村上原基の「出来た・出来ます体験」を紹介します。どうしても出来なかったことが何かのきっかけや工夫で出来た体験を広めたい

例えば英会話等出来なかったことが結果的に出来たという事例を紹介し、出来ないで悩み続け、具体的な話を聞きたい方に講師紹介

出来た・出来ます骨子Nо.10「店に行く、依存し、金払って、他人に頼むでなく、自分でやる」

2016-03-31 07:37:38 | 不可能を可能に
出来た・出来ます骨子掲載開始   ⇒指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
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村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
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テーマ
店に行く、金払って、他人に頼むでなく、自分でやる、創意工夫する、無駄なくす

概要
1.過去はどうだったか     あまりにも無駄なことやっている
高齢化で生命保険より医療保険の必要性が増大、お金も銀行預金か日本株がせいぜいだった
散髪は床屋に行く、大工仕事は大工さんに頼むか新品に買い替える
昔は当然のごとく新聞を毎日配達してもらっていた
東京に行くのは新幹線が当たり前だった
固定電話やFAXはまだ使っている人も多いが私も昔はその一人だった

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
頭の髪の毛も薄くなり、女性の目も気にならなきなると高い床屋に疑問を感じた
歳とるよ新聞もテレビやネットで十分になりわざわざ紙で見ることに疑問
暇で急ぐ必要もないのに東京に行くのに新幹線往復3万円もかかるのに疑問
生命保険をかけても高齢化で、子供や嫁さんが困ることも減った、むしろ医療保険

3.どうしたのか、何をしたのか     止めてしまえ、変えてしまえ
1)新聞は20年くらい前からとっていない、テレビやネットで置き換える
2)髪の毛も少なくなり、人目も気になることが減ったので20年散髪は自分でやっている
3)健康保険は30年前に止めた、その代わり、当時医療保険に加入した
4)大工仕事は自分でやるようになった、大幅に安くでき、思い通りに出来る
5)東京行くのに15年前から高速バスで行くようにした、1/3くらで行ける
6)固定電話やFAXは15年前に廃止、インターネットや携帯:に変更した
7)その他自前でやったり、インターネットを利用して安くする方法を見つけている
8)高齢化で食が細り、ごはんは一合で一日分、買う弁当も2回に分けて食べている
9)風呂は冬は週一、夏は太陽の熱でお湯をシャワーにして利用、ガス代月1500円

4.どうなったのか     大胆に止める・変える
1)意味のない、価値の少ない出費が月に約2万円減った
 固定電話等2、床屋3、新聞5、保険5、新幹線5、大工2=合計2.2万円/月
2)電気代、交通費、廃棄物も減った、あらゆる無駄が減っていった
3)資源の無駄使いも減った  4)そしてやがて都会を捨て山や田舎に移り住んだ
5)昔昭和の戦後では普通に家で自分達でやることが多かった、それが復活した

5.一体なにが原因で出来なかったのか
1)世間常識に縛られる    2)過去からの習慣を容易に断ち切れない
3)思いきれない、革新できない    4)調べない、頭を使わない、創意工夫しない
5)自分自身は変化しているのに、その変化に合わせようとしない
6)そんなこと恥ずかしい、みっともないという固定観念  7)やらない、やろうとしない

6.何が良かったのか
1)月2.2万円削減、年26.4万円削減は大きい
2)意味のない、価値のないことに無駄な時間やお金をかけていたのが無くなった
3)革新的技術、技術進歩をうまく利用して費用節減できた
4)更に拡大して掘り下げると、必要そうなものがそうでないことを発見
5)更に拡大して掘り下げると、自分でやればいいことが出てくる

7.提言      工夫すればいろいろな方法が見つかる、考え方変えて止めることも
1)自動車を止める     2)新聞止める    3)床屋止める    4)化粧止める
5)薬やサプリメント止める   7)新幹線を高速バスに    6)固定電話を携帯などに
8)生命保険を医療保険に  9)冬は風呂は数日おきに  10)高齢者は食事を2回分に
11)家具、衣服、電気製品は修理または長く使う 12)禁煙・深酒は止める 
13)家を借りず、家を買いむしろ人に貸す   14)写真はデジカメに、デジタル媒体に保存
15)冠婚葬祭墓の簡素化 葬儀は直送、火葬式で良い、派遣僧侶で良い 戒名も要らない
  京都市の共同墓苑や安い  16)格安インターネットに切替え  17)部屋の持ち物削減
18)エアコン使わない     19)医療保険・障害保険その他必要な保険に限定する
20)衣服はあるものを着る   21)テイッシュなどはトイレトペーパーに
22)夏の風呂は長い水道ホースに水ため炎天下の太陽光で熱々に   その他あらゆること


出来た・出来ます骨子Nо.9「大工なんてやったことない自分がそこそこ大工が出来るようになった」

2016-03-30 19:14:58 | 不可能を可能に
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テーマ
大工なんてやったことない自分がそこそこ大工が出来るようになった

