豊田市、気ままに、彼方此方散歩

豊田市在住の者として豊田市内の、あちこちを徒歩で、自転車で、端っこの所は勿論、自動車で、訪れて見たいです。

永択寺へ

2006-10-29 07:54:27 | 散歩
永択寺に参詣

国道155号をグリーン道路八草インターに向かうと、右側に小さな標識が立っている。
「永択寺 →」の標識だ。これに従い細い道を入って行く。
道の行き止まりが目的の「永択寺」だ。
さて、この寺は、何と読むのでしょうか。
「えいたくじ」と読むのではなく、「ようたくじ」と読むようです。
ちょっと読めないですよね。

永択寺への道
    


寺門



山門の両側に池があり、右手には小さな滝がある。



山門



寺門前左手の表示板の解説文
市指定文化財
今川義元文書 三通 永択寺
永源寺には、三通の今川義元文書が残されています。今川義元は天文十八年(1549年)
西も川一円を掌握し三河守護の立場で検地をし諸寺社の本領安堵や寄進を行いました。永択寺
の文書は天文十九年(1550年)の制札、弘冶三年(1557年)の今川義元安堵状、弘冶
三年の今川義元の制札の三通です。これらの文書に室町時代の末期にこの地方まで
今川家の勢力が及んでいたことがわかります。
この文書が出されて三年後、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に倒されました。
豊田市教育委員会

こんな話を聞きました。
第二次世界大戦中、本土空襲が激しかった時のことでした。
この寺の前の大きな松ノ木に、落下傘で降下したアメリカ兵がひっかかっているのを発見。
村人が大勢手に手に棒を持って集まって来て、大騒ぎになったそうです。
喧喧諤諤意見が飛び交い・・・・・・だったそうです。

永択寺本堂の左に一本の大きな公孫樹の木があり、沢山の実を落としていました。
ご住職はこれを利用されないのでしょうか、根元に落ち葉と一緒に掃き集めてありました。
実は小さな物でしたが、比較的大きなものを選りだして拾ってきました。
ありがとう。仏様に感謝。

八柱神社(八草町)を参拝

2006-10-25 10:35:45 | 散歩
八柱神社を参拝

各地に八柱神社と名の付く神社は沢山あるが、この神社は国道155号を
グリーン道路八草インター方面に向かうと、右手の小高いところに見える。
この道路に平行して走る愛知環状鉄道の高架をくぐってすぐの所にある。
改築して、わずかと見えて白木も新しくきれいな社だ。
其のぶんありがたみも少ないように思えた。






猿投温泉から海上の森へ(2)

2006-10-23 09:45:18 | Weblog
猿投温泉から海上の森へ(2)

猿投温泉金泉閣の前を抜け、急坂の階段を難儀して、鈴ヶ滝湖に達した。
ここからは、平坦な細い山道になったが、それでも上っていることには違いない。
しばらく行くと、車も通行可能な林道にぶつかり、右に行けば猿投山山頂へ、
左へ道を取れば瀬戸方面だ。
左に取る。
すると、二人の中学生と思われる二人に出会った。
二人は腰を下して自転車を前に作業中だ。
「こんにちは」と、大きな声で、元気に挨拶をしてきた。
「こんにちは、何してるの、パンクしたのかね、」
「自転車のチューブを履き替えているんです。これから、山道になるので、
それようの物に代えているんです。」
「えっ、代えるの。前も後ろも?後ろを代えるの大変でしょう。」
などと、話が弾んだ。
聞けば、三好から来たとのことで、自転車が大好きで、こうやってよく
サイクリングに出るそうで、同好の士「5人でチームを作っている」
今日は生憎3人がテストのため2人で来たとのこと。

杉木立の細い林道を快調に下っていくと、車止めのステンレス製の杭が設置されていた。
後で聞いたところによれば、オフロードのバイクが入って走り回って、道路を荒らし、
危険でもあるので、木製の杭を打って進入できないようにしておいたところが、
之をわざわざ引き抜いてしまったとのことだ。
それで、今回は新たにステンレス製の物にしたのだという。
全くひどい話だ。
なるほど、下る途中、バイクを積んだ軽トラに三台ほど行き会った。
これらのバイクが柵止めを突破して道を荒らすのだと了解した。

