どもが親を受け入れるというレッスンを


学ぶことが大事なんだと思う。


デモクラティックスクールはそのための手段にはなるけれど、


目的じゃない。


目的になっちゃうと、


どこかおかしくなる。

正しいこと

2010-06-11 22:16:25 | 日記
子どものために何かしてあげようという意思を否定する必要はない。


子どものために何ができるのか? 何をすればいいのか?


そのことに悩んでいる姿は、正しい。




子どもが自分の思い通りにならないことにイライラするのは、間違っている。