概要
1.過去はどうだったか 大工や電気や水道の修理くらい出来ろよ
昔戦後は家に一式大工道具は当たり前にあって案外父なんかも日曜大工をしていた
また大工さんがあちこちで家を建てたり修繕をしていた、しかし高度成長期には
そんな景色は都会では全くなくなり、日曜大工をしなくなった、子供も危ないから
大工なんか手伝いさせられなくなった、60歳になって山に住むようになって
何でも自分でやらざるを得なくなって大工も半人前に出来るようになった、今は趣味だ

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
山では大工すべきものが多い、暇にまかせてあちこち大工していた
また教えてくれる人が近くにいたし、その人の大工道具を見よう見まねで買った
やっていくうちにやったことがないものが出来るようになったので嬉しくなった、その後
毎日大工をしていたような記憶がある、あれこれやるうち4何でも出来るようになた

3.どうしたのか、何をしたのか     山の暮らしがきっかけだった
1)最初の5年は付近の道路や森や川の清掃片づけ、その後もずーっと継続中
2)6年目くらいから家の中にも目がむいて棚・ベッドなどを手当たり次第作ったが
3)そして鹿対策の庭周辺の囲いやその扉などや木材置き場など
4)数年目に土間の上のベランダの屋根工事、土間の屋根工事、他人の家の屋根工事
5)10年過ぎた頃かなり道具も揃い、付近の先輩に教えてもらい腕も上がっていった
6)その後は水道工事な何でも、やっていくように毎日が大工で明け暮れた
7)そして田中に新居を買って、庭のガレージや屋根工事、家の棚づくり
8)しかし長尾の別荘の荷物を整備し、大工工事したものも大半は取り外した

4.どうなったのか     山暮らしの中で大工は当然のことになった
1)現代人は大工をしなくなったが、私はまあ普通の人以上には大工の腕があがった
2)大工というのは自分の暮らしの大事な一部であり、便利に快適に暮らすために有益
3)暮らしまで自分の意志で簡単に出来るようになりストレスが減った
4)万一災害なんか起きても、住む家くらい自分で作れる自信が出来た
5)趣味と実益がかなえられ、芸術活動とも言えるので新たな趣味になった

5.一体なにが原因で出来なかったのか
1)大工をするのに都会のコンクリ―トの家が適していなかった
2)大工道具を買ってまで都会で大工する意欲が湧かなかった
3)都会では大工する必要性がほとんどない、また大工作業の種類も少ない
4)大工作業する場がない、近隣迷惑なので騒音を出すことが難しい
5)都会ではさほど大きな大工作業する対象がほとんどない
6)大工道具を沢山持つ必要もないし、持つ場所も限られている

6.何が良かったのか
1)ログハウスは木であり大工がし易い、また周辺に空き地が十分あった
2)大工の基礎ができ、初心者向けの工事なら、まあそこそこ出来るようになった
3)頭でっかち、パソコンやゲームばかり、身体を動かさない現代人にならなくてよかった
4)現代は頭で滅ぶより身体の弱さ、肉体作業が出来ないことで滅ぶ
5)自分の暮らしの大事な部分を過ごす家の改善が自ら出来ないことは不幸である
6)家なんか、大工なんか現代人のやることではないという安易な認識

7.提言      大工に限らず、何でもいいが、物づくりをやると良い
1)大工に限らず、基本的な家事は並以上に出来るようになって欲しい
2)ねじ回し、のこぎり、のみ、トンカチなどは当たり前に使えるようにして欲しい
3)大工・料理、掃除、電気工事、水道工事などは自分で出来るのは当たり前だ
4)いざというとき、万一の災害などでは何もできない弱者にならないように
5)基本的な肉体作業は出来る逞しい人であるべきだ
6)頭だけで物事を考え理解したようなことは危険である、身体を使って分かることも大事

出来た・出来ます骨子Nо.8「一社だけでなく、大変だが、いろいろなタイプの企業を体験した」

2016-03-30 07:33:09 | 不可能を可能に
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一社だけでなく、大変だが、いろいろなタイプの企業を体験した

概要
1.過去はどうだったか
1)大手M社で10年管理技術の研究普及、特にIE・VEの教程を開発
2)T電機下請けのE工業で技術製造を担当し業績向上に貢献
3)カスタム半導体電子部品のR社で日本一を体験、最後は環境管理担当、ISO14001へ
4)T社で経営コンサルタントを始め、ISO14001支援も着手
5)ISO14001支援コンサルタントとして独立自営

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
M電器は大企業であったが超有名な社長の経営哲学が浸透し大企業病にかかり始め
M社について私は個人的に面白くなかった「将来この会社は倒産する」と10年で辞めた
東京に帰ろうとしたが撤回、京都の近くの零細企業でいろいろ貴重な基本体験をした
更にベンチャーのR社に転職し、やがて日本一の高収益企業になったのを体験できた

3.どうしたのか、何をしたのか
1)同じ会社で仕事するのはマンネリ化する、3~10年で転職をポリシーにしてきた
  転職した会社が面白ければ長く、つまらなければ早めに見切って転職する
2)更にいろいろな規模・種類の会社で仕事する大企業・零細企業・ベンチャー・自営
3)会社の将来性を重視して選ぶ  4)経営者や取締役の資質で選べたら尚良し
5)大企業は体験したら、せいぜい10年で見切る、理由は大企業は楽しくなかった
6)転職によって技術や経営能力や管理能力の幅や深みが増す
7)転職したら教えてやるより教わること大人しく黙々働く