杉林を抜けると畑が広がり家並がある。一山越えてきたのだから、
てっきり豊田市から瀬戸市に入ったのかと思ったが、そうではなく、
ここも豊田市だという。
豊田市広幡町だ。

さて、どの方向が海上の森か見当がつかぬ。
農作業中の人に聞く。

途中右手にこんもりとした森が見えた。鎮守の森らしい。
きっと大木があるに相違ない。

豊田市の名木 No.129 シイ、シラカシの森
    


広幡町 八幡宮の鳥居



八幡宮への階段



八幡宮



又、道を尋ねるべく人を探したが、なかなか見えない。やはり地図を持って来るべきであったかと
後悔した。しばらくはゆっくりと自転車を進めた。
家の造作をしている人を見かけたので、わざわざそこまで行って、道を尋ねる。
どうも来過ぎてしまったらしい。戻って、愛工大の建物を目安に進める。
「椀貸池」の表示板に気づいてちょっと寄ることとした。


椀貸池とその高台にある胸形神社






愛知工業大学正門



入り口横の信号を右手にとって進む。
立派な道路だ。散歩中のの人と話す。
瀬戸市に在住の方で、愛知県陶磁資料館、愛知万博記念公園を経てここまで来たという。
かなりの距離を歩いて見えてびっくりした。
その人の言われるのによれば、この付近一帯は愛知万博瀬戸会場の跡地だそうだ。
なるほど言われてみれば道路もいいし、あちこちが、平らに切り開かれて、、木々もなく
ススキと雑草の生い茂る空き地となっている。そして、建造物のメインであったであろう
巨大なパラボラアンテナ状のものが残されている。
又、斜面に何やら描かれた看板状の物が寂しく残っている。





愛知海上の森センターに到着





配布されているパンフより
2005年「自然と叡智」をテーマに愛知県で開催されました
日本国際博覧会(愛知万博)。
多くの人々の自然への関心を呼び起こすきっかけとなりました。
「あいち海上の森センター」は「愛知万博」の理念や成果を継承するために
「愛知万博」のパビリオンであった「瀬戸愛知県館」を
改修した施設で・・・・以下略


挙母まつり

2006-10-16 08:30:40 | 散歩
挙母祭りに行きました。

この日も晴天に恵まれている。
風も無く、少々暑いが、散歩には支障ない。
歩いて行こう。
4時が「山車」の一斉引出しだという。
それに間に合うようにと2時に家を出た。ところが、予想に反して到着までに
時間がかかると思われ、急ぎ足になる。散歩をかねてという速度ではない。
3時45分到着。
境内は人であふれている。
屋台の排出する臭気と人の移動に伴いたちあがる熱気と埃で一杯だ。
参道の両側に立って山車の出はまだかまだかと人ごみに耐えながら待つ。


そして4時きっかりに花火と合図があっていよいよ、山車のおでましだ。
神社前に集結していた八台が、それぞれの「町名」を記した幟を先頭に掛け声も勇ましく
紙ふぶきを撒き散らしながら出てくる。
「中町」の幟を掲げるのは、我々の「カゴの会」の仲間N氏だ。
それにつづいて、引き綱を持つ小中学生や老若男女、法被を着ている人、
いない人雑多だ。この人たちが、敷き詰められた、紙切れの上を歩く。
中には前に足を置き、踏ん張って、引きずられていく子供もいる。
最後尾に「山車」が続く。
山車の頂上に乗った若者が、笛、ラッパなどを鳴らし、勇ましい掛け声とともに
紙ふぶきを撒き散らす。山車がカーブを切るときが一番の見せ所と心得ているのか、
最大の紙ふぶきとなる。
見物する人々の中から歓声の掛け声も、拍手も起こらない。
ただ山車の上から上がる掛け声と、綱を引く掛け声だけが大きく響き渡る。












猿投温泉から海上の森に抜ける

2006-10-12 19:55:33 | 散歩
猿投温泉から海上の森に抜ける。

この日も晴天に恵まれている。
自転車で、気の向くままに出かけてみたくなった。
千円札を一枚をポケットに突っ込み、ペットボトルとタオルを持って出かけた。
猿投北交流館によってから、猿投温泉を目指す。
道横の案内板には「←猿投温泉 5分」の表示に従い進む。
5分と言うのは多分、間違いなく自動車でのことだ。
自転車では何分かかるのであろうか。