4.どうなったのか     今思えば、すごく有益な経験が出来た
1)M電器では大企業としての基本を深く、広く勉強できた、成果もあげた
2)E工業では企業再生・有能な経営人の指導・企業の原点を学んだ
3)ベンチャー企業で京都企業のしたたかさ、超高収益を短期間で達成した貴重な体験
4)テクノ経営で経営コンサルタント会社のひどい実態を知って、独立を決断させた
5)関西ISOシニアコンサルタントネットワークを自営して自分で会社運営する初歩を体験した
6)その後金儲け目的ではなく、社会貢献する仕事を今も続けている

5.一体なにが原因で出来ないのか
1)転職に対する姿勢やポリシーが明確になっていない人が多い、一区切り、脱皮だ
2)転職は今の会社が嫌だからでなく、自分を成長させることを目的とすべき
3)転職した次の会社で偉そうにしたり、不平不満が多く、その割に働かないのは駄目
4)なにしろ一生懸命に黙々と働く、目的は自分の成長、仕事を楽しむこと
5)会社で成果を出し、実力をつけて次の会社に売る、但し次の会社に押し付けはしない
6)一つの会社だけ、大企業だけでは企業経営は永遠に分からない

6.何が良かったのか     多くの仕事や会社を経験することの大事さ
1)M電器を10年で見限ったこと、周囲は猛反対だったが未練残さず決断したこと
  当時大企業病が話題になっていたが、その弊害に気づき私は自分なりに決断即行動した
2)E工業は経営陣が優秀ですごく勉強したことが最高のプレゼントになった
3)R社は入社時はさほど業績良くなかったが、カスタム・半導体・歩留まりアップ
  経営陣も社員も優秀・設備は自社製・無駄のなさ・京都の厳しさを学んだ
4)コンサルタントをやって過去の転職で得たノウハウが全面的に発揮できた

7.提言     会社にい続けて悩むくらいなら前向きに転職を
1)一社でずーと務め続けるのは世間も経験も浅く狭くなり面白味はない
2)大企業は業務の細分化によって歯車に過ぎず、硬直化していて面白くない、楽しくない
3)ベンチャー企業は成長性があり、発展すればこんな楽しいものはない、お勧めだ
4)零細小企業も苦労しているだけに興味深く、他では得難い体験を積める
5)大企業には大した魅力的な人はいない、そんな中で一生勤めるのは悲しい

出来た・出来ます骨子Nо.7「元東京人の私が琵琶湖湖畔の安曇川の山暮らしをして18年」

2016-03-29 18:29:48 | 不可能を可能に
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元東京人の私が琵琶湖湖畔の安曇川の山暮らしをして18年

概要
1.過去はどうだったか     経済成長⇒自然を見捨てる⇒不自然な生き方
戦争中に東京浅草浅草寺の裏で生まれ、東京大空襲で母が命からがら川越まで逃げた
戦後は浅草三筋町の家に住んだが見渡す限り一面焼け野原、地平線が見えた
物も食料もなく貧しかった、その後東京は発展し、25歳で大阪へ、29歳で京都に
家を持つ31歳で東京品川の女性と結婚し3人の子供、だが55歳のときに妻他界
55歳全くの偶然、安曇川の山暮らしを始めたが、17年後72歳安曇川の町に移り住む

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
結婚した当時田舎暮らしをしたくて別荘を探したが当時はあまりに高くて買えなかった
妻が他界し、ある日偶然に安曇川の不動産屋に来た、そこで山の物件を案内された
一目で気に入った、たまたまお金もあったので、すぐに購入し山の暮らしが始まった
当初は経営コンサルタントをして山と京都の二重生活、やがて大半山暮らしになって行く

3.どうしたのか、何をしたのか     突如ひっそり山の暮らしを始めた
1)当初は山暮らしというより山を知る、山暮らしに慣れるだけ、そこからスタートした
2)当初経営コンサルタントが忙しく客先や京都にいることが多かった時期
3)でも確実に山暮らしに馴染んでいった、山を訪れるというより山に暮らし始めた
4)やがて、いろいろなことを山でするようになって行った、山や自然も理解して行った
5)仕事も減り山で暮らすことも多くなり、山中心の暮らしに変化して行った
6)山の友人も出来山のいろいろな問題も経験、逞しさを増していった
7)山の人間になっていったが、高齢化を前に72歳で駅に近い町の一軒家に移り住んだ

4.どうなったのか     都会の異常さに気づき、嫌いにまでなってしまった
1)長い都会暮らしの垢を落とした気分、自然に親しみ、自然に同化して行った
2)たっぷり静かさと綺麗な水や空気の中で身も心も洗れていくことを実感
3)徐々に京都に帰ると強烈な違和感、不快感、疲労感を感じるようになって行った
4)都会では気づかなかった人間とか人生とかに改めて目覚めて行った
5)依存の強い都会では体験できない自律・自立・自前、何でも自分でやるように成長
6)コンクリート、アスファルト、自動車の洪水、汚れた環境での都会の違和感に目覚める
7)便利で物が豊かだから都会に住むという認識は崩壊への道と気付く