雲ひとつ無い青空。
心地よい気温。
木々の生気ある青さ。
ついつい鼻歌も出る。

しかし、其れもすぐに終わる。
急な坂道に息も荒くなる。長く続けてペダルを踏むことはできず、仕方なく歩く。
でも歩くことによって周囲の様子。路傍の草花。じっくりと視線を注ぐ。
あっ!ここにこんなものが、と新しい感動もある。



猿投グリーンロードの下をくぐる。
    


やっとの思いで猿投温泉入り口に着く。
しかし、やたら、草を抜くな、触るなの、立て札が目に付いて、興ざめだ。
もう少し、優雅なコピーにして欲しい。



猿投温泉ホテル金泉閣
泉質 : 単純弱放射能泉
効能 : 肝臓疾患、血液浄化など
源泉数 : 2
泉温 : 22.5~23℃
湯量 : 100リットル/分
飲用 : 可



上の写真の前を通って突き当たったところに、鈴ヶ滝不動明王がる。



鈴ヶ滝不動明王横に、鈴ヶ滝がある。



さて、ここからが、自転車で来ている身にとっては、大変だ。
勾配のかなりきつい階段になっている。
かなりの距離を自転車を担ぐようにして、押し上げて行く。
後から登って来た夫婦、孫を抱いた若夫婦、そして其の両親達に道を譲って、ゆっくり上る。
階段が無くなり、平坦な道に出る。
鈴ヶ滝湖だ。
あたりの木々を水面に写し、静かな佇まいだ。



鈴ヶ滝湖
平成13年9月11日の東海豪雨により上流の砂防堰堤を突破した大量の土砂が
湖に流れ込み6~7割の広さが埋まり湖面の面積が小さくなっております。地形的
に土砂の搬出による原形復旧には相当の年月が必要ですが進めてまいります。

との、猿投温泉からのコメントが貼り出されていました。


以下次回


松平城址へ

2006-10-10 14:58:11 | 散歩
松平城址

松平郷、高月院の見学を終え、今までは殆ど上りの連続で、自転車を引いて
ばっかりでしたが、ここからは、快適に坂道を下ることができた。
国道301号にかかるところで、左手の案内板に気づいた。
「松平城址」は左への矢印だ。
急ブレーキをかけて、左への細道に入った。
またまた、急な坂道だ。
今は記憶が定かでないが、確か、約300m先の表示だったような気がする。

道の右手に松平城址の案内板があり、それにはこう記されている。
松平城址
    豊田市松平町三斗蒔17
郷敷城と称する。応永(1394~1427)の頃松平(徳川氏)の始祖親氏の築城と伝わる。松平氏館跡の南東500mお城山と呼ばれる標高298mの山頂に位置し、本丸は約6アール、西北部山腹に二の丸、その下段に三の丸が見られる。西部の地は総て急峻な斜面で本丸跡の下方約15mの山腹に南、東、北の三方にわたり幅3~5mの空掘りが約200m残っていて不時の敵襲に対する室町時代の典型的な山城である。文禄(1592~1595)のころに破却と言われているが定かではない。
   昭和61年3月  松平親氏公顕彰会

今は、二の丸跡、本丸跡、三の丸跡などの表示がしてあるだけで見るものは無い。





雑木林の中に、一本の栗の木があった。
山栗だ。実は小さいが、沢山落ちていたので、イガを割って、実を拾ってきた。
茹でて食べたが、実が小さいので、食べるのに多くの時間を費やした。

松平郷と高月院(2)

2006-10-07 07:44:31 | 散歩
松平郷と高月院(2)

松平親氏頌徳碑
松平東照宮を出ると、最初に右手に見えるものが大きな石柱の一群だ。
階段を上る右手にあるのが、写真の碑文だが、なかなか判読するのが難しい。



そして、奥に、大きな台座の上に立っているのが、松平親氏の像だ。



豊田市松平郷より勢力を拡大して行き、徳川家康が徳川幕府を開いた。その家康の
8代前・初代親氏は、徳阿弥と名乗って時宗の僧として諸国を行脚していて松平郷へ
やってきたとつたえられています。松平郷で松平太郎左衛門家の婿となり家を継ぎました。
親氏は西隣の林添村の薮田源吾忠元を討ち、南方の額田郡乙川上流地域を支配下に
治めました。また松平郷中に松平城(郷敷城ともいう)を築きました。(パンフ松平郷館による)