5.一体なにが原因で出来なかったのか     都会は楽するだけの場所
1)都会暮らしに依存している、やはり何と言っても便利、物や施設や店が身近にある
2)仕事があるので都会を離れられない、友達がいるから都会を離れられないとなっている
3)若者が都会に出て行くのが当たり前、田舎は高齢化し限界集落と化している、情けない
4)かつてのオーナーの老人も去り、若者は金銭の余裕がなく田舎での別荘暮らしは無理

6.何が良かったのか     外国に行くより山に暮してみるほうが値打ちがあった
戦時中、川越の山の中に疎開していた。東京は一面焼け野原、空き地も多く生物も沢山いて
 東京はまだ田舎であった。夏休みはお婆ちゃんの鵠沼の家で田舎暮らし、学生時代はスキーや
 民宿で田舎暮らしを体験、女中さんの実家の千葉の田舎も行った。下地になっている
・退職、妻が他界、コンサルタントになり、偶然に安曇川の山にログハウスを見学に来た
・京都も山・川・緑に恵まれているが、基本的には都会でうるさい・汚い・殺伐・狭い
・安曇川は京都から40分通勤圏であり、店や病院や最低限の施設も整っている
・京都の都会暮らしと安曇川のひっそりとした山の暮らしを半々で楽しめた

7.提言     自然の暮らしを全く知らずに一生を終わる悲しさ。もったいない
1)人の暮らしの原点である山やひなびた田舎の暮らしを是非体験して欲しい
2)山が世界一多い日本で、自然豊な山で子供さんと是非一緒に暮らして欲しい
3)人のいない山は僧侶の修行場であったように、人間を根本から問い直せる
4)依存の過剰な都会に長く住む危険、自分を見失ってしまう危険
5)山から京都に出てくると、京都の人が小さく、劣悪な環境で気の毒に見えてしまう
6)ネットや観光やまた聞きで分かったと誤解せず、実際にひっそり、山に暮らしてみよう


出来た・出来ます骨子Nо.6「長いこと全く苦手だった卓球が急に短期間に上手くなった」

2016-03-28 19:23:43 | 不可能を可能に
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長いこと全く苦手だった卓球が急に短期間に上手くなった

概要
1.過去はどうだったか      つい2月、73歳まで卓球は下手だった
卓球は好きだったから台があればよくやったが、上手くなることは絶対になかった
玉が安定して打てないから、ラリーが続かない
卓球台がある旅館で卓球するが、今一つ下手      格好いい経験が一切ない
特に恰好いいスマッシュがうまく決まらない  ついスマッシュをしたくなるが駄目だった
だから好きなわりには好きにならず、長続きしない
したがって未だかつて卓球が上手かったり上達したことがない

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
73歳で或る日、長い板が余った、捨てるのも大変だが、台所の机の上に板を乗せた
その板の乗った机を壁にぴったりくっつけたら、その壁には白板があった
机と壁が壁打ち卓球台に見えてきた、そうだここで壁打ち卓球をしよう
そして卓球してみたところスムースに一人卓球が出来ることが分かった
そして毎日暇な時間に一日何回も3分くらい卓球を続けた

3.どうしたのか、何をしたのか
打った球が壁から帰ってくる、一人卓球が始まった、
田舎の町の家は狭いながら、広い台所の食卓が卓球に使えそうだった
そして不要な長さ2m、幅50㎝ほど一枚の木の板が出てきた
それを食卓の上に何となく載せてみた、うまいことに先の壁には薄板が設置されていた
あれ、ここで卓球できそうだ、やってみようラケットがあったので打った、上手くは打てない
壁打ちなので一人で好きな時に問題点を分析改善しながら練習ができた
一週間ほどやっているうちに突如コツをつかんだ、急速に安定して打てるようになった

4.どうなったのか     但しまだ相手と打ってはいないのだが
1)食卓に細長い板を乗せ壁の白板に壁打ち卓球をし始めた
2)相手が人間でないので、相手に関係なく、自分の思うように練習が出来る
3)壁打ち卓球は問題点がすぐに明らかになる
4)明らかになった問題点をすぐに改善して打って、これまたすぐに効果を確認できる
5)何ということはない、一週間ほどでコツをつかむと急速に上達してしまったのだ

5.一体なにが原因で出来なかったのか
1)卓球するには部屋も狭い、卓球を先生について改まって習ったことがない
2)卓球のコツやポイントを知らなかったので無視して出鱈目にただ打っていた
3)やたらと振り回していたが、ラケットをあまり変動させてはいけないことを知った
4)卓球する場所がなかった(壁打ち卓球台がういまいこと偶然に使えるようになったが)
5)いい加減な打ち合いばかりで、じっくり練習することがなかった
6)相手がコーチのように上手い人でないのできちんとした初歩的な練習ができなかった

6.何が良かったのか    まず基本的な打ち方をま正直に繰り返す
・壁に打って反発して素直に帰ってくるので初歩的な繰り返し練習がやりやすい
・相手なしの壁打ちで、玉を前で受けてまっすぐに返すことをまず習得する
・玉を打つときにラケットを前に押し出しぎみで打つことをまず習得する
・ややラケットを前に被せるが、被せ方は少しで、加減して被せる
・まずはまっすぐ丁寧に返すこと     ・ラケットの面をまっすぐにボールにあてる

7.提言    まず基本的な打ち方を正確に打てるまで続ける
・ボールをうとうとしない、まっすぐにあてて返すことに集中する
・ラケットを振り回さない  あまり角度を変えないで打つ
・ラケットでボールにあてそこから前にラケットを押し出すようにする
・まずは初歩的な打ち方がきちんとし、いきなり高度な技をやらない
・壁打ち卓球は初歩的練習の繰り返しに最適である   ある程度できてから相手と打つ
・まずは他人と打つ前に自分が打っ、自分が打ち返すことで全て自分の問題となる

出来た・出来ます骨子Nо.5「東京から大阪そして京都に移り44年、何とか京都に溶け込む」

2016-03-25 14:04:52 | 不可能を可能に
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東京から大阪そして京都に移り44年、何とか京都に溶け込めるようになった

概要
1.過去はどうだったか    千年の都の京都弁・京都は奥が深過ぎて入り込めない
25歳で単身大阪の会社に就職したが、まず、こてこての河内弁の洗礼を受ける
4年大阪にいて、29歳で京都に家を購入し住み始める、京都弁は大阪弁とかなり別物
当初、大阪弁話すのもいい加減だから、ましてや京都弁は、ほとんど話せなかった
大阪から京都へ転職するが京都は溶け込めない、一言さんお断りの雰囲気で排除される
29歳から今73歳まあ、やっと京都のことが、わかり京都弁もかなり話せるようになった
観光で京都に来るのとは大違い、戸惑いどおし、千年の都京都はあまりに奥が深い

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
長年ひたすら、京都に住み、京都の会社で仕事をし、京都人とつきあってきた
京都の良い面だけでなく、全ての面を見た、それらを長く続けた、それ以外にない
その結果、京都人の心を知り、京都弁(外国語)もかなり習得したことだ、言葉は大事だ
京都弁を必死にしゃべり、京都人の中に入り込むことが重要、これはどこでも同じことだ

3.どうしたのか、何をしたのか     京都に暮すことを躊躇う東京人多し
1)京都に43年暮らした、ちなみに東京は25年で京都が圧倒的に長い
2)とにもかくにも京都弁を話さな何も始まらない、下手でも構わない、どんどん喋る
3)京都の会社や社会に入って京都人の厳しい仕事や考え方を直接知る
4)京都弁で話し、京都弁で考え、京都弁で行動する・・・かなり話せるようになった
  独特な単語、京都弁のアクセントは逆、微妙なニュアンスの表現など難しい
5)京都もあちこち出かけた、道もかなり覚えた、名所も寺も庭も格別なものではなくなる

4.どうなったのか     京都弁で考えるようになったのが何よりの証拠
観光者でなく京都の住人になった。暮らしに根ずく京都弁が身についている
京都暮しが長い私にとって、珍しい古都でも、観光の場所でも、格別のものでもなくなった
自分の住む、暮らす場所になった、すなわち京都が新たな本籍地になった
東京の人や暮らしにはかなりの違和感を感じるようになった(東京の良い面は沢山あるが)
より深い日本の古里京都に暮して日本人として自分を発見した東京⇒京都⇒滋賀の山
京都から更に隣の滋賀県の田舎に暮らして更に深く人生を見つめ直すことになった

5.一体なにが原因で出来なかったのか      京都人は一日にしてならず
以前は、京都を外からよそ者的・観光者的・傍観者的に眺めていただけなのだ
京都観光なんて糞の役にも立たないことがわかった、それ以来原則、観光はやめた
とにかく移り住み、暮らす、現地語を話すことで、現地人と付き合う感覚を持つ
異文化に入り込み溶け込むなんてことを人はしたがらないが、それでは何も進展しない
今は滋賀県安曇川に18年移り住んで暮らしている、山暮らしも18年続けてきた
生まれた東京にあのまま暮らしていたらすごく狭い薄っぺらい人間になっていたはずだ

6.何が良かったのか      東京生まれで京都に長年深く住む経験をする人は少ない
1)身寄りが一切いない京都で一人暮らし続けてきたこと
2)京都弁をひたすら話すようにしてきた 3)大阪2社京都の会社2社で仕事した
4)関東の人は関東自身もわかっていない、京都を知り、関東を知るために京都で暮らす
5)京都や関西の人と仕事やお付き合いができたこと
6)73歳の今では、ほぼ京都人に同化してしまったが、何といっても元東京人