車道を外れ、木々に囲まれた、階段の多い遊歩道を歩き松平郷唯一のお食事所「天下茶屋」
を抜けて、高月院に至る。









山門への階段左手に仏足石」「胸瓦」が置かれていた。



仏足石
お釈迦様の足跡です。インドにおける仏足石はお釈迦様の代理を意味し、そこで説法された
ことを示しています。仏足石はお釈迦様の遊行法論を表し、足裏に描かれている図を
千フク輪相といいます。



高月院
高月院は貞治六年(1367年)の創建で徳川氏の始祖松平家の菩提寺です。慶長七年(1602年)
寺領100石を徳川家康より下賜され、以後幕末に至るまで厚遇されました。
境内の収蔵室には市指定文化財の高月院文書、弁財天の図、野風炉など貴重な文化財が
展示されています。
境内は国指定史跡「松平家遺跡」になっていますが、初代親氏、二代康親、四代親忠夫人の
墓所があります。豊田氏教育委員会(立て看板による)

松平郷と高月院

2006-10-04 08:37:21 | 散歩
松平郷と高月院(1)
国道301号線を自転車で松平に向けて行く。
松平橋を渡り、松平中学校を過ぎる頃から、道は殆ど上り坂となる。
自転車に乗っていくのは困難だ。
一生懸命にこげば何とかなるが、いかんせん長続きしない。
従って自転車を引きずって歩くことになる。
ようやく、目的地、松平郷に到着。
土日でないせいか、人影はまばらだ。
松平東照宮の前のお堀には、大きな鯉が泳いでいた。
橋の上から鯉達に、「もう無いよ、もう無いよ」と話し掛けなが、餌を与える人を見た。
しばし、この長閑な光景を眺めながら、シャツを脱いで、涼をとる。
そして、一礼二拍一礼して参拝。
この方式が正しいかどうかしらないが、いつもこのようにしている。

松平東照宮



八幡神社



ここに、家康公産湯の井戸がある。



松平東照宮・八幡神社

当社の歴史は古く、松平家の氏神として、若宮八幡宮を奉祀し、元和五年(1619年)に
久能山東照宮より徳川家康公の御分霊を勧請して合祀して以後「松平の権現様」または、「松平の
東照宮」と呼称され、立身出世の神、政治の神、安産の神、厄除けの神として、
広く崇敬され親しまれている。




大窪遺跡

2006-10-01 18:47:31 | 散歩
豊田市指定 大窪遺跡
国道301号線を松平に向けて行くと、大窪遺跡の案内板があった。
左方向への道案内に従って細い道を進む。
舗装された道は途中でなくなり、砂利道となり、やがてこれも無くなって、
草の生い茂る中に、かすかに踏み跡が残るものとなってしまった。
心細く果たして目的地に達することができるかと心配になったが、
要所要所に立てられた案内板に勇気付けられて、自転車を押して山道を登った。
そして、立て看板を見つけた。
が、目指すものはどれか。
よくよく探してみると、草に覆われ、くもの巣が張った入り口らしきものを確認。
これが目指す大窪遺跡だった。






大窪遺跡は縄文時代早期、弥生時代の前期奈良・室町時代の生活の痕跡が残された
岩陰遺跡です。
岩陰の大きさは、高さ平均1,4m、幅2~3,6m、奥行き4mで、
一般的な竪穴住居と同じくらいの広さとなっています。
昭和40年に行った結果、埋土上層から奈良平安時代の焼き物が多数出土し、
その下層から石囲いの炉跡とともに弥生式土器が発見されました。
これらの土器の中には、三河地方では例の少ない遠賀川式土器が含まれ、
西方より伝わった稲作文化の浸透を示しています。また、奥部からは縄文土器として
最古の形態の尖底土器も出土し、この岩陰利用の古さを物語っています。
(立て看板より)