7.提言
1)関東の人はぜひ関西に暮らすべき、関西の人は関東で暮らすべきだ
2)千年の都、戦争の被害も少なかったし、やはり深い、その深さを学ぶべきだ
3)最初から諦めず、ひたすら京都弁を話すようにする、35年はかかる
4)古都京都は結構いけずで、頑固で、地味で・・・あるが、興味深いところ
5)単なる観光者では駄目、観光旅行ではなにもわからない、まず異郷で暮らすべき
6)「京都に何回も行ってます、京都はいいねー大好き」なんて人は京都を分かっていない

東京浅草三筋町昔24年私が住んでいた現在の景観

出来た・出来ます骨子Nо.4「長年腰痛に苦しんだが72歳で総合病の腰痛を克服」

2016-03-22 07:32:05 | 不可能を可能に
出来た・出来ます骨子掲載開始   ⇒指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
   京都事務所:京都市伏見区深草出羽屋敷町ファミール伏見
   滋賀支所: 滋賀県高島市安曇川町田中(竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談や出来ない相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ
骨子について指導や講演を依頼したい場合⇒依頼ホームページへ

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氏 名:村上和隆   年 齢:73歳 男 出身県:東京都  現在地:滋賀県高島市
最終学歴:東京工業大学    企業歴:大手M電器、E工業、中堅R社、Tコンサル会社
テーマ:長年腰痛に苦しんだが72歳で克服(但し100%完璧に直そうとしない)

テーマ 長年腰痛に苦しんだが72歳で総合病の腰痛を克服(腰の痛みだけに拘らない、100%完璧に直そうとしない)

概要
1.過去はどうだったか
私は長いこと悪性の腰痛に苦しめられてきた。5年前にМRI検査などでヘルニヤと坐骨神経痛、背骨も歪んでいると医者で言われた。歩行困難やぎっくり腰も何回もやったし
67~71歳くらいは腰痛最悪のピークで腰は曲がり、どんどん年寄り臭い、絶望的な状況であったそして次々に治療を試みて、時間とお金も40万円くらい使ったが現在振り返ってみると、皆効果はなかった、それらはあくまで一時的処置・応急手当であった

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
・整体これが一番長期間でお金がかかったが結果的には30万円以上無駄にした
 先生が自信たっぷり「絶対直る」と言うのを信じて通い通したが結果は駄目だった
 整体師や整骨院の言うことを100%信じてはならない、根本治癒はしないのだ
・神経ブロック注射は一時的によく利いたが、原因が直ってないのですぐにぶり返した
・テレビで宣伝していた腰痛、しびれに利く画期的新薬も飲んだが胃を壊して止めた
・更に保険適用の整骨院も通ったが効果は一時的気休め、しつこい腰痛には効果なし
 「整体や整骨や注射や薬」ではまず治らないと断言する
一時的に治った、痛みが緩和したに過ぎない、根本は何も変わらず長引く
整体師・整骨師に責任はない、自分自身にある、ユメユメそのことを忘れてはならない

3.どうしたのか、何をしたのか
・長年続けてやっている無理なスポーツや作業は一旦、一年以上やめ様子を見る
・自転車に毎日乗る、徐々に坂道も漕ぎ上がる、サドルは高くして⇒足腰に筋肉がつく
・歩くのはせいぜい一日合計3000歩まで(一万歩など歩き過ぎはよくない)
・自前のストレッチは毎日1時間、未だにどこでも「よく動き回る爺さん」で通っています
 大事なのは、私の場合70歳にあった自分なりの運動や作業を工夫していること
 身体のあらゆる部品は摩耗し、摩滅し、歪み、変形し、ヒビが入り悲鳴を挙げている
・階段はできるだけ足でゆっくりでもいいから上がる、エスカレーターは絶対乗らない
・寝る時30分腰の下に自動車用の背当てクッションをして逆反りもお勧め

4.どうなったのか
最近、何故か急にひどい腰痛はほとんどなくなった(少しだけはあるが、それで満足)
腰痛を完璧に直すのは止めた、というのはそれこそ腰痛が直らない原因かもしれない

5.一体なにが原因で出来なかったのか 原因は多岐にわってている
腰痛は根深い過去の習慣病・総合病だ、総合的な生活習慣を見直すことだ
①無理なスポーツを続ける、無理な仕事・作業を続け、止めようとしない
②姿勢が前屈み、猫背、やはり姿勢は基本中の基だと思う、筋肉の衰え
③自動車や原付バイクに頼り過ぎ(私は最近自転車にシフトしている)
④座り方が出鱈目、真っ直ぐきちんと座れていない  ⑤加齢、歳のせいにし諦める
⑥事務やパソコン作業で続けて座り続け(頻繁に立ってストレッチや家事をする)
⑦適度の運動や作業が不足  ⑧偏った身体の使い方、身体を満遍なく使っていない
⑨足腰の筋肉がへたっている   ⑩手足の血行不良、しびれ、むくみ放置
⑪強い力仕事や運動を全くしていない   ⑫肥満、栄養バランスが悪い

6.何が良かったのか    姿勢をきちんとし、整体・整骨に頼り過ぎず総合的な見直し
サイクリング・姿勢補正・過去の無理な運動止める・ストレッチ・いろいろな軽作業
腰痛を諦めない、自分で直す・自分が直す、100%完璧でなく70%で満足する
30分腰に枕をかまして背伸ばし    うつ伏せで手で頭持ち上げ逆ぞりも効果的
サイクリングも腰に負担かからず筋肉増やせる  歩行は付近を軽く歩く程度、無理しない
エパデールカプセル600mg服用で足の極端な冷え、しびれや血流が改善

7.提言       腰痛は総合病なので腰の痛みだけをとっても意味なくむしろ悪化させる
    腰の痛みは結果であって、腰の痛みだけをとろうとすると腰痛は永遠に直らない
きっぱり無理な仕事や運動を止める、少なくとも3年~5年はすっぱり完全に止めてみる
最大の原因を取り除かないで、針灸や整体しながら無理して続ける人が多いが駄目
腰に良いことは何でも続けて少しづつ組み合わせて毎日やってみる


出来た・出来ます骨子Nо.3「虫歯も歯肉炎もほったらかし、正しい歯磨きを始めて約20年」

2016-03-18 13:32:03 | 不可能を可能に
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村上原基人生勉強会
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氏 名:村上和隆   年 齢:72歳 男 出身県:東京都  現在地:滋賀県高島市
最終学歴:東京工業大学    企業歴:大手M電器、E工業、中堅R社、Tコンサル会社

テーマ:虫歯も歯肉炎もほったらかし、正しい歯磨きを始めて約20年

概 要
1.過去はどうだったか
20歳までに虫歯は沢山あり、都度治療してきた、その後大した問題意識も持たずに
45歳くらいまで喫煙していたし、間食をし歯磨きも朝と夕食後二回
55歳になるまで虫歯/治療を繰り返してきた、口や歯は汚れたまま
高齢化の時代に向かって、虫歯や歯周病対策の予防を一切やってこなっかた
歯もしみるとか時々痛むなど、なんとなく不気味な状況になっていった

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
55歳になるまで虫歯/治療を繰り返してきたが、ある日歯医者でクリーニングを受け
医者は磨けてないを繰り返す、でも私は歯磨きしていると思い込んでいた
テレビでも歯周病の危険を超え高に放送するようになっていた
    55歳で歯磨きを抜本的に見直しそれ以降改善を加えながら継続してきた

3.どうしたのか、何をしたのか
1)毎食後歯磨きする一日3回磨く
2)間食を一切しなくなった、平気になった
3)夕食後歯磨きして夜寝るまで何も食べないで更にもう一回入念に歯磨きする
4)歯ブラシ3種類、電動ハブラシ、歯間ブラシ2種類、歯垢とり具、歯磨き2種類を駆使
5)一日1~2回、硬いものを食べる、しっかり噛む
6)舌を見て、付着があれば、また夜就寝前も舌苔もきちんととる
7)鼻炎を直し、口呼吸を止める    8)口のストレッチをする

4.どうなったのか
1)虫歯や歯痛や出血などがほとんどなくなった
2)歯がきれいになった、口の中も
3)奥歯は抜歯しているが前歯は25本健在
4)自分で言うのも何だが、72歳で未だに口元がきれい、同年代の人は汚い人が多い
5)何はさておき食事がスムースに出来るのが一番嬉しい
6)入れ歯や差し歯がない、深刻な歯周病もない
7)口の中がきれい、臭くもない、口内炎もない

5.一体なにが原因で出来なかったのか
1)歯が大事なこと、特に長生きするのに不可欠である認識や自覚が乏しかった
2)まだ若いという甘え、堕落があった、歯なんか悪くなったら歯医者に行けば直る
3)正しい歯磨きのルールが決まっていなかった、日本人の歯磨き教育がお粗末
4)若さがあったためにきちんと実行を継続しようとしてなかった
5)歯磨きの仕方を抜本的に見直し、工夫しきちんと磨けるようすべきなのだが
6)歯茎に食べかすがはさまっているのは絶対に駄目

6.何が良かったのか
1)正しい歯磨きのルールを決めた 2)間食をしないというルールを厳格に守った
3)いろいろな歯磨き道具を使った   4)食間でも時々うがいをする
5)歳とっても歯がそろっていることを明確に目標設定した
6)合理的にきちんと歯や口の中を清潔に維持すれうようにした
7)歳のせいで就寝時にドライマウスになったが口の中が綺麗なので症状が出ない

7.提言 一日4回磨き+間食なし+口呼吸なし+丁寧磨き
1)単に磨けば良いのではない、歯磨きが極めていい加減、時間、回数、道具、方法
2)何しろ、グタグタ言わずに、馬鹿にせず、真面目に真剣に続ける高齢化を乗り切る
3)喫煙同様に駄目な歯磨きのためにどれだけ健康に悪いかを強く認識・自覚する
4)間食を絶対に止める   5)歯磨きも重要だが、口の中の清潔維持も大事
6)歯が汚い・舌が汚い、歯間にカスがつまっている、虫歯がある、隙間が大きいは駄目
7)歯が汚い、虫歯や歯抜けの多い人は信頼できない、信頼してはならない


   

村上原基の出来た・出来ます。NO.2長年しつこかった花粉症が鼻炎を直すことで、起きなくなった

2016-03-09 16:41:44 | 不可能を可能に
出来た・出来ます骨子掲載開始   ⇒指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
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台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談や出来ない相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ
骨子について指導や講演を依頼したい場合⇒依頼ホームページへ

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氏 名:村上和隆   年 齢:72歳 男 出身県:東京都  現在地:滋賀県高島市
最終学歴:東京工業大学    企業歴:大手M電器、E工業、中堅R社、Tコンサル会社

テーマ:長年あれだけしつこかった花粉症が鼻炎を直すことで、ここ5年起きなくなった

概要
1.過去はどうだったか
戦時中にジフテリア病のせいで鼻が委縮し幼少時は慢性鼻炎、中学生に手術をし
左鼻は通ったが、鼻炎は直らなかった、その後45歳からきつい花粉症になった
就寝時は鼻が完全に詰まってしまい、口呼吸が68歳くらいまで長い間続いた
ひどいクシャミや鼻詰まりなど定例で耳鼻咽喉科に駆け込む。  父の鼻の遺伝も一因
花粉が飛び出すと同時に凄まじい状況で、耳鼻咽喉科へ駆け込みが年中行事
花粉症の元である鼻炎とは東京から京都まで耳鼻咽喉科とも長い付き合いだった

2.どういうきかっけがあったか(きっかけが意外と重要な鍵)
50歳くらいに禁煙した、そして60歳の頃から、自己流で対策を開始した
急に良くなったというよりじわじわ良くなって今73歳では鼻炎は全く起きてない
過去の鼻炎対策は間違っていたのだろう、新たに独自に鼻炎対策+花粉症対策を始め
続けて、ここ5年くらいで徐々に効果が出てきたので、その努力の結果と推測している

3.どうしたのか、何をしたのか
まず鼻炎対策
1)それ以前にたばこを50歳の時に全面禁止し禁煙を続けて今に至っている
2)夜寝る時に鼻の粘膜の乾燥防止に紙マスクをして寝るようになった
3)酒を飲み過ぎると鼻炎になり易い、そこで毎日の晩酌もおちょこ一杯と少しにした
4)鼻詰りの時に点鼻薬を使用していたが、どうも良くないので全く使わなくなった
そして花粉症対策
5)花粉の時期は紙マスクと花粉防止+ドライアイ防止の専用眼鏡をかける
6)18年前からきれいな空気の山暮らしや毎日運動を続けたのも効いているかも

4.どうなったのか
1)毎年高齢の花粉時期の耳鼻咽喉科通いが全くなくなった
2)花粉症のため時期の鼻水・くしゃみ・目のかゆさが嘘のように無くなった
3)花粉の時期だけでなく一年中鼻づまりがほとんどなくなった
4)いろいろな対策のせいで、就寝時のしつこい鼻づまりがほとんど解消した
ということであれほどひどかった鼻炎、医者通い、鼻つまり花粉症など全面的に解消した

5.一体なにが原因で出来なかったのか
1)花粉症は耳鼻咽喉科に行って直すという依存の認識    2)過度なエアコン依存
3)深酒をすると確実に鼻がつまる  4)喫煙は確実に鼻炎を悪化させる
5)冬の乾燥時期に鼻の粘膜を乾燥させていた。顔、目、鼻、口の乾燥は最悪
6)花粉の時期の前12月頃から鼻炎予防や花粉予防をしなかった
7)しつこい鼻炎を直さずに、花粉症を医者と薬ばかりに依存していた
   花粉・喫煙・深酒・冬の乾燥・エアコン・鼻炎が原因のキーワード、意外に単純

6.何が良かったのか
たばこ、お酒・就寝時のマスク、特に冬からの乾燥対策、を総合的に続けたこと
鬱陶しいが冬場や寝る時に紙マスクをして乾燥対策、紙マスクの効用は大きい
冬は部屋でも厚着し、夏も冬もエアコンの部屋に入らない、エアコンを使わない
共通事項として1)適度の運動2)腹八分目3)栄養バランス3)ストレス減らす
鼻詰まり直す点鼻薬はほとんど使わないこと     冬はうがい励行
口と舌と歯と鼻と喉と全体の汚れ、炎症および乾燥を全体的にきっちり予防

7.提言
1)飲酒と喫煙は鼻炎悪化させ⇒花粉症悪化の原因⇒絶対に止める
2)深酒は、鼻の粘膜炎症や喉や目の粘膜の充血を必ず招く
3)冬11月からの乾燥対策、特に就寝時は乾燥がきついのでマスクで予防
4)エアコンは使わない、不可能な場合は夏も冬も紙マスクをしておく
5)とにかく一年を通じて自分自身の生活習慣を反省し鼻炎を真剣に直すこと

紙マスクは晩から早春まで夜寝る時につけます。眼鏡には花粉侵入防止具をセット
花粉の飛散時期には、昼間外出時は鼻の穴の中に装着するものを